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(16)タタラノ里

 これは何の匂いだろう。妙に懐かしい。だからと言って、具体的な記憶があるわけではない。

 そうだ。焦げた匂いだ。ナナモはやっと雷に打たれたことに気が付いた。誰かがその一歩手前で持ち上げてくれたように思ったのだが、それは思い違いであったらしい。だったら、これは自分の肉体が焼けた匂いになる。でもどうして懐かしいと思ったのだろう。肉体は焼けば灰になる。そして自然に帰っていく。だから懐かしいのだろうか。でも、もしそうなら、ナナモは怨霊にならなかったことになる。勿論ナナモはカミではない。だから最初からそうならないことはわかっていた。それなのにあの時なぜそう思ったのだろう。

 ナナモは目を開ける。瞳には水蒸気がやんわりと浮遊する様が映し出される。その一粒一粒は妖精のように、しきりにナナモにまとわりついてくるので、こそばゆい。

 地下の世界だと思っていたのに、周囲は精気に満ちた緑色の交差した山々に囲まれていた。夏期講習を行っていた竪穴式ではなく、茅葺き屋根ではあるが、柱のある建物がところどころに点在する。コーヒー豆を入れる麻袋のような布地で作られた衣服を着た人々が、田畑を耕し、織物をし、食事を作りと、仕事をしている。

 あの焦げる臭いはナナモではなかった。ナナモが今居る小高い場所から少し離れたその集落から漂ってきていた。でも何を焼いている匂いなのだろうか。

 ナナモはその匂いにつられるように、自分の肉体を確認しながら起き上ると、二人の男女の子供が近づいてきた。しかし、よく見ると、男性は髭を蓄え、女性には胸のふくらみがあり、その顔貌は全くの大人だった。でも背が低い。この二人が特別なのだろうか。

「ここはどこですか?」

 ナナモはごく自然に尋ねてみた。

「タタラですよ」

 決して忌み嫌っているとか、軽んじてぞんざいに扱おうとか、そういう素振りは微塵も見せずに、男の人は言った。

「タタラ?」

 ナナモが見て、感じて、そして頭で整理する限り、おそらくここは日本なのだろう。カミヨの時代とは言わないが、ずいぶん昔であるに違いない。それにたぶんタタラとは地名ではなさそうだ。

「かなり山奥ですけど、この里ではケラといって(はがね)を作っています」

 男の人は、今度ははっきりとした声だった。

「ケラ?」

 先ほどの匂いは、そのケラという鋼の匂いなのか。

「私達はこの里に住み、深い森たちの恵みを何とか管理しながら、これまで砂鉄を取り、ケラを創ってきました。ご存知かどうかはわかりませんが、その作業には大変多くの炭が必要で、そのために私達は、多くの木々をこの森から伐採しないといけません。伐採したところには、また木々が生い茂るように植林するのですが、きちんと育つまでには三十年以上かかります」

 山と森。この国を象徴する地形は、太古から無尽蔵にヒトビトの糧となっていたわけではなかったようだ。

「では、この焦げるような匂いは、ケラを作っているからですか?」

「いいえ、今はケラを作っていません。その匂いはきっと炭焼き小屋からだと思います」

 そうか。この匂いの懐かしさは森羅万象の弔いではなく、新たなる生への喜びなのかもしれない。ナナモは目の前の二人に遠慮することなく、大きく深呼吸をした。

「やっとお越しくださったのですね」

 男の人は、そんなしぐさを気にすることなく、じっとナナモを見つめながら言った。

「どういうことですか?それよりあなた方は僕を見て驚かないのですか?」

 彼らにナナモがどう映っているかはもはや意味はない。もうひとつの夏期講習が始まってから、もう何度もそのことを理解している。やはりナナモはハーフであることをどこかで気にしているのかもしれない。だからつい尋ねたのだが、彼らはそんな邪念すら抱かないのか、ありのままを受け入れようとしているし、反対に敬いのようなそぶりまで示してくれている。

「滅相もございません。なあ、お前」

 二人からはただ普通だという空気が流れてくるだけだ。

「僕と以前会ったことがありますか?」

 だから余計に思ったのかもしれない。ナナモはあるはずがないとはわかってはいても、そう聞かざるを得なかった。もちろん二人からは返答はない。それよりなぜここに来たのか、二人はその理由を話し始めた。

「今朝、川上から箸が流れてきたのです」

「ハシ?」

「そうです。食事の時に用いるあの箸です」

「箸と僕が関係あるのですか?」

「箸が川上から流れてきた時には救世主が現れるという伝説が、この里にはあるのです」

「伝説?」

「そうです。このタタラノ里で、皆が平和に暮らせているのは、かつてこの地に来られた救世主のおかげだと言い伝えられています」

「どういう言い伝えですか?」

「遥か昔の事なのでよくわかりませんが、恐ろしい魔物からこの里を守ってくれたと言われています」

 ナナモは確か?と、つい数日前までの夏期講習のことを思い出していた。ひよっとして、その話はコジキの話ではないか?

「その魔物とは、ヤマタのオロチのことですか?」

「ヤマタのオロチ?」

「そうです。あまたの頭を持った大蛇です」

「ダイジャとはヘビの事ですか?」

「そうです」

「巳様は、我々の里にカミがつかわされた使者です。そのようなことはありません」

 男の人はきっぱりと否定した。きっとここはカミヨの世界ではないのだろうが、その服装から現代とも思えない。

「でも、どうして僕だと思われたのですか?」

「首飾りです。勾玉の首飾りです」

「首飾り?」

「そう、あなた様が遠くから光って見えたのです」

 ナナモの首飾りは確かに光る。しかし、それは時を知らせる機能だ。その首飾りが自然に光ったのか?ナナモは二人を尻目に首飾りをしばし持ち上げて眺めていたが、いつしか自然と二人に誘われるがままに、川べりの道を、人々が集う里村に向かって歩き出していた。今まで気付かなかったが、その川面は赤かった。溶岩が流れているようなドロドロした灼熱感や、血しぶきのようなおどろおどろしい恐怖感はなかった。それどころか、その清澄は、限りなくナナモが見慣れている青々しい川面に近かった。

「もし、私が救世主なら皆に会うのはよしましょう」

 丁度もう少しで村に入るという手前でナナモは言った。そして、二人に、神社はないですか?と、尋ねた。救世主だとしたら皆が騒ぎ立てるし、その事情を二人からまず聞きたかったからだ。

 二人は意外にもナナモの提案に抗おうとしなかった。むしろほっとしているようにも見えた。

 三人はゆっくりとこの里村を迂回するように鳥居の前に着いた。ナナモはいつものように一礼する。しかし、二人はそのまま通り過ぎた。小さな社は丁度大きな鎮守の森で囲まれていたので、三人は腰を降ろした。

 ナナモだと名乗ると、男の人はテヅと、女の人はアヅと名乗ってくれた。

「私は、このタタラでムラゲをしている兄の手伝いをしています」

「ムラゲ?」

「ケラを取り出す作業を指揮するものです」

「ムラゲは一子相伝で、兄には一人息子、つまり私にすれば甥がいたのですが、連れさられたのです」

「連れさられた?」

「ここ数年男衆がこの村から消え去っていたので注意はしていたのですが、若者は時として、こういう閉鎖された社会から飛び出したい時があるので仕方がないなとも思っていたのです。けれど、ムラゲはそういうわけにはいかないし、そういう育て方はしていません。甥もそういう覚悟でいましたので、勝手にこの村を出て行くということは考えられません。ただ、お姉さん、つまり甥の母親は早くに亡くなったものですから、ひよっとしたら母親に成りすましたジャキ(邪鬼)に惑わされたかもしれません」

「ジャキ?」

「モノノケの一種だと言われていますが、その正体は我々にもよくわからないのです」

 ナナモはモノノケと聞いて不安な気持ちになった。

「言い伝えでは、理不尽に抑圧し搾取していた里の支配者からこの里を救ってくれた救世主が去る前に、この世で一番質の良いケラを作ってくださったと聞いています。そして、もし誰かがもう一度この里を苦しめるようなことをしようものなら、そのケラで刀を作れば良い。その一太刀はきっと千里の岩をも切り裂くであろうと、言われたのです。けれど、カミの御加護なのか、救世主がカミだったのか、そのケラが隠されているであろう場所を書き記した木簡を村人たちが代々守り続けてからは、この里に一度もジャキは現れませんでした。ところが我々が油断したのでしょうか。ジャキは獰猛な魔物ではなく、優しげな女性に姿を変え、男衆に近づくように現れたのです。男衆がいないと、砂鉄からケラを作るどころか、木の伐採や炭づくりなどもできなくなります」

 ナナモは黙って二人を見つめた。

「甥が連れ去られてからしばらくすると、初めてそのケラを差し出すように、さもなければ甥の命どころか、これからもっともっと男衆を攫っていくと脅かしてきたのです」

「でもどうしてジャキはケラが必要になったのでしょう?」

「私達はもはや無縁ですが、おそらく物凄い力が得られるからでしょう。そしてその力が必要になった者がいるのでしょう」

「でももはや村人さえ忘れてしまったような逸話を誰が邪鬼に告げたのでしょうか?」

「さあ、わかりません」

 テヅはナナモから視線を少しだけずらした。

「それではその木簡を頼りにケラを見つければいいんじゃないですか?」

「我々にはそこに何が書かれているのかわからないのです」

「わからない?読めないのですか?」

「いいえ、何もここには記されていないのです。これは想像ですが、兄が言うのには、救世主でないと、文字自体も見えないのかもしれないのではないかと」

 ヒトビトが里を作ってからは、カミからの言い伝えは、その文字の形態とともに薄れてしまったのかもしれない。ナナモはそんな気がした。

「あなた様、いやナナモ様の姿を遠くから見つけて、いてもたってもいられなくて、こうして持ち出してきたのです」

 古代では、紙の代わりに木に直接文字を記していたらしいが、ナナモは木簡を見るのは初めてだった。

「わかりました。見せてもらいまいます。日が暮れるまでここに居ますから、あとで迎えに来てください」

 ナナモは、この世界が創られた時から飄然と佇む(くすのき)の大木の幹のそばに座り、二人がここから去る前に渡してくれた木簡を眺めていた。

 二人には見えないという木簡には、確かに何かが綴られている。カミヨ文字のように見えるが、ナナモは文章どころか文字すら理解できなかった。以前、参考書を読んでいた時も途方に暮れかけたが、あの時はキョウコやカリンがいた。参考書自体がヒントを示してくれた。しかし、今は一人だ。唯一の手掛かりと言えば、かつて魔物からこの里村を救ってくれたという言い伝えだけにすぎない。

 ナナモはあの二人から救世主だと思われている。けっして自らそう認めたわけではないが、きちんと否定しなかった。それにこの格好だ。確かに勾玉の首飾りも付けている。もし、コジキの逸話のことなら、そのツワモノはカミであり、ナナモとは比べ物にならないくらいの勇猛と英知が備わっている。ナナモとは雲泥の差どころか、そもそも次元が違いすぎる。単純に言って、ナナモはカミではないのだ。カミはこの木簡を、カミの言葉としてヒトビトに残されたのかもしれない。だったら、きっと何かこの文章を解読するヒントが、この木簡には備わっているはずだ。

 ナナモはあの参考書の時と同じように、はしたないとは思ったが自分の体液を落としてみた。しかし、何かが浮かびあがってくるということはなかった。だからその木簡に清め水を少し掛けてみたり、手を合わしてみたりしてはみたが、一向にこの文字を解読することは出来なかった。

「ああ、どうしよう。二人は必ず戻ってくる」

 村人はきっと切羽詰まっているのだ。でも、この木簡の文字は読み取れない。正直に言ってしまおうかとも思ったが、言ってしまった瞬間に、二人はものすごく落胆するだろう。

 ナナモはこのまま逃げてしまおうかと思った。だいたいナナモはヤソナを探す為にここに来たのではない。ヤソナを探そうと思っていたら偶然連れてこられたのだ。だから、本来の目的に戻るためにこの場を離れることに戸惑いはないはずだ。かと言って、この場から離れてどこに行けばよいのだ。だいたいタタラとはどこなのだろうか。

 ナナモはあの時、雷さえ当たらなかったらと、後悔すると同時に、カミナリ?が何かのヒントになるのではないかと思った。木簡は木で出来ている。雷が当たれば一瞬にして炭になる。ナナモはだから妙に懐かしいとあの炭焼きの匂いを思ったのかもしれない。ナナモは雷に当たっても炭にならなかった。もしこの木簡がカミの書かれたものであるのなら、そう簡単に炭にはならないのかもしれない。それに何よりも炭にしたからと言って、その文字がどのように変わるかなんてわからない。何も確信のないことだ。ひよっとしたら何も変わらないどころか、炭ではなく灰になって、文字ともども風に吹かれて飛び散って、跡形も無くなるかもしれない。ナナモはもはや妄想だけと会話しているようだった。

 ナナモは、とりあえず二人が来たら、雷が当たればこの木簡の文字が浮かびあがるだろうと、言おうと思った。この里はどうやら地上の世界のようだ。そう簡単に雷など鳴らないだろう。もし雷が落ちたとしても、そのすきに逃げ出すしかない。

 もし偶然にも木簡が焼け焦げてしまったらと思って、ナナモは袋からノートとペンを取り出して、木簡の綴られている文字を丁寧に写し始めた。こうして始めての文字をノートに書き写していると、夏期講習を思い出す。ナナモはもはや戻れない。そういう悲しみがその一語一語に込められる。

 ナナモの瞳が涙で曇ったのだろうか?その時にふと奇妙な気がした。この奇妙な文字をどこかで見たような、それでいて見なかったような不思議さが漂よった。だからその文字の一つを大きく引き伸ばすように、ノートの一ページに書いてみた。そしてもう一度よく見てみる。じっと、見てみる。

 ナナモはポットから鏡を取り出して座った。そして、その大きな文字が書かれたノートを、自分のお腹の所に立てかけてその鏡を覗いた。

「ああ、そう言うことか。どうして気が付かなかったのだろう」

 ナナモは自分のバカさ加減に腹が立った。木簡の文字はすべて逆に書かれてあったのだ。だからナナモはカミヨ文字のようだと最初思えたのだが、その微妙な違いと、ひよっとしたら救世主はカミなのではないかという先入観で、もっと古代の特殊な文字だと勝手に決めつけていたのだ。

 カミナリなんて関係ない。ナナモは小躍りするような気分で一杯だった。これで二人に木簡に書かれている内容を話せると安堵した。

 ナナモはあわててその木簡の文字を鏡に映しながら、急いでノートに書き写す。しかし、すべて書き写し、あ、い、う、え、おと、その文字は読めるのに、カミヨ文字で書かれた文章どころか、綴られた言葉は全く意味を持たなかった。

 そう簡単にはいかないのだ。そうだろうな。相手はツワノモなのだ。

 ナナモはまた落胆する。せっかく、夏期講習の知識が役だったのに、それがもう少しの所で生かせないのだ。

 以前のナナモならイライラしてすぐにあきらめていただろうが、今のナナモはそうではない。あきらめる前に基本にもどりなさいと、どこからか、ミチおばさんの声がする。

 ナナモは何度も木簡の文字を鏡に映した。きちんと書き写しているか確認した。しかし、何度見ても間違いはない。いやきっと、文字には何かのヒントが隠されている。それを見逃しているだけだ。ナナモはカミヨ文字をもう何回も見てきた。ヤソナに最初に教えてもらってから、その後も自分で何度も読み書きしてきた。試験に出ないからと言って手を抜いていたわけではない。

 しかし、文字は文字以上の意味を持たない。何かのヒントを生み出してはくれなかった。

 ナナモはあの時もそうだったと、夏期講習の時を思い出していた。三人で夜空を見ながら色々と話し合っていたことを懐かしんだ。ヤソナを連れて帰ると二人に黙って夏期講習から抜け出してきたのに、ヤソナを見つけるどころか、その手がかりさえつかめていない。早く木簡の言葉を二人に伝えて、ここを立ち去ろうと思っていたのに、こんなところで何をやっているんだろうと、気が滅入ってくる。

 そんなナナモをあざ笑うかのように西日が黄金色の刃となって、ナナモに突き刺さってきた。決して刺さりはしないのだろうに、なぜか痛みがでる。ナナモは、だからその木簡で西日を遮った。気休めかもしれないが、木簡は西日を砕いて、まるで三人であの時に見た星々の輝きのように、優しくナナモを包んでくれた。

 ナナモはその星々を眺めながら、その星々の輝き方が異なっているのに気が付いた。星々には等級の違いで明るさが異なると習った。ナナモは木簡をもう一度見てみる。文字ばかりに気をとられていたが、本質は木簡にある。木簡自体をもう少し詳しく見ないといけないのだ。

 ナナモはもう一度木簡を西日に照らした。カミヨ文字の書かれている横に小さな穴が開いている。さっき星々のように輝いていると思ったのはその穴から光が差し込んでいたからだ。それも文字によって微妙に明るさが異なっている。だから、ナナモは同じ明るさだけの文字を集めた。そうすると、ずいぶん知っていそうな言葉が綴られるようになったが、まだ、しっくりといかない。まだなにかある。  

 ナナモはもう一度その木簡に対峙する。

 この木簡には、日が差し込み、星々が輝きだした。あと、何が足らないのだろう。

 ナナモはもう一度考える。ツワノモは何を恐れ、何を創りだしたのか、考えてみる。

 頭が割れそうなのに、何かがそこから出てきそうなのに、なかなか出てこない。息苦しささえ感じるのに目はらんらんと輝く。

 ナナモは、そうだと、ナナモにだけ見えた月を思い出す。陽と月。陽は星を創った。では月は?いや反対だ、何かに月は創られるのだ。でもそれは何だろう。

 ナナモはもう一度木簡を見てみる。西日の反対の方向に木簡を向けて、眩しくないようにしてその木簡を見てみる。あの穴からは星々の明るさは消えていた。しかし、反対に木簡をはっきりと際立たせる。単純に大きさの違いだろうと思っていたその穴は、奇妙な形をしていた。ナナモは目を細め、執拗にその穴の形を確かめた。その穴は月の満ち欠けを示していた。そうか、だから、明るさが違っていたんだ。

 ナナモは月の満ち欠けに言葉を合わせていく。やっとそれらしきものが見えてくる。三人で参考書のメッセージを考えていた時とは違い、言葉自体の意味はなんとなく伝わってくる。しかし、やはり現代の文体ではなさそうだ。ナナモは、目を閉じて冷静に何かを考えていた。あの時はわからないといってすぐにあきらめて夏期講習の場から出てきてしまったのに、今は何かが浮かびあってきそうな気がする。何だろう?いや誰だろう。ヤソナ?いや違う。アヤベ?そう、それはアヤベの言葉だ。アヤベはコトシロだと自分のことを言っていた。コトシロはカミの託宣を伝えるだけだと言っていた。

 そうだ。だから、あとはナナモがカミの託宣を現代語に訳せばいい。それはひよっとしたら言葉そのものの意味を薄めてしまうかもしれないが、。カミは言葉よりもっと重く、もっと強い意志を示しているはずだ。きっとツワモノも同じに違いない。

 ナナモはカミの託宣を繰り返し繰り返し暗唱した。西日が消え、木簡から星々と月を奪っていき、傍らにテズが佇んでいても、ナナモは全くその行為をやめなかった。

 

 ナナモは、テズの兄の家、すなわちムラげであるヤズの家に迎えられた。ムラゲであるヤズの屋敷は大きかったが、今は一人で暮らしているのか閑散としていた。アズが手伝いに来ていて、ナナモのために料理を作ってくれた。ナナモにとって久しぶりの新鮮で温かみのあるその料理は、やさしい喉越しだった。

「息子は魔が差したに違いありません。いや、私が追い込んだのかもしれません」

 ヤズの目頭は熱くなっていた。ヤズの息子は何か悩みを抱えていたらしい。しかし、ムラげになるための修行がある。邪念を捨てなければならない。だから一切をヤズは受け入れなかったようだ。もし母親がいたら相談できたのですがと、ヤズはそれ以上語らずただ奥歯をかみしめるだけだった。

「息子さんは何歳なんですか?」

「十二歳です。来年は成人の儀を迎えます」

 ナナモは自分のことを思い出す。あの時はまだまだ子供だった。

「息子さんの名前は?」

 もしかしたらヤソナではないかと思ったからだ。

「ムズです」

 何か強い意志がナナモにそう確信させたはずなのに、ヤズははっきりと言った。その語気はそれ以上の強い意志でナナモの落胆を一瞬にして吹き飛ばした。ヤズにとっては救世主であるナナモの事より、失踪して行方が分からなくなったムズの事が大切だし、救世主の出現より木簡の解読の方が重要だった。

 食事が終わりそのことが手に取るように分かったので、囲炉裏を囲みながら、ナナモは暗唱した内容を、わざと仰々しく木簡を見ながら話し始めた。

「赤い川面に沿って、山深い草木や岩場をかき分けてさかのぼっていくと、清水が湧き出る泉のほとりにたどり着く。太陽がその泉を真上から照らす時、心からいま起きようとしている窮地について述べると、その泉は干からび、聖なるケラの眠る祠へと導かれるであろう」

 ナナモは息継ぎひとつせず、一気に語った。

 ヤズとテズとアズは、黙ってその言葉を聞いていたが、表情からは苦悶の色が隠しきれなかった。

「でも、私までもここを離れると村人達はもっと不安になりますね」

 ムラゲとはそういうものなのだ。たとえケラを作っていなくとも、タタラを離れるわけにはいかない。そういう運命を背負っている。

「この里村では祭りはしますか?」

 ナナモはヤズにそう聞いた。

「祭りとは祭祀のことですか?」

「サイシとは何ですか?」

「カミガミを祭る儀式のことです」

 きっと、ナナモが想像する、踊れ歌えやと、大太鼓を囲んだ陽気な祭りとは行なるのだろうが、ナナモが知る祭りが豊作を感謝する儀式ととらえれば、カミとはあながち無縁ではない。

「だったら救世主が来たと言って祭祀を開いてください」

「わかりました」

「ところでその祭祀では何か音を鳴らしますか?」

「はい。銅鐸を鳴らします」

 ナナモは教科書で青銅器として作られた鐘のような古代の楽器を見たことがある。大きいものでは1メートルを超し、表面には文様すなわち何等かの模様が施されている。確かに厳かで、祭祀の時に使われてもおかしくはない。

「働き盛りの男衆を集めて、祭祀を出来るだけ大々的に行ってください。それに、出来るだけ華やかな衣装を用意してください。そうすれば、ジャキはその華やかさに、女性としてとどまってくれるに違いないし、時間稼ぎが出来ます」

 ナナモはそうは言ったものの、まだ日が昇る前に起きると、手紙を置いてあの神社に行った。もはや夏期講習は終わっていたが、ナナモは参拝しようと思ったからだ。きっと日が昇れば三人がそれぞれの役割を果たし始めるだろう。そういう中にナナモが居るのは却って不都合な気がした。だから、ここで待っていますと、そう言う意味も含んでいた。

 里村から離れた神社でナナモは一人でいた。日は昇り始め、少しずつ緑葉を温めながら濃くしていく。しかし、もたれかかったあの樟の幹は、少しも体温を上げたりはしない。きっと自分の精気を周囲に分け与えているからに違いない。

 ナナモは樟に背を預けながら三人を待っていた。ポケットから鏡を取り出し、自分の顔を見てみる。

やはりジェームズ・ナナモだ。救世主でもないし、カミでもない。夏期講習を受けに来たハーフの青年だ。それだけだ。だのになぜここに居るのだろう。ここで何をするのだろう。ナナモはまた不安な気持ちになる。木簡は解読したのだ。ナナモの役割は終わっている。もはや彼らに付き合う必要はない。


 ナナモはそのうち眠ってしまっていたのだろうか、体を大きく揺すられ起き上がった。目の前にはヤズがいた。ナナモはやっと来てくれたのかと思った。確かに里村から離れた場所なのに、聞きなれない共鳴音が響いてくる。そうか、祭祀が始まったのだ。

「うまく抜け出せたのですね」

 ナナモが言うと、ヤズは黙って頷く。しかし、なぜか眉間には皺が寄っている。

「何かあったのですか?」

「ここの木漏れ日は優しいですね」

 何を言いだすのかと思ったが、確かに日が昇りだした時に寝入ったのだが、その時は木漏れ日は鋭く、何本もはっきりと斜めにその刃を地面に突き刺していた。今はその刃は影も形もない。かえって鎮守の森をはっきりと太陽自身が映し出している。

「太陽がもう真上なのですね」

 ナナモはどれほど眠っていたのだろうか?

「いや、もうすでに西に傾き始めています」

 それは仕方がないことだ。テズ達も準備があったのだろうし、朝早くに出かけたとしてもすぐにあの場所にたどり着くとは限らない。ナナモはゆっくり出かけましょうと、言ったが、ヤズはそうではないのだとかぶりを振る。

「まさかと思うんですが、テズはジャキに惑わされているのかもしれません」

「どうして?それに、ジャキは女性だと」

「そうです。ジャキは女性です。なかなかテズが来ないのでテズの家に行ったんです。そうしたらアズが倒れていて」

 ナナモは最初命を奪われたのかと思ったが、そうではなく意識を失っていただけだという。ヤズは倒れているアズにテズのことを聞いたらしいが、なんのことかわからないと、アズは心配そうな顔でヤズを見ているだけだった。祭場へ行くと、テズが祭祀の面を被った男衆とともにナナモを迎えに行ったという。しかし、なかなか戻ってこない。それでここに来たのだと、ヤズは説明してくれた。

「もし、聖なるケラを創ったのが僕の創造する救世主だったら、その救世主はカミであるどころかツワモノになります」

「ツワモノ?」

「そうです。そのツワモノが、ままならないものこそがカミであると最初にヒトビトに示したのだと僕は思っています。そしてツワモノは獰猛で、それでいて千里眼を持っていると言われています。だから、いくら狡猾に近づいても邪念を見破られてテズさんは叩き切られるかもしれません。それどころか、怒りでケラ自体を葬ってしまうかもしれません。そうすると息子さんと弟さんの二人とも失うことになります」

「それではどうすれば?」

「ここはカミの社への入り口です。カミを信じることはあっても頼みごとをしてはいけないと言われています。けれどヒトは弱いものです。ヒトはしてはいけないことをしてしまうものです。それにカミへの頼み事は誰にも迷惑は掛かりません。だからここで無心の訴えを願ってもかまわないと僕は思います」

 ヤズはさすがにムラゲだ。最初はナナモにすがるような不安を見せていたが、今は全くそんなことは感じられない。だからその信念は固く手を合わす姿に色濃く表れていた。

「急ぎましょう」

 ナナモからは、夢か現実かはさておき、その迷いは、大きく村全体を包み込んでいる鐘の音にすでにかき消されていた。



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