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(13)ヤソナの失踪

 ナナモの前には魔物が立っていた。

 地底から噴き出したマグマは、八つの炎の塊となって、ナナモを見下ろしている。真っ赤に焼けただれた岩石の衣を身にまとい、白眼が千里をも見渡せる閃光を放っている。涎のように流れ落ちる溶岩の隙間から、鋼鉄の刃を持った毒牙だけは、身じろぎさえせず、凛として獲物を狙って構えている。

 ナナモは、単純に形相が恐ろしくて逃げ出そうと思ったが、体が言うことを聞かない。そんなナナモをあざ笑うかのように、魔物はゆっくりと近づいてくる。ナナモは思わずその熱さにたじろいでしまい。瞳を閉じて、さして効果はないが、両手で少しでもその熱を遮ろうと身構える。

 ナナモはこれ以上魔物が近づいてきても、焼き尽くされるとは思わなかったが、あの刃牙が迫ってくる。だから、思わず助けてくれと叫んでいた。

 魔物はナナモに向かって刃光を当て、谺のように声をかぶせてくる。

「言うことを聞け、さもないと、これからもっと孤独を味わうことになるし、いじめは終わらない。お前がどこかに隠れても必ず見つけてやる。身体だけでなく、心根深くに痛みを擦り込んでやる。忘れるな、お前はもはや逃げられない」

 ナナモは、かつてナナモをいじめていたクラスメート達の声を聞いて、ハッとする。しかし、ナナモの成長は、魔物が遠い記憶として映写機から映し出されたものだと囁いてくれる。

 ナナモは体の奥底から強い覇気を出していた。魔物が発した声に向かって走りだそうとしていた。それは戦いではない。心の底から湧き上がる憎悪だ。

 ナナモは、憎悪をとても大きな刀剣に変えていたのだ。もはや何も恐れるものはない。憎悪はナナモの感情を無にする。だからその刀剣で八首を一気に叩き落そうと振りかざす。その瞬間に魔物は消え、その代り、悲しげな顔でナナモを見ているヤソナが、ひとり立っていた。

 ナナモはとても穏やか面持ちでヤソナを見つめ返していた。そして、なぜか、にやりとした感情が、背中から流れ落ちていくのを冷静に捉えながら、ヤソナが何か言おうと口を開きかけた瞬間に、一気にその首を刎ねた。その首は一滴の血も流さず、地面を静かに転がり落ちて行く。

 ナナモはヤソナを振り返ることもなく、体の芯まで凍っていることさえ気づくこともなく、まるで何事もなかったかのように歩き出していた。だから、背後からゆっくりと何かが迫って来ていて、少しずつ大きく、少しずつ熱くなってきていても、ナナモは全く気付かなかった。

 ナナモは立ち止まるべきではなかったのかもしれないが、ポケットのスマホから音がする。魔物からのメールだ。ナナモは反射的にポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。それはスマホではなく鏡だった。そこには中学生になったばかりのあどけない、それでいて、ひとかけらの精気もないナナモが映し出されていた。

 ナナモは思わずその鏡を投げつけていた。パリンという極限まで冷やされた薄氷の乾いた音がした。もはや魔物からはメールは届かない。そうナナモが思った時に、ナナモは燃え滾る火の玉に、叫ぶ暇さえもらえず、、跡形もなく押しつぶされていた。

 

 ナナモは夢を見ていた。身体中から汗が噴き出していたが、そのふわりとかぶさってくる潤に却って寒気を感じた。

 体は重かったが、ベッドから体を起こすとヤソナを見た。ヤソナの首がない。ギクッとしたが、もはやヤソナ自身がベッドにはいなかった。

 ナナモは夢にうなされて寝坊したのだと思ったが、目覚ましはまだ鳴っていなかった。

 ヤソナを探そうと思ったが、もはや子供ではない。それに夏期講習に来ているのだ。遊びではない。ヤソナにもヤソナのプライベートがある。夢を見た後だったので戸惑っただけで、朝の参拝に向けて準備をしている間に、次第にナナモは冷静になってきた。

 結局、ヤソナを参拝の時も、朝食の時も見かけなかった。だから本来ならそのまま講義室に行くのに、もう一度部屋に戻った。やはりヤソナは居なかった。どこかに行ってしまったのだろか?それにしては荷物が置いたままだし、身の回りが特に不自然に整頓されているわけではない。夏期講習の継続には朝の参拝は必須のはずだ。二回目なのに、ヤソナが夏期講習を途中で放棄するわけはない。でもどうしてヤソナは来なかったのだろう。ナナモは胸騒ぎがした。いや、ヤソナに限ってそんなことはない。きっともっと早く起きなければならない理由があったに違いない。それに必ず皆で参拝しなければならないということはない。一人で先に行ってもいいはずだ。ナナモは昨夜の夢のこともあって、後ろ髪を引かれる思いではあったが、ドアノブを回すと急いで講義室に向かった。

 ナナモが講義室に行くとヤソナは居た。ああやっぱりと手を振ったが、ヤソナからの返事はなかった。

 午前中の講義の合間にヤソナの所に行った。

「朝起きたら居なかったので、びっくりしたよ」

「ごめん、ごめん。ちょっと調べものがあって、一人で参拝した後はずっと図書館にいたんだ」

 ヤソナは特に変わりのないいつもの優しさでナナモに答えてくれた。ナナモはほっとしながらも、なぜかやるせない気持ちは拭えなかった。

 一日の講義が終わってもヤソナは部屋に戻って来なかった。ナナモは図書館で何の勉強をしていたのかを聞く前に、昨夜見た夢のことを話そうと思った。しかし、ヤソナは夜遅くに帰ってきて、ナナモが話しかけようとすると、ごめん疲れているから、と言って、そそくさとベッドにもぐりこんでしまった。

 そんな日常が数日続いた。ナナモは淋しかったし、あの夢のこともあって居た堪れない気分だったが、どうすることも出来なかった。イライラしながらも、はやる気持ちを何とか抑え、部屋でいつものようにヤソナの帰りを待ちながら講義の予習復習をしていると、ドアがノックされ、オホノが突然入ってきた。日頃の講義では、大きな瞳はやや垂れ下がったようにも見えたが、今目の前にいるオホノの眼光は鋭く、今にも飛び出しそうな殺気が垣間見える。

「ヤソナは?」

 オホノはナナモにどこに行ったか知らないかと、聞いてきた。

「図書館だと思います」

 ナナモは努めて冷静に言った。

「図書館?」

「はい、調べ物があるからって、ここ3日ほどは講義が終わったら、図書館にこもっていました」

「図書館で何をしているのか知っていますか?」

「いいえ、でも、何かを調べているんじゃないですか?」

 ナナモはこれまで色々とヤソナに教えてもらっていたので、ヤソナの個人的なことまでは聞いてはいけないと思っていた。それに、ナナモがヤソナに色々な質問をするので、ヤソナは勉強に集中できなくなって、私語厳禁の図書館にこもっているのかもしれない。

 しかし、よくよく考えてみれば、図書館といっても、何千、何万と置いてある学校の図書館の様ではない。夏期講習でわからない所というか、捕捉したいところの参考書が置いてある程度だ。一応、テーブルと椅子が何組かは置かれているが、あまりそこで長居するような環境ではないと思う。カミヨ文字が読めなかったナナモも、最初ここに通っていたが、講義に慣れてくると、誰彼となく入ってくる環境がなじめなくて、貸し出してはくれなかったので、参考書の要点をノートに書き写すと、そそくさと自分の部屋に戻ってから、ゆっくりと、もう一度机に向かい直していた。それなのに、ヤソナは図書館に朝早く、そして夜遅くと、講義以外は入り浸っていた。確かに何か変な気もする。

「図書館にいなかったのですか?」

 オホノは頷き、夏期講習の場所から姿を消したと言った。ナナモは一瞬言葉を失ったが、オホノは平静を装いながら、なおも尋ねてくる。

「最近ヤソナの様子が変わったことはなかったですか?」

 ナナモは、特に変わったことはと、正直に答えた。

「それでは、最近ヤソナに何か尋ねられたりしませんでしたか?」

 ナナモとヤソナの関係は、いつもそのほとんどがナナモからの質問だ。勿論ヤソナの邪魔にならないようには気を付けていたつもりだ。しかし、ヤソナは嫌な顔一つ見せずに、ナナモの問いに答えてくれていた。ヤソナがナナモに質問してくるなんてことはそう多くはないし、ナナモの印象に残らなかったが、そう考えるとふと思い出したことがあった。ナナモはオホノにそのことを言おうと思って口を開きかけたが、慌てて口を閉じた。

 オホノはナナモの声を待っている。あの険しい大きな瞳を、また優しげに細めて、ナナモを無条件に受け入れようとする懐の深さを滲ませて来る。一匹のミツバチがその甘美な香りに誘われて、ふらふらとその花びらに吸い込まれるように、もう少しで声帯を息が通っていく。

 しかし、ナナモはぐっとその吐息を飲み込んだ。すると、オホノの顔が次第に輪郭を失っていき、凹凸の全くないスクリーンに代わっていくと、遠い昔の情景が映し出された。

 

 ナナモは中学生になってから、ある日初めて担任に呼び出された。そして、何気なく聞かれた質問に、どう答えていいのかわからなくなっていた。

「一人だけ反対したの?」

 担任は優しい物言いだったが、急に聞いてきたので、ナナモは何のことかわからなくて、唖然としていた。

「月に一度クラスメートだけで話し合いを持ちましょうって、提案があったそうね。先生はいい話だと思うんだけど」

「話し合い?誰がそう言ったんですか?」

 ナナモはつい表情を硬くしてしまった。それでか、担任は、「まあ、それはいいでしょう」と、名前を教えてはくれなかった。

 それは夏休みが開けて二週間ぐらい経った、まだまだ西日が厳しい放課後にちょっとしたアンケートが配られた時だ。中学生になって、新しいクラスになって、どういう感想ですか?という単純なものだった。どんな教科が好きですかとか、スポーツに興味がありますかとか、誰か好きな芸能人はいますかなど、とりようによってはずいぶん個人的なことだったが、だからと言って物凄く踏み込んだことでもなかった。まだ小学生気分が抜けきれない、たわいもないものとも思えたし、皆のことをもっとお互いに知りたいと、クラスをまとめようと思った誰かの、些細な質問のようにも思えた。

 そのアンケートの最後に、僕達だけの連絡網を作りませんか、というクエスチョンマークのような言葉が書かれていた。特にそのことに対して賛成か反対かの問いはなかったので、ナナモはそのクエスチョンマークには何も意見を書かずに、その他のアンケートに対して答えて提出した。すると数日してから、授業の始まる前に、無料通信アプリを使って連絡網を作ることにしたのでここにアドレスを書いてくれませんかと、どこからともなく紙が回ってきた。ナナモはあれはただの提案じゃなかったの?、極めて少ないけれど、スマホを持っていないクラスメートもいる。彼らはどうなる?そんなもろもろのことがあって、質問しようとしたところに、担任が入って来た。

 ナナモは結局そのことがひっかかって、その日はアドレスを書かずに皆の意見を聞いてみたらどうでしょう?と、これも軽い気持ちでクエスチョンマークのような言葉を書いた紙を渡して帰った。

 その夜に見知らぬアドレスからメールが来た。

「どうして反対するんです。皆でまとまりましょうと言っているだけじゃないですか」

 ナナモは急に来たそのメールに戸惑った。このメールの主はきっと今日のアドレスの話を言っているのだろう。確かにナナモは言われた通りアドレスを書かなかった。ナナモ個人の理由ではなく、一般的な意見を書いた。反対という言葉に違和感を覚えた。だからずいぶん悩んだのだが、「反対しているわけではありません」、とだけメールした。するとすぐに、「ではアドレスを送ってください」と、返信が来たので、「あなたは誰ですか?」と、返信したら、その夜はもうメールは送られてこなかった。

 ナナモは次の日に、学校で、誰かに昨日のメールのことを聞こうと思った。しかし、小学生の時まではそれなりに遊んでいた友達が、中学生になってからは同じクラスにならなかったので、このクラスには親友と言える友達がいなかった。ナナモはもともと皆に積極的に接していこうという性格ではない。それにこの時期はハーフとしての成長が、男としての容姿に急速に現れてきていたし、何よりも英語の授業が始まったことが、却って周囲からナナモに近づいて行こうとしたきっかけも拒ませていたのかもしれない。

 それでも学校でナナモは普通に挨拶する。クラスメートも同じように挨拶を返してくれる。しかし、その朝に限っては、ナナモが挨拶すると、なぜか妙な雰囲気が感じられた。だから、昨日こんなメールが来たんだけど皆知ってる?って、軽い気持ちで聞こうと思っていたのに、そうすることが恐ろしくなった。

 このクラスの誰かがナナモにメールを送ってきたのだ、と思うと、急に気分が重くなったからだ。鉛を飲み込んだようだと表現されることがあるが、そう言うものではない。目の前に壁があって、その一面に反対しているのはお前だけだと書かれていて、そうじゃないんだと言いながら、その壁を壊して前に進もうと思っても、またその壁が現れてと、そういう思考の繰り返しが、延々続くような気分だった。

 メールはあれから来なくなったが、一日たっても、二日たっても、三日たっても、壁は消えない。むしろその壁にはこれまで書かれていなかった文字まで見えてくる。

 誰かに聞けばいいじゃないか?こんなメールが来たんだって?僕にだけ?でも僕は反対なんかしていないし、もともと反対とか賛成とかは多数決とか、投票によって決まるんだろう。でもそれは無記名じゃないの?だったらアンケートの最後にクエスチョンマークのような言葉を書くだけじゃなくて、こういうことで投票をとります。その結果にはクラスの意志として従ってくださいと、はっきりとしてくれれば良かったんだ。それを従わないやつは反対しているって。それはおかしいんじゃないの?そう思わない?

 じゃあ、ナナモ、本当に多数決で決まっていたら従っていた?

 ナナモはその提案を真っ向から否定するつもりはない。友達の輪を大きくしていくというのは悪いことではないからだ。友達がいないナナモにとってまたとない機会だし、他のクラスメートの中にもそういう機会が得られたので好都合だと思っている人もいるかもしれない。しかし、それは反対に考えると、誰からともなくメールが来ることになるし、そのメールに対しては答えなくてはならない。クラスメートだからいいじゃないかという声や、お互いを知っていくことは決して悪いことではないという声も聞こえるような気がする。例えば、クラスメートが他のクラスや他の学校の誰かにメールを教えないとも限らない。そうしたら、クラスだけの小さな輪が、クラス以外の輪を作り出していく。それはそれでいいんじゃない?友達はそうして増えていくんだからという声も、耳に入っては来る。

 本当にそうだろうか。良かれと思ってやったことも、時として不幸をもたらすことはある。もし不幸な人が出てきても、たまたまだよとか、ついてなかったただけだよとか、当事者じゃないともはや口に出した瞬間消えていく些細な出来事も、当事者にとっては一生の重みとなることもある。

 ナナモがあの時に瞬間の躊躇で正論を思いついたのは、実際そう言うことがあったからだ。ナナモが中学生として通学し出した時に、ナナモに好意を持った女子が、ナナモの友達からアドレスを聞いてメールを送ってきたことがあった。ナナモは最初、特に気にすることもなかったが、そのうち回数が多くなって、それでも真面目に返事していたら付き合っていると言いだして、ナナモがそう言う気持ちがなかったので返信しなくなったら、ナナモにひどいことをされたというメールが出回ってと、ずいぶんその噂を打ち消すために、煩わしい努力をしなければならなかった。その時の女子は他校だったし、写真は一方的に送られてきただけだった。実際本人と直接会ったことはなかったのでまだ良かったが、今通っている学校の女子だったらと思うと、ぞーっとする。

 夏休みが過ぎて、ナナモはもはやナナモではなくなりつつあった。ジェームズ・ナナモとしての容姿が、他の誰よりも早熟さでは抜きんでていた。だからそういうギャップと勘違いで、そういう所だけに憧れる女子からメールが来たら嫌だなと思った。しかし、ある意味それは他の人には言えない。なぜなら、もし正直にそのことを打ち明けても、他の人から見れば、あいつ何かっこつけてんだと、反対に嫌味を言う人が必ず 何人かは現れてきそうに思えたからだ。

 それでも何事もなければ悩みも記憶から消えていく。だからナナモはたいしたことじゃなかったんだと気持ちをリセットする。しかし、そういう時に限ってメールはくる。

「誰とは言っていませんが、反対しているひとが一人いますって皆にメールしました」

 ナナモは黙って返信しないでいる。すると、消えかけていたあの壁が前よりも頑丈になって目の前に現れてくる。その壁にはもっと過激で、もっと辛辣な言葉が浮かび上がってくる。ナナモはまた必死になって文字を消す。その壁をぶち破って前に行こうとする。

「クラスが一人の反対によってばらばらになっていきます」

 数日たつとまたメールがくる。ナナモはもはや一日の大半をその壁の文字を消すことと、壁をぶち破って前に行こうとすることに費やしている。そこにはもはやナナモは居ない。ナナモの記憶もない。しかし、日常はナナモを無視してやってくる。その日常に危うく轢かれそうになる。

 きっと、少しずつであるが、心の中に擦り傷が残っているのだろう。まだ化膿はしていない。痛みさえも感じない。ナナモは自分を見る。まだ見えている。大丈夫だ。ナナモはまた壁に向かおうとしていた。

「反対しているのはあなただけです。明日、皆の前でその理由を話してください」

 ナナモにプチッと音がした。まるで心地よく写生をしていたのに急に鉛筆の芯先が折れたような感じだ。 ナナモは手から鉛筆を放し、目をつぶった。そこには、増え続ける壁が、ナナモの身をえぐるような文字を連ねて、次から次にやってくるのを、口をぽかんと開けて、ただ見ているナナモしかいなかった。

 たった二、三週間の出来事だったのかもしれないが、アンケートを配られた日から今日まで、どれだけ長く、どれほどつらく、どれほど悩み、どれほど重かったかは、ナナモ以外はわからない。いくらそんな馬鹿なことがあるはずがない、誰もおかしいと思わないのかと声高に叫んでも、谺すら聞こえない。

 ナナモは朝教室に行く前に職員室に向かった。もはや自分では壊すことが出来なくなった壁を、大人の腕力なら何とかしてくれるのではないかと思ったからだ。

 ナナモは今までのことを少しだけでも話そうと思った。しかし、気持ちを伝える前に、担任はナナモの心をのぞき込もうと優しく微笑み、、「一人だけ・・・」と、尋ねて来た。ナナモは担任の笑顔のうしろに鬼が書かれている壁が見えて、思わず身構えた。担任はナナモのメールを知っている。もちろん真実ではない。もはやそんなことはどうでもいい。誰かが担任にナナモのことを告げたのだ。だったら、ナナモが今言うことも誰かに伝わる。

 ナナモは急に体から力が抜けていくのを感じていた。もはや立ち上がってもまっすぐに歩けないだろう。そんな漠然としたあきらめが、体中を駆け巡っていた。それでもここから早く出なければという反射が働いて、ふらふらではあったが職員室から出た。

 担任は背後でなにかナナモに言っているように思う。しかし、その気配さえ、ナナモにとって壁以外には感じられない。ナナモは足を一歩でも前に進めるために声を振り絞って、それでも蚊の泣くような声で、「ちょっとしたアンケートから始まっただけなんです」と、つぶやくしかなかった。

 結局ナナモは、教室に行く前にスマホを取り出して、あの見えない主に賛成しますと宣言し、アプリで使うアドレスを添えて送った。そして、まるで湯床に入るように、ゆっくりとその輪の中に入っていった。

 その瞬間、あれほどナナモの前に立ちはだかっていた累々とした壁の連鎖は消えていた。その安堵感は、どこまでも拡がる大陸の草原を、一頭の白馬が、たてがみをそよ風に優しく靡かせながら、ゆったりと走っている光景を見ているようだった。

 しかし、それも束の間だった。誰かがその白馬が疾走するナナモのキャンバスに、真っ赤な絵の具をぶちまけてきたのだ。そして、壁ではなかったが、あの地獄絵が始まった。


 ナナモはそれ以上の記憶の追随を続けられなくなった。何事もなかったかのように目の前にはほんの数秒前のオホノが立っている。

 ナナモはあの時とは違う。目の前には幾重にも立ちはだかる壁もない。しかし、オホノにヤソナとの会話を話したら、きっと壁が次から次へと現れてくる。そんな妙な自信はある。だからオホノにはヤソナとの会話を話さないと決めた。

 ナナモはヤソナに最初に会った時の印象を思い出していた。ヤソナはやはりナナモをいじめた仲間のひとりだったんだろうか。

 ヤソナは今までナナモのために色々なことを教えてくれた。ナナモは一度も嫌な感情を押し付けられなかった。だから放っておくことなんて出来ない。ナナモはヤソナの過去を確かめたいと思っていたが、どうでも良くなっていた。ナナモは輪から飛び出た仲間を、もう一度何事もなかったかのように迎えたい。そういう気持ちだけがしっかりと芽生えていた。

「ヤソナを探してみます」

 ナナモはそう言うなり、オホノの脇をするりと擦りぬけた。

 オホノの声が、背後から、「一人?」、「一人だけ?」、「一人だけで?」と、谺する。ナナモはその言葉を無視はしない。だからきちんと振り返って、オホノに、「図書館に行くだけですよ。ひよっとしたら何食わぬか顔で僕を不思議がるヤソナがいるかもしれません。そうしたらすぐにまた部屋に戻ります」と、失礼だと思ったが、そう叫んで高々と手を上げた。オホノからはもはや何も聞こえてこなかったが、同じように手を上げていた。その手には鏡があったのだろうか、室内灯に反射されて輝いていた。その光はもちろん無声であったが、ナナモを力強く後押ししてくれるような思いが、その眩しさに秘められているように感じた。

 きっとオホノの言う通り一人だけで探しに行くことになるのかもしれない。しかし、ナナモはもはや気にすることはなかった。目の前には、まだ見ぬものかもしれないが壁はない。その視覚だけは、ナナモを恐れから遠ざけてくれたし、なによりも心を軽くしてくれた。


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