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(18)ツワモノの社

 早朝からどれだけ歩き続けたのだろう。ずいぶん陽射しが膨らんできていたが、まだ太陽が真上から照らしていないのは影の大きさでわかる。それでも急がなければと、誰もが思っている。少し休みたかったが、ナナモも最後の力を振り絞るしかなかった。

 今にも崩れ落ちそうな岩肌をしばらく登ると、急に視界が開けたような赤土色の平地が拡がった。なぜこんな峰々が連なる山深い所で、ここだけがまるで山の頂上を切り取ったように木々がなくなり、赤土だけの平地になっているのかわからなかった。木簡に書かれていた通り、確かに小さな泉があって、まるで山自体がその身体の芯からゆっくりと絞り出しているかのような清水が湧き出ていた。

 ナナモとヤズとテズは、やっとこの地に着いたことに、何がしかの感動を覚えたが、男衆からは感情の欠片すらこぼれてはいなかった。

 寒さは全く感じなかったが、ずいぶん高く登ってきたはずだと、ナナモは雲の高さで感じた。

「さあ、兄者、救世主にタタラの窮地を唱えてくれ」

 ヤズはテズに促されたが、ヤズからは声が出なかった。

 テズに聖剣が奪われるのを拒んだからではない。ヤズが最初ここに来ようとしたのは、男衆がジャキに(さらわ)われ、ムズまでもがジャキに攫われ、ムラゲを継承する息子どころか、男衆もいなくなって、タタラの機能が失われていくと、本当に危惧したからだ。しかし、今は事情が異なる。ジャキに惑わされたとはいえ、アズが女性に扮したジャキを里村に導く手引きをして、成人の儀を終えてムラゲになるべき修業が始まる大事な時に、母親に会いに行こうとムズを誘った。テズはアズと協力し、ジャキにそそのかされ、ジャキに連れ去られた男衆とともに聖剣を手に入れ、万物の支配者となろうと企んでいる。ヤズも、ナナモ様と、救世主としてナナモを扱いながら、聖剣のことは黙っていて、ナナモの力を利用してムズを奪い返そうしている。

 皆が欲の塊だ。だからヤズがタタラの窮地を唱えてもそれは全て嘘になる。ジャキと一緒だ。たとえ聖剣が手に入ったとしてももはやヤズには、ジャキが近づいてきたことを見抜けない。だから聖剣だけでなく、ヤズが叫んだことですべてがジャキに奪われてしまう。ムズもヤズも男衆も、そしてナナモもだ。きっとジャキはどこかでその機会をうかがっているに違いない。だからヤズは声が出せなかったのだ。

 テズはそんなヤズの葛藤など関係ないという風にイライラしていた。何度も何度も、ヤズにタタラの窮地を唱えるように促してくる。しかし、ヤズは声を出さない。

 テズはついに刀を取り出すと、ナナモの喉元に突き付けた。

「こいつが死ぬぞ」

 ヤズはそれでもなかなか声を出せずにいた。ナナモは痛みを感じながらも、それ以上の痛みで葛藤するムラゲとしてのヤズの気持ちが、ひしひしと伝わってくる。 

 テズはきっとナナモをヤズは見捨てられないと見透かしている。それでも刃先を数ミリ動かした。ナナモの喉もとから血がゆっくりと流れ落ちていく。ナナモの意識はより鮮明になり、反対にここにあるすべての影が縮んでいく。カミは闇夜を嫌うのか。それとも人間の腹黒さを嫌うのか。太陽の日差しがナナモにのしかかってきた。

 その時だ。ナナモはその泉の向こう側にうっすらと宙に浮く大きな注連縄が目に入った。

 そうか。この泉は手水舎なのだ。

 身体を清め御祓いを済ませたものだけがあの注連縄をくぐれる。注連縄の向こう側は神域だ、今は平地に見えているだけで、その注連縄の奥には何かが(そび)えているに違いない。ジャキは聖域に入れない。だからナナモは喉元に刀を突き付けられていることなど忘れて、大声でヤズに叫んでいた。

「ヤズさん、その泉で、両手を洗い、口を漱いでください。そしてゆっくりと前に進んでください。太陽が真上に来るとヤズさんの影がなくなります。そうしたらそこで立ち止まって、今までの出来事をすべて包み隠さず救世主に伝えてください。ただし、絶対頼み事はしないでください。ありのままのことを言うだけでいいんですよ。欲を捨ててくださいね。ありのままですよ」

 ヤズはナナモの言う通りその泉で清めると歩き出した。しばらくするとヤズの姿は消えていった。

「あっ」と、テズは叫ぶだけで、身動きできない。

 急に疾風が赤土を舞い上げたかと思うと、あれほど晴天だった上空は、にわかに暗雲がたちこもり、雷鳴とともに閃光がこの平地に降り注いできた。平地は揺れ動き、よく見てみると泉がぐつぐつと泡を出しながら煮えたぎってきた。木簡の言う通り、泉から一滴の水も無くなった時、暗闇を押し広げるように視界が鮮明になり、ナナモが先ほど見た巨大な注連縄が今度ははっきりと見え、その向こう側に巨石が現れた。きっとテズも男衆にもそれらは見えているのだろう。その巨石の前でヤズが倒れていた。

 男衆の一人が慌ててヤズに近づこうとしたら、鎌鼬(かまいたち)が現れてあっという間に真っ二つにされた。それでも次々に男衆は近づこうとする。しかし、すぐに真っ二つにされる。ナナモは最初は目を逸らしたが、切り裂かれた男からは血しぶきは舞い上がらず、ただ肉片が横たわっているだけだった。きっとこれらの男衆はジャキそのものになってしまっていたのだ。でもテズも含めてまだジャキになっていない者もいる。だからナナモは大声で、「近づくな!」と、ありったけの大声で叫んだ。

 その声で正気に戻ったのか、ぶるぶると震えながら、その場にうずくまる男衆がいた。きっとジャキに惑わされていただけなのだろう。ナナモの声が聖なる意気となって、彼らの心からジャキの誘惑を蹴散らしたのかもしれない。

 しかし、テズはテズのままだ。テズは邪鬼に惑わさたのではない。テズはテズの信念で聖剣を手に入れようとしている。ジャキとは異なる。

「俺たちはヤズの所には行けないのか?」

 テズは感情のまるでない視線を、横たわる肉片に向けながらナナモに聞いた。

「僕だけならきっと行ける」

 ナナモは力強く答えた。

「どうしてだ?」

 テズはやっと刀尖をナナモの喉もとから放した。

「今朝、禊ぎをした」

 テズは干上がった泉を見つめながら初めて感情の断片を吐き捨てた。

「じゃあ、お前が聖剣をとってくるんだ」

 ナナモはテズから離れようとした。

「勾玉の首飾りと、背に担いでいる袋を置いていけ!無事聖剣が戻ってきたら交換だ」 

 テズが叫んだ。

「そんなものは要らない」

「嘘をつけ、首飾りがなければ帰れない。俺らははっきりと見たんだ。その勾玉の輝きを」

 ナナモはそれが勾玉の力だとは思っていない。きっとテズの言う通り勾玉は光っていたのだろう。けれどそれはカミナリの仕業だったのかもしれない。

「帰れなくてもいい。聖剣はタタラノ里を守り、ムズを取り返す為に必要だ」

 ナナモはとても落ち着いて静かに言った。

「それに聖剣には力が・・・」

 ナナモは今恐ろしいことを考えている。ナナモはだから大きく首を横に振った。

「もし、二人が聖剣を持ってこなかったり、俺にその聖剣を渡さなければ、俺はこいつらを切り殺す」

 テズは、もはや怯えて立ち上がることもできないタタラノ里の男衆に、刀を向けていた。

「仲間じゃないのか?」

「仲間?仲間など支配者には必要ない」

 ナナモはテズの言葉を振り切るように前に進んで行った。不思議だったが、自分も真っ二つにされるのではないかという邪念は全く湧いてこなかった。

「大丈夫ですか?」

 ナナモはヤズの身体を揺らした。ヤズは意識を失っていただけで、しばらくすると目をゆっくりと開けた。ナナモの顔を見るとほっとしたようだった。

「立ち上がれますか?」と、ナナモはそっと肩を貸した。ヤズは、「大丈夫です」と、それでもゆっくりと自分の力を確認していた。

「正直に話したのですね」

 ナナモの問いにヤズはどう答えていいのかわからないようだったが、ナナモはそれ以上のことを聞かなかった。

「勾玉の首飾りは?」

 ヤズはナナモのちょっとした変化にも気が付いたようだった。だからヤズには酷な話かもしれなかったが、テズとの今しがたの会話を正直に話した。

 ヤズは黙って聞いていたが、しばし目を閉じると、意を決したように、「なんとしても聖剣を見つけなければ」と、はっきりした声で言った。

「何か思い当たることはありますか?」

 二人はほぼ同時にそう思ったのだろう。顔を見合わせ、口元を開いたその瞬間は、落胆であり苦悩の始まりだった。

「何かヒントがあるはずです」

 ナナモはその巨石の前に立って、無心で手を合わせた後に、丹念にその石を眺めていたが、その巨石はうんとも寸とも言わない。当たり前と言えば当たり前だ。巨石はカミなのだ。

 でも本当にカミなのだろうか。ナナモにはなぜかそう思えなかった。渓流わきに横たわる岩に注連縄を見た時は、自然と手を合わせていたが、先ほどナナモが手を合わせた時には違和感を覚えた。言葉では説明しにくい感覚的なものだが、今目の前にある巨石からは、ままならぬものが感じられない。

 ナナモはその巨石を触ってみた。何かあるのではないかと、その岩をゆっくりと、それでも次第に大胆に触ってみた。ヤズの大丈夫ですか、という恐れ慄いている声が聞こえるが、ナナモはお構いなしだった。

 指先に神経を集中させる。そうすると、巨石の中央で、丁度ナナモの目の高さのところにへこみがあった。材質のことなる砂利で埋められていたのか、案外柔らかく、ナナモが掘り出すと、簡単にボロボロと剥がれ落ちて行く。

 手のひらサイズの円形に何やら模様が彫られていた。その模様は統一された石の色彩に埋没されて、よく見ないと浮かび上がっては来ない。ナナモは何か良い方法がないのだろうかと、ヤズに尋ねた。

「これを使うなんて恐れ多いことですが」と、ヤズは地面の赤土をひとつまみナナモに渡した。

 そうかそれをここに塗ればある程度の凹凸がはっきりするかもしれない。この巨石がカミならば、その行為は許されることではないのかもしれないが、ナナモにはそうではないという自信があった。だから赤土をその凹凸に軽く塗り込んだ。

 べったりと塗り込まないことで却って凹凸がはっきりした。ナナモはその円形模様を凝視するが、もう一歩で届きそうで届かない。そんなモヤモヤした気分が、ポケットに手を入れさせる。ポケットには鏡がある。ナナモは木簡を解読した時、鏡が役だったんです、とは言わなかった。だから、テズはナナモの鏡までは知らなかったんだ。ナナモは巨石を背にし、少し体をずらすと、見えにくかったが、何とか目を凝らして鏡に映るその模様を見つめた。

「この模様もどこかで見たことがある」

 ナナモは独り言をつぶやいた。明らかにカミヨ文字ではなかったが、独り言はナナモの脳の襞を谺し、次第にその音色を変えていく。この声は誰だろう?とナナモは過去を顧みた。

「あ、そうだ、ヤソナだ」と、ナナモはヤズの驚く顔をしり目に叫んでいた。

 ナナモは三角縁の鏡の裏側の模様を見た。ヤソナとそのことを部屋で話していたことを思い出したのだ。ナナモはもう一度鏡に映るその模様を確認すると。慌ててその赤土を取り出して、きれいに元の石色に戻した。そしてその鏡をそのへこみにはめ込んだ。

 鏡は太陽の光を反射するのではなくその光を吸収しているように思えた。ゆっくりと鏡を回転させる。四回目の時に今まで全く見えなかった岩の一部が扉のように開いた。

 ナナモは石壁の窪みから鏡を取り出しポケットにしまうと、ヤズと一緒にその中に入って行った。

ふたりが入るとその途端扉が閉まり、二人は暗闇の中に閉じ込められた。

 ナナモは身近にいるはずのヤズの姿さえ捉えられない。かと言ってナナモを前につき進めさせるほどの精気を今は感じなかった。

「ナナモ様ポケットが・・・」

 ナナモは鏡の入っているポケットを見た。そのズボンはやんわりと輝き始めていた。ヤズの顔もぼんやりだが確認できる。

 やはり、鏡は光を吸収していたんだ。ナナモがポケットから取り出すと、鏡は懐中電灯のように周囲を照らし出した。

 外観からは想像できないくらいの大きさで、凹凸の全くないきれいに磨かれた岩壁一面が、数十メートルに渡って立方体の巨大な空間として目の前に拡がっている。その空間にはなにもないのに、立っているだけで、まるで強大な生き物がゆっくりと動いているような圧迫感がある。

 ナナモはつい息を止めていた。

 ここに入る前は少し汗ばむほどだったのに、今では少しひんやりとする。しかし、静寂が出て行く隙間は全くない。きれいに削られた岩肌からは一滴さえも浮き出てこない。 

「やはりここはカミが宿した社なんだ」

 ナナモは、木々が生い茂る奥深い山林の頂上に、まるで石の採掘場の跡地のような、丸みの全くない人工的なこの場所を見て確信した。そしてカミはもはやここにはいない。救世主はタタラノ里に伝わる伝説のように、この場所に何かを残して去って行ったのだ。ナナモはヤズの顔を見てそう思った。

 ふたりはこの空間の丁度真ん中に立った。ナナモは鏡を四方八方に向けて照らした。何も映らない。何も起こらない。ただ静寂だけが時間を溶かしていく。

「座りませんか?」

 ヤズは、一本の蝋燭(ろうそく)程度に弱まった鏡からの灯りを前に、ナナモに言った。床も当然同じような石で出来ている。そうであるなら、ひんやりとするはずだ。しかし、ナナモが腰を降ろすと、気持ちよさそうな暖気が身体に染みこんでくる。

「ここには太陽も月も届かない。いったいなぜこんな宮殿にカミは聖剣を置いて行かれたのでしょうね」

 ヤズはすぐにでも聖剣を探し出したいと焦っているはずなのに、妙に落ち着いていた。

「僕は、以前、聖剣を残していった救世主は、ツワモノじゃないかと言いましたよね」

 ヤズは頷く。

「ツワモノは三人兄弟だったと聞いています。でも後の二人は灯りを手にしました」

「灯り?」

「太陽と月です。けれど灯りを与えられなかったツワモノは、暗闇の中に閉じ込められた。他の兄弟のもとに駆けよれば良かったのに、ツワモノはそうはしなかった」

「どうしてですか?」

「さあ、わかりません。おそらく自分からは行けなかったのでしょう。だって、ツワモノなのですから。けれど、ツワモノは暗闇の中で寂しかったんだと思います。どうして兄弟なのに自分に声を掛けてくれないんだ、なぜこんな暗闇に置き去りにするんだ、と思ったのかもしれません。そして、自分だけがのけ者にされていると、悩んでいたのかもしれません。だから兄弟を妬み、父を恨んだのでしょう」

 ヤズはナナモの話を静かに聞いている。

「ツワモノはどうしてツワモノと言われたか知っていますか?」

 ヤズは首をかしげる。

「灯りを与えられなかったツワモノは、一人だけ残されたようで無性に不安になった。だからいなくなった母に会いに行こうと地上の世界に下りてきたのです。そして手当たり次第に探し回った。そのおかげで山や川が出来たのかもしれません。けれど暗闇ではやはり母は探せない。だから自ら灯りを創造したのです」

「創造した?」

「そうです。ツワモノは予期しなかったのかもしれませんが、出来上がった自然はツワモノの手助けをしたのです。太陽でも月でもないのに、暗闇でも光り輝く灯りをです」

「それは火なのですか?だから、カミは夜中に松明に導かれて移動すると、我々は教えられてきたのでしょうか?」

「僕達はもはや火の恩恵をうけています。ケラづくりもそうでしょう。けれど、ツワモノが用いる灯りは、きっと山の噴火など、自然が作り出すものだと思います。僕達にはままならないものです」

「だったら、ツワモノが一番嫌な暗闇にどうして聖剣を置いて行ったんでしょう」

「ツワノモが救世主だとしても、暗闇の世界に聖剣を封印しなければならなかったのかもしれません」

「封印?なぜ封印しなければならなかったのですか?」

「聖剣が万物を支配するということをカミガミは許さないはずだからです」

 ナナモはそれ以上言わなかった。ヤズは苦悩の色を隠せないでいる。

 聖剣を探しにやってきた。里を、里の人を、そしてムズを救うためにやってきたのに、ナナモはそれをあきらめろと暗に言っている。

 鏡から発せられる灯りが段々と弱くなってきた。ナナモは自分で言っておきながら、ヤズとともにここに封印されるのかと、不安になってきたが、相変わらずヤズは落ちついている。

「ヤズさんはここに必ず聖剣があると信じておられるのですね」

「ナナモ様はそうは思われないのですか?」

「いや、僕もそう思います。けれど、ツワモノだとすると、そう簡単に聖剣を渡してはくれないような気がするのです」

「ナナモ様、私はムラゲとしてタタラを守らなければなりません。だから、テズに渡るくらいなら、聖剣がこのまま封印され続けてもいいと思っています」

「それでは、ムズさんや村の男衆はどうなるのです?」

「男衆はきっとわかってくれるはずです。タタラノ里のことを。それにムズは聖剣がなくてもきっと帰ってきます。私はムズを信じています。ムズはきっと目覚めてくれるでしょう。そして母はもはや生きていないことを理解して、邪鬼から必死で逃れる術を、自ら見つけてくれるに違いありません」

「失礼ですが、邪鬼はそんなに甘くはないと思いますが・・」

 邪鬼とは案外普通なのだ。だから怖い。だから今まで里に入ってきたことがわからなかったのだ。それにテズがまだ待っている。テズは邪鬼ではないが、邪鬼とは通じているかもしれない。

「救世主がすべてを・・・」

 ヤズはそれ以上言わなかった。

「もしかしてヤズさん、カミと取引したんじゃないでしょうね?自分の命と引き換えにタタラノ里を守ってくれるように、カミに持ちかけたんじゃないでしょうね。もしそうならいけないことだ。確かに僕はカミに頼み事をしてはいけないと言った。だからヤズさんはカミと取引したのなら、それはもっと良くないことだ」

 ヤズだから聖剣は渡されるかもしれないし、ヤズだから聖剣は渡されないかもしれない。いずれにしてもカミと取引したヤズはその時に命をとられるだろう。もし渡されなかったらヤズの取引は無駄になる。きっとそれでもいいんだとヤズは思って取引したのだろうが、そんなことは絶対に許されない。そもそもカミはままならない。ままならないものと取引は出来ないのだ。ナナモはヤズを睨みつけた。

「タタラには今ムラゲよりも救世主が必要なのです」と、ヤズの心の声が聞こえる。きっとヤズの信念は揺るがないだろうが、ナナモの信念も揺るがない。

 ヤズは黙っている。まるで精気を奪われたようだが、それでいて穏やかだ。

 ナナモは立ち上がった。物凄い熱気が身体から沸々と噴き出してくる。ナナモはそのまま自らが炎と化してしまいそうな勢いで叫んでいた。ヤズの信念を打ち消すほどの大声だった。

「救世主よ。いや、もしかしたらカミと呼ばれていたのかもしれないツワモノよ。ここに居るヤズさんはあなたと取引したかもしれない。けれどそれは許されないことだ。許されないことと知りながら、取引したのなら、もはや、聖剣をヤズさんに渡すつもりはないのだろう。だから僕はヤズさんと取引した。ヤズさんがカミとの取引をやめて僕が代わりにカミと取引すると。そして、僕が必ず聖剣を手にすると」

 ナナモはヤズを見た。ヤズは何も言わずにナナモを見ている。

 ヤズは大きくうなずき、そしてナナモは、今度は(うめ)くように叫んでいた。

「僕は救世主だ。僕との取引は対等だ。さあなんでもいいから言えばいい」

 その叫び声は、ヤズと話していた時の牛歩のような声色ではなく、龍が天空を駆け巡るようにこの石壁の空間に長く重く響き渡った。

 ナナモは鏡を持ち上げその光を天井に向けた。鏡からはこれまで見たことのないような強い一本の輝きで、この場所がちょうど太陽が真上に輝いていた時のような明るさをはじき出す。

 鏡からの光が壁の一部をうち壊したのか、一筋の閃光がこの空間に入り込んで来てナナモの正面の壁に三つ鳥居を映しだした。壁自体に変化はない。そこから先には何も通じていないような気もする。しかし、ここが聖剣へ続く道だとナナモは確信した。

「ヤズさん、いいですか。これから先にはヤズさんを行かせませんよ。僕が必ず聖剣は持って帰ってきますから。それまでここで待っていて下さい」

 ナナモはもはや振り返ることもなく、壁に吸い込まれるように入って行った。



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