(15)開かれた参考書
昨日のことが嘘のようにナナモはいつも通りすっきりと目覚めた。隣を見る。やはりヤソナはいなかった。失望感はあまり湧かなかった。ある程度予想されていたからだ。しかし、これで夢でないことがわかる。そのことはナナモを鼓舞させた。
朝の参拝でキョウコとカリンに会ったが、ナナモが軽く首を横に振り、ヤソナが帰ってきていないことを伝えると、それ以上のことを尋ねてこなかった。
参拝を済ませ、朝食をとり、夏期講習に向かったが、オホノからは何も言われなかった。この教室の中ではヤソナがいなくなったことを皆が薄々は感じている。しかし、ここは講習を受ける場であって学校ではない。だから皆が騒ぎ立ててナナモに近づいてきたり、オホノに詰め寄ったりするということは、少し寂しい気もしたが全くなかった。
睡眠不足と相まって多少の疲れがナナモの行動を規制するのかとも思ったが、だるさも感じないで、むしろやるべきことを淡々とこなしていた。ナナモは夏期講習を受け、その予習復習をできるだけ効率よくこなすと、それ以外の余った時間は、あの参考書を食い入るように何度も読んでいた。
カミヨ文字で書かれたコジキの原本だと最初思っていたが、そこには国譲りが行われるまでの期間しか記されていなかった。だからと言ってほんの数ページというものではなく、ナナモが以前読んだコジキの書物よりも、多くのエピソードとその解説が書かれてあった。時々見慣れぬカミヨ文字が邪魔をすることがあったが、ナナモは憑りつかれたように参考書を肌身から離さなかった。
ヤソナはヒラサカに興味があったことは確かだ。ナナモは参考書を見るたびにそう思った。この参考書のどの部分に刺激されたのかはまだわからない。疑い深い箇所は多々あるが、もう一度読めばたいしたことではないようにも思える。どれもこれもカミヨの出来事だ。そのひとつひとつは劇的だが、それらをすべて鵜呑みにはできないし、同じようにヤソナが行動できるとも限らない。そんな思考の繰り返しをしていると、本当にヤソナは図書館でこの参考書を見ていたのだろうかと、キョウコの言葉すらも信じられなくなる。
ナナモはそれでもこの参考書から離れられなかった。ヤソナのこととともにオホナモチについての記述があったからだ。オホナモチは兄弟にいじめられて二度死んでいる。そして二度母に助けられ生き返っている。さぞかし母に感謝しているだろうと思うのに、まるで記憶が無くなっているかのようにオホナモチの母への想いは記されていない。それにオホナモチは皆が憧れるはずもないと思っていた姫に選ばれる。だから兄弟にいじめられたという。でも本当にそうなのだろうか。
ナナモもいじめられ、自ら命を絶とうとした。しかし、今こうして生きている。だからナナモは継承者の候補になったのだろうか?もしそうならなんだか悲しい。そして自分は誰なんだろうと途方に暮れてしまう。
ナナモのまなこが参考書に刷り込まれるようになって、夏期講習の予習復習もしなくなって、ヤソナのことも忘れてしまって、もはや時間の感覚も麻痺したこともわからなくなったある日の朝、もうじき参拝の時間なのに、ナナモは参考書に顔を伏せてうとうととしていた。
「起きるのですよ」
ナナモは、かすかな記憶の中で、蘇ってくる母の声を聞いた。その声は穏やかで優しかったが、まっすぐな芯をもった矢じりのようにナナモに突き刺さってきた。
ナナモはハッとして目覚めた。
目の前には開かれた参考書。涎でも垂らしていたのか、変色したページには、ヨミの国でイザナミが生んだカミナリの子供たちが連座していた。ナナモはここを何度も読み返しているが、変色していたこのページには、明らかに誰かが書き足したカミヨ文字が小さく浮かびあがっていた。
でもなんて書いてあるのだろう。ヤソナに初めてカミヨ文字を教えてもらってから、もうずいぶん見慣れているはずなのに、その意味が分からない。ヤソナはナナモに黙っていたことがあったのだろうか。ナナモは急いで身支度を整えると、まだ時間は早かったが、いてもたってもいられなかったので、危うく忘れそうになっていた参拝に出かけた。
ナナモはキョウコとカリンが来るのを待っていて、このことをすぐにでも話したかったが、黙して参拝していると心静かな気持ちが戻ってきた。だから久しぶりに午前午後の授業を集中して聞くことが出来た。
オホノが午後の講義が終了したことを告げると、逸る気持ちを押し殺して夕食をとり、もう一度自分なりに頭の中で整理した後に、図書館に向かった。
図書館にはキョウコとカリンだけがいた。
「なにかヒントをつかんだのね」
二人もあの日から落ち着かない日々を過ごしていたらしい。だから図書館にいつナナモが現れるのかと心待ちにしていた。
ナナモは変色したそのページを二人に見せた。まさか自分の涎だと言えなかったので、お茶をこぼしたら浮かびあがってきたんだと嘘をついた。
「ねえ、このカミヨ文字わかる?」
ナナモはすぐに聞いた。二人はしばらく眺めていたが、カリンがひよっとしてこれって、とキョウコを見たが、キョウコの頷きを見て、ナナモに言った。
「方言が混ざっているんじゃないの?」
ナナモはびっくりしてもう一度その文字を見た。確かに見慣れない文字ではない。
「方言ってどこの?」
「私達に聞く?」
キョウコがルーシーなら確かにそうだろう。でも反対にカリンがカリンならナナモの質問はあながち間違ってはいない。
「オホノ先生に聞いてみる?」
カリンが言った。
「ダメだ。絶対ダメ」
ナナモは特に自分では意識していなかったが、二人が静かにっていうしぐさを見せたので、相当大きな声で叫んでいたのかもしれない。
「オホノ先生に相談したら、ヤソナは二度とここに戻って来られないような気がするんだ。それに、僕はこの数日この参考書を読んでいて思ったんだけど、この参考書には人を惑わすような呪術が隠されているように思うんだ。だからもしヤソナもこの本を読んでいたとしたら、きっと僕と同じような感じになったんだと思う」
「呪術って?」
キョウコは怪訝な顔をする。
「ヤソナの弱みに誰かが付け入ろうとしたんだと思う」
ナナモは曖昧に言わざるを得なかった。
「だったら余計にヤソナが心配ね。でもこのカミヨ文字の内容がわからなければヤソナを探せないわよ」
カリンはそう言ったが、これと言っていいアイデアは出てこなかった。それでも何とか意味のありそうな言葉を三人は集めてみた。
ハハ、ウ、イカヅチ、サヒ、イカシ、タチ、クロカミ、ドシ。
「ねえ、これって、何かのメッセージじゃないの。ひよっとしたら、ヤソナが残していったのかもしれないわね」
カミヨ国語にまだ十分自信がなかったナナモは、キョウコの言葉にすぐに頷き返すことはできなかった。
「でもヤソナは何に惹かれてしまったのかしら?」
カリンは文字だけではなく、行間も読もうとしているのかもしれない。
「カミナリかもしれないわ」
「どうしてだい?」
「ヨミの国でイザナミから生まれたカミナリは、ヒラサカまでイザナギを追ってきたからよ」
キョウコの言葉ははっきりとした口調だった。
「ヤソナも同じように誰かを追っかけるようにお母さんから命じられたって言うのかい?」
ナナモの問いにキョウコははっきりとした理由を言えないようだった。
「だったら、やっぱりナナモの言う通り何かに惑わされたのかしら」
ハハはきっとお母さんという意味なのだろうと、ナナモは今朝のことから思った。だからカリンの言葉を聞いて、ヤソナが余計に心配になった。
「そう言えばヤソナがいなくなった日ってものすごい音がしていたわ」
カリンはあの日も星を見るために外に出ようとしたのだが、あまりの雷鳴で怖くなったのだ。
ナナモは三人で外に出た時のことを思い出した。ナナモにだけ月が見えたように、ヤソナにだけ何かが見えたのかもしれない。いや、ひよっとして誰かが巧妙にイナビカリに姿を変えて、ヤソナに近づいたのかもしれない。だったら誰なんだろう?それにもしそうなら、あのメッセージはヤソナからではないのかもしれない。
でもキョウコはそれ以外の言葉については何も語ってくれなかった。もし、あのメッセージがヤソナからのものだったら、何かの思いがあって、きっとナナモに大切なことを伝えたかったはずだ。それは何なのだろう?ナナモはそう思えば思うほど、もどかしくてしかたなかった。心の中から何かがぐつぐつと燃え上がってきて、体中が締め付けられ、押しつぶされそうなっていく。
ナナモは黙ってその文字を、何度も何度も繰り返し、執拗に追った。時間はカチカチと容赦なく過ぎていく。その無表情の囁きが、却ってイライラを募らせていく。ナナモはついに耐え切れなくなって、図書館を飛び出した。どこに行くの?と同じように図書館から出てきた二人の声が重なって聞こえてくる。ナナモはこの竪穴式住居の建物から一刻も早く外に出て、ヤソナを探しに行きたくなった。しかし、そうすれば、すぐには戻ってこられないような気がする。夏期講習を途中でやめることにもなる。二人を巻き込みたくはなかった。
「もう一晩部屋で考えてみるよ」
ナナモは立ち止まり、振り返ると、二人に穏やかな笑顔を見せた。
浴室に行き、シャワーを浴びると、まっさらな下着を身に着け、服を着替えた。首飾りをつけ、鏡をポケットに確認し、ここに来たときのあの金色の刺繍が施されている巾着袋を、リュックを担ぐように肩にかけると、部屋からゆっくりと出て行った。無性に振り返りたかったが、そうすると、もう涙で前が見えなくなると思って、懸命に歯を食いしばった。きっとヤソナはあの夢のようにナナモの過去にかかわっていると思う。そうならナナモにこれから予期せぬ災いがふりかかってくるかもしれない。だからと言って、オホナモチが兄からの試練を疑わなかったように、ヤソナのすべてを疑いたくはない。
夏期講習を途中でやめれば継承者の資格がなくなる。おじおばにもマギーにも申し訳ない気持ちで一杯だ。それにまたあの変わらない自分に戻るのだと思うとものすごくつらい。しかし、どうしてもヤソナを探しに行きたかったし、そうすることが大切なのだとナナモは強く思った。それはたとえ継承者にならなくても、これからのナナモのもう一つの人生には必要であると思ったからだ。もしかしたら、それはアヤベが言っていた欲なのかもしれない。ここでは欲は捨てなくてはならない。なぜなら皇家には欲はないように思えるからだ。いや持ってはいけないのかもしれない。だから皇家は貴いのだと、王家もそうでなくてはならないと、アヤベの声が聞こえる。しかし、ナナモは王家ではない。継承者ですらない。きっと継承者失格だと烙印を押されるだろうが、その意志が揺らぐことはなかった。今のナナモには、以前よりもっと継承者になりたいという思いが強かった。
外は真っ暗だった。一粒の星明かりさえ見えなかった。きっとナナモの心のように厚い雲で遮られているからなのだろう。ナナモの気合はともかく、この真夜中にどこに行ったらいいんだろうと、途方に暮れるしかなかった。
それでも前に進む。木々が風に揺れ、ざわざわと音を立てる。靴底を小さな石ころがこすってくる。虫たちの演奏や鳥獣たちのおしゃべりが木霊する。妙に涼しげな清らかさが、全身を優しく包み込んでくる。ナナモには今自然の営みがゆっくりと染みこんできていた。
ナナモの視界がゆっくりと開けてくる。今居る場所が急激に膨張する。すると、恥ずかしがって隠れていたかのように、雲間から月がゆっくりと姿を現した。
ナナモは夜空を見上げながらその所作を眺めた。
赤く染まった巨大な月だ。でもなんと美しいのだろう。ナナモはしばし見とれていた。
「何かが動いている」
ナナモはぽかんと口を開けていたのに、独り言をつぶやいていた。
月に何かが映っている。影なのか?でも白い。白い影なのか?
「あっ、ここに連れてきてくれたあのウサギだ」
ナナモの声が届いたのか、立ち上がり、耳をピンと立て、ナナモをじっと見ている。ナナモも大きくうなずく。そのしぐさを確認したのか、飛び跳ねながらゆっくりと進みだした。ナナモはついて行く。
どれくらい歩いたのだろうと、ナナモが思った時、ウサギはゆっくりと歩幅を狭め、そのうち月に同化していなくなった。
どこからか歌声が聞こえてくる。この暗闇に色を与えてくれそうな、それでいてどこまでも透き通った声だ。その歌声はナナモの不安を清掃し、穏やかな気分に回帰させてくれる。
ナナモはそれまで見上げていた視線をもとの高さにもどしてみた。
一人の少年が立っていた。
「ヤソナ?」
ナナモはそう自然に尋ねていた。しかし、よく見るとその少年は小さく、まだ小学校に入るか入らないかの背格好だった。
少年はじっとナナモの方に顔を向けている。ナナモも少年を見返している。お互いが動かないままでお見合いをしていた。でも何かが変だとナナモは思った。何故ならナナモの方を向いているのに、垂らした前髪からは目も鼻も口も耳も見えなかったからだ。
そうか、そういうモノノケなんだ。ナナモはアヤベの話を思い出していた。地上の世界と地下の世界をつなぐ中間の世界には、モノノケが住んでいると言っていた。モノノケにはオンリョウとヨウカイの二種類がある。ヨウカイは目に見えているのではなく、そう存在していると思っていることが存在として心に映っている。アヤベはそう言っていた。オンリョウははっきりとした形としては映らない。だったら、今ナナモの目に映っているのはヨウカイだ。でもだれの存在を認識しているのだろう。
「ねえ、ナナモ、本当にヤソナを探しに行くのかい?」
ナナモが誰だろうと考えていると、少年は前髪を搔き揚げながら話しかけてきた。ナナモがもう一度その少年の顔をよく見ると、輪郭がはっきりしてきた。目や鼻や耳や口が、十文字の傷痕に区切られながらも真っ白なカンバスに絵を描いたように浮かんできた。
「もしかしたらジュードじゃない?」
ナナモは反射的に言ったのだが、少年はナナモの質問には答えない。
「お姉さんが心配しているよ。まだきみと話し足りないって言ってたよ」
少年はまた首をひねり、しばらくナナモを見ていたが、
「つらいことが待っていると思うけど、本当に行くのかい?」と、ずいぶん甲高いが心地良い声で聞いてきた。
「じゃあ、きみはつらいことがあっても逃げるのかい?」
「ううん、僕は逃げたりしないよ」
「僕も同じさ」
ナナモは言い切ることが出来た自分が不思議だった。
少年は前髪をまた垂らし、振り向くと、ゆっくりと歩き出した。ナナモは後をついて行く。
深き森の中を、か細いくねくねとした土道を歩いていく。先ほどシロウサギの背を追いながら歩いていたのと同じように、少年の後に続くことに憂いは全くない。だからと言って高揚感もない。周囲の時空が少しずつねじれていくような錯覚は感じる。きっと少しずつ異なる世界に近づいているのだろう。
たどり着いたのは小さな神社だった。もしかして参拝の時間になったのかもしれない。ナナモは首飾りを見たが、ここでは勾玉は働かない。もはやヒラサカを通り越してヨミの世界へ入ったのかもしれない。しかし、ヨミの世界への通路は大きな石で塞がれていると聞いた。ナナモはまだその石を見ていない。いや、少年がヨウカイなら巨石を通らなくてもいいはずだ。だから現れたのだろうか。ナナモは少しだけ不安な気持ちになった。
「ねえ、ここはヨミの世界?」
ナナモは少年の背中越しに尋ねるが、答えはない。だからもう一度同じことを尋ねる。しかし、やはり何も答えない。ナナモは少年の肩に手を掛けて、もう一度、今度は大きな声で尋ねた。
振り返った少年の髪の毛はすべて抜け落ちて、何もない真っ白な顔だけがナナモを見ていた。
少年は笑っていた。ナナモは本来なら驚いてその少年から手を放すところなのに、別段後ずさりしなかったし、却って不安な気持ちがほぐれていった。
少年はゆっくりと自らナナモの手をどけると、黙って手洗いを済ませ参拝した。ナナモも続いて同じように参拝する。そう言えば、日本に来てから今まで一度も参拝を欠かさなかった。カミを信じることは大切だが、頼んではいけないと、言われたことがある。しかし、ナナモは今まで参拝の時には必ず何かを頼んでいた。それはカミとの会話とも思えるが、ままならないものへの畏怖なのかもしれない。
あの少年はヨウカイではない。きっとジュードだ。そうならジュードはカミと何を話しているのだろう。ナナモがヤソナと会えるように地下の世界に居るカミガミに伝えてくれているのだろうか。
ナナモは参拝を済ませるとそのことが聞きたくて振り返ったが、もうそこに少年はいなかった。
そうか、参拝は決意の一つなのだ。だから今まで参拝を終えると必ず夏期講習に向かえたのだ。でもカリンの誘いに一度・・・。ジュードがどこかでにこりと微笑んでいるように思えた。
ナナモが神域から出ると、あれほど穏やかな空間に暗雲が立ち込めてきて、上空からこの世界を圧縮する。ナナモは四方八方から押しつぶされそうになる。だから身体中に森羅万象の精気を溜めて一気に放出し、その空間を押し広げようとした。その摩擦はカチカチと火花を上げながら、シュルシュルと導火線を走る。
その時に閃光が立ち上がり、ほぼ同時に雷鳴が響いた。
ナナモは意識を失った。雷がナナモの体に落ちたのだ。
ナナモが目を覚ますと、そこは学校だった。サマーアイズではない。日本の学校だ。
夕陽が教室に差し込んでいる。その中で二つの影が会話する。ひとつは大きく、ひとつは小さい。
「どうしてちゃんとやってくれないんだ」
「誰だがわからないんだ」
小さな影は微香でお伺いを立てている。大きな影はそのしぐさに陽炎のゆらめきが放出される。
「そんなことはないだろ。だってあの女子はここの生徒じゃないんだから」
「でも、だからと言って僕が知っているとは限らないだろう」
「だからそのことは先週言ったよね。その女子はキミが通っている学習塾の生徒だって」
「でも僕以外にも通っているよ」
「だからそれも言ったよね先週。あの学習塾に通っていて僕のメールアドレスを知っているのはキミだけだって。なのになぜ誰だかわからないなんて言うんだよ」
「だってわからないんだよ」
「僕のメールをあの学習塾で女子に教えたことはないのかい?」
「あるよ。すまなかったと思ってる」
「いいかい、僕はそのことをとやかく言うつもりはないんだよ。仕方ないことだし、キミも悪意でやった事ではないと思うから。でもね、先週も言ったけど、これ、二回目なんだけど、僕はそれで困っているんだ。その学習塾には何万人も生徒がいるのかい?そうじゃないだろう。だったらわかるよね。その何人かに、僕にメールを送った人がいるかを、確かめてくれたらいいだけじゃないか」
「正直に話してくれるとは限らないだろう」
「そりゃあ、そうさ。でも、もう一度言うけど、僕は困っているんだ。だからキミが教えたんだったら、メールするのはもう止めてあげてくれって、言ってくれてもいいんじゃないの」
「だから誰かわからなかったんだよ」
「わからないって、ちゃんと調べてくれた?僕は先週から困っているってキミに頼んでいたよね。友達だから僕はキミにメールアドレスを教えたんだ。そのことはわかっているよね」
「ごめん」
小さな影からは、冷汗が滝のように流れている。
「これじゃあ、友達どころか、なんか僕がキミをいじめているみたいじゃないか」
大きな影は、突き合わせていた顔を遠ざけて、少し冷静になろうと背を椅子にもたれかけた。
「そんなことは思っていないよ」
「だったらどうして?」
「僕が言ってもしょうがないと思うんだ」
大きな影はまた前のめりになる。
「そう言う前に、今から教えた女子にメールしてみるとか、電話してみるとかしてみるよって、キミは言えないのかい?」
「連絡先を交換したわけじゃないから」
小さな影はうつむいてまた冷汗をかいていた。
「僕がいくら無視しても、彼女はだんだんエスカレートしてきてるんだ。僕は本当に困っているんだよ」
「だったら、いまから学習塾に行ってくるよ」
小さな影は椅子から立ちあがった。
「もういいよ。僕はあくまでもきみに頼んでいる立場だから。キミを責めることは出来ない。けど、あの人が。あの人がこのことに関わってきているんだよ。わかる?僕だけの問題じゃあ、もうないんだ」
大きな影は立ち上がると、大きな溜息を小さな影に悟られないように、静かに吐き出した。小さな影からは、大きな影からもわかるような小さな汗粒が、とめどなく湧き出ているのが目に留まった。
ふたりは立ち上がり、無言で別れていく。大きな影は、もはや小さな影に投げかける言葉を探すことさえできなかった。そして苦悩が増したのか、その色合いがますます濃くなっていた。
ナナモはその影絵を静かに見ていた。そして何かを思い出したのか、小さな影の方に話しかけようとした。その途端二つの影は突然消えた。ナナモはそれでも執拗に小さな影の残影を探そうとしたが、教室から放り出されるように校庭の真ん中に引きずり出された。
ナナモは八つの炎で燃え滾る魔物に囲まれていた。最初はオロチの様であったが、そのうち牙を剝きだし、身体を大きくしていくと、イノシシのようにナナモの周りを一方向に回り始めた。その輪はだんだんと狭まり、ナナモに迫ってくる。もはや熱いという感覚は、痛みという苦悩に変わっていく。ナナモはその円の中心に居る。だからどこにも逃げられない。
一匹の魔物がその輪から離れて行ったが、すぐにまたどこからか魔物がやってきてその輪は萎められた。その隙間にヤソナが見えた。
「助けてくれ、ヤソナ」
ナナモは、熱波で息さえもできない中、じりじりと一枚一枚皮膚を焼け焦がし、剥がされていく痛みに耐えかねて叫んでいた。もはやナナモの身体が、その炎の群れに取り込まれていくのは、時間の問題だ。ヤソナはどこだ。ヤソナ助けてくれ。いや、助けてください。ナナモの声は次第にその炎にかき消されていく。瞳からは悔しさで涙がこぼれる。体の奥底から絞り出した体液でさえすぐに昇華される。もしここでままならなくなったナナモの肉体が消滅すれば、その精神はカミになる。しかし、ここは天上の世界ではない。ここはきっと地下の世界だ。だから怨霊となる。
だったらその前に。
ナナモがそう思った瞬間、天空から雷鳴が再び轟いた。台風の目のようにぽっかりと空いた無風の空間にいたナナモは、その渦に巻き込まれる前に誰かのしっとりとした柔らかな手に握られていた。




