(12)二人だけの部屋
「ねえ、僕達以前どこかで会ったことある?」
ナナモは自分も名乗ると、まだ気分が落ち着かなかったのでつい聞いていた。ヤソナを見ていると、タイムマシンンに乗って船酔いしているような気分になる。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
「昔、キミとはどこかで会っているような気がするんだけど、思いだせないんだ」
「思いだせない?」
「そうなんだ。僕は過去のある部分の記憶が抜けているんだ」
「継承者にはよくあるからね」
ヤソナは別にナナモの言っていることに驚いたりしなかった。
「じゃあヤソナも」
「僕の場合は少し違うんだ。僕の過去が一部無くなっているようには僕はどうしても思わないんだ。ただね、僕達は一人で今まで生活してきたわけじゃないだろう。だから誰かとはつながりがある。笑えることもあれば、泣けることもある。うれしかったり、腹が立ったりする。けど、僕の場合、そう言う感情の起伏の記憶がないんだ。だから、例えば、中学校の時に生まれて初めてできた友人と、ずいぶん一緒に過ごしたはずなのに、楽しかったのか、楽しくなかったかのか、定かではないんだ」
「本当に親友だったの?」
ナナモはそう言ってから、ごめん、と謝った。
「いいんだ。そうだよね。この話をすると、皆そう言うから慣れたよ。彼は転校したんだけど、でも僕は一番の親友だと思っているんだ」
ナナモは逆に、自分は友達だと思っていたクラスメートにいじめられて転校したんだと、言いたかった。しかし、その記憶は断片的なもので、本当に友達だったのかは定かではなかった。
「さっき僕の顔を見て嫌そうな顔をしていたよね。あれって、もしかしたら、僕が昔ナナモに何か嫌なことをした人に似ていたから?」
ヤソナにそう言われて、ナナモは、ハイと、言いにくかった。
「当たりなんだ」
ナナモはこういうことは今しかないと思って、僕は中学校の時にいじめられて、それでロンドンに行ったんだと、死を選ぼうとしていたことだけは伏せて話した。そして、ヤソナの言う通り、初めて教室で会った時から、物凄い嫌悪感がナナモを縛り付けようとしたことを正直に話した。
「けど、さっき言ったように記憶がないんだ。だから、僕をいじめたやつかもしれないけど、僕を助けようとしてくれた人だったり、僕と一緒にいじめられていた人かもしれない。いずれにしても、そういう状況が思い出されるんだと思うんだ」
「だったら、他の部屋に代わろうか?」
「ううん、いいよ。しばらくヤソナと話していたら気分が落ち着いてきたから。それにこういうことを言ったらキミは怒るかもしれないけど、本当に僕をいじめたのがヤソナだったら、どうしてそうしたのか、理由が聞きたいから」
ナナモは嫌味がない微笑みを添えた。
このクラスではナナモの記憶に基づいて顔かたちが決められている。きっとそれはアヤベの策略なのかもしれないし、決意に対する第一関門なのかもしれない。
「ところで、僕はどう見えているの?ハーフなんだけど」
「そうだね。ハーフに見えるね。けど、ナナモが思っている自分の顔と、僕が見る君の顔は違うからね。それはもうわかっているだろう?」
ヤソナもそうなのかとナナモは安心した。
「ここでは顔形はどうでもいいんだよ。僕もそうだけど、おそらく嫌な奴と好きな奴の半々を、ここのクラスメートしているんだと思う。それは顔形かもしれないし、性格かもしれない」
「どうしてそういうことをするの」
「おそらくだけど、継承者になるには部分的にリセットしなきゃならないからだと思うんだ」
「リセット?」
「そう。だって継承者は個人的な感情を引きづってはいけないからね」
「でも人間なんだから、好き嫌いがあっても仕方ないんじゃないかな」
「そうだな。でもね、それはどこかのサッカーチームが好きだというレベルさ。けどね、たとえどこかのサッカーチームが好きでも、継承者は本当はそれすら言葉にしちゃいけないんだ。心の中にしまわなければならないことを、ちゃんとわきまえなければならない。それが継承者の美徳なんだと思う」
「美徳?」
「そう、感情を殺してなお感情を表現する。自分の意志を見せずに自分の意志を示す。そう言うことかもしれないな」
ナナモにはヤソナの言うことはよくわからなかった。
「ヤソナは詳しいね」
「だって、夏期講習は二回目だから」
「えっ」
「大学に受からなかったんだ」
「どういうこと?」
「大学に受からなければ、継承者になるための学校には行けないんだ」
「でも大学に行かないで働いている人もいるだろう」
ナナモは常識的な質問をした。
「そうなんだけど。僕も家が町工場で後を継ぐからって言ったんだけど、これからは何事も進歩が必要だって。だから大学へ行けって親に言われたんだ。中学に入ったばかりの時で、まだ継承者だって知らなかったから、そうするって言ったんだよ。それにちょっとそういう学問も身に付けたかったからね。でも勉強は嫌いだったし、僕がやりたかった工学系の大学は、僕にとって難しかったから、結局合格しなかったんだ」
ヤソナは少しはにかむようなしぐさでナナモから目を逸らしたが、言葉を続けた。
「本当はそういう時はいったん記憶がなくなるらしいんだけど、さっきも言ったけど、感情の起伏が僕にはないから、強くは記憶に残らなかったんだけど、反対に強くは消せなかったのもしれない」
「ヤソナも大学でやりたいことがあるんだ」
ナナモはカリンのことを思い出した。
「大学に合格するまでは恥ずかしくて言えないけど、夢は大切だからね」
ヤソナの笑顔は、先ほどまでナナモを苦しめていた心情に、そよ風のようにすーっと入ってきて、涼しげな心地よさをもたらしてくれた。二回目だとしたら同級生ではない。つまりナナモをいじめていたクラスメートではなかったことになる。でも本当にそうなのだろうか?ナナモはどうしてもヤソナを年上の別人だとは思えなかった。
「ナナモも大学受験をするの?」
「ああ、でもね、僕は医学部志望なんだ。だから僕も合格しないかもね」
ヤソナは、ナナモがカリンに伝えた時のように、そうだな、そうかもしれないな、という顔はしなかったが、少し考えている風な様子で沈黙していたかと思うと、ナナモにこう言った。
「まさか、ナナモの家は先祖代々医者だったから、ナナモも医学部を受験するんじゃないよね」
ナナモはずばりと言われ、頷くしかなかった。
「伝説の継承者なのかい?」
ナナモはヤソナが何を言っているのかわからなかったので、どういうこと?としか言えなかった。
「古代カミヨの時代に始まった職業があるんだけど知ってるかい?」
「衣食住っていうからそういうことに関係する仕事?」
「そうだね、衣食住は大事だ。でも、それは生きる糧で皆共有してきた結果生じたもので、もはやカミヨのものではなく、地上の世界で居続けることを選択したヒトビトが育んできたものだと思うんだ」
「ヒトが育んできたのものは職業じゃないの?」
「そうとは言っていないよ。だから古代カミヨだって言っているんだよ」
「だったら、ヒト以外の世界でのことということ?」
「うーん、そう決めつけるのは難しいけど」
ヤソナはどう説明するればよいのか、しばらく考えている風だった。だからナナモのほうがこう言った。
「医業がその一つだったってこと?」
「ヒトは生まれ、そして必ず死んでいく。それはヒトだけではなくこの世のすべてがそういうものの中に存在している。特に日本ではカミも死を迎えると信じられている。それはカミヨの時代から変わらないことなんだ。けどヒトはそのことを素直に受け入れてきたかというと、そうでもないんだよ。何とか死から免れないだろうかとか、死から免れないのなら一日でも長く生きたいとか考えるようになったんだ。けどそう簡単ではない。だって今もそのことについては解決されていないんだから。だからヒトはカミにすがる。そしてそういうヒトビトの心を静める仕事が生まれる」
「それが最初の職業?」
ナナモは本当にそうなんだろうかと半信半疑だった。しかし、死から免れるということはただ単に病気になることだけではない。作物が作れないと餓死するので、自然を読み取る占星術が必要だし、暑さ寒さや、他の動物から身を守るためには、建築や機織りが必要だし、狩猟や採取や、誰からも攻撃されないように、工具や武具を含む鉄器を作らないといけない。本来は衣食住を充実させるためだと思っていた仕事であっても、ヤソナの言う通り、心を静めるために生じてきた面もあるのかもしれない。
「ヒトはままならないことから解放されるために、地上の世界にとどまることを選択した。けど、ままならないことからなかなか逃れられない。でも天上の世界にはもはや戻れない。だから、そういう世界と通じるヒトビトを探した」
「カミガミとつながりのあるヒトビトのことだね」
「祭司と言われるもので、継承者もその一人だし、コトシロやカタリベなどもその中に含まれる。けど、その中で継承者だけが医学の知識を持っていた。おそらく薬草などの知識だろうけどね。そういう薬をヒトの心を鎮めるために使用したんだと思うんだ」
「でも、それは医学ではなくて薬学という分野じゃないの?」
「そうかもしれないけど、薬学も医業には必要だから」
「でもどうして継承者だけが医学の知識を持っていたって考えられているの?」
「だって、コジキにはそう書いてあるだろう」
ナナモは知らなかったので、ヤソナからイナバのシロウサギの話を聞いた。そうか、だから駅に着いてから途方に暮れることなく、ここに導かれたのだ。
「ナナモの所にもコトシロがやってきたと思うけど、彼は僕たちに継承者であることを伝える前にその家系を当然だけど調べているんだ。でもね、カミヨの時代からずっと医業に就いていた家系は、ほとんどないんだ。だからもしナナモの家系がそうだったのなら、伝説の継承者になるなって思ったんだ」
ナナモは伝説と言われて少し特別な気持ちになった。しかし、もしそうだったら、ナナモの育った家は代々継承者として扱われてきたはずだ。
「僕の家系が、一度も職業を変えずに医業を続けてきたかどうかなんてわからないよ。だいたいもし伝説の継承者だったら、僕は生まれた時からそういう運命を何かしら感じていたと思うんだけど、そういうことは全くなかったからね」
「そうなのかい?」
「ああ。それにこの夏期講習に来て、僕はカミヨ文字が全く理解できなかったんだよ。もし、僕が伝説の継承者なら、そういうことはなかったような気がするんだけど」
ナナモは先ほどの気持ちが少しずつ萎んでいくことを、身に詰まる思いで感じていた。ここでは欲を持ってはいけない。アヤベの声がもう一度響いてくる。
「カミヨ文字が読めなかったって?でも、ナナモのコトシロはここに来る前にテキストを渡してくれなかったのかい?」
ナナモは驚いた。そして先ほどの声を打ち消すように心の中でアヤベを見つめ返していた。
そう言えば、あの時ナナモはこの夏期講習を無視してカリンに会いに行こうとした。だからそれからやることがいろいろあって、ブルートレインに乗ることになってと、あわただしく時が過ぎていったのだ。
「さっき、ナナモはハーフだって言っていたよね。で、バイリンガルなの?」
「ロンドンにいたからね。それに母さんとは英語で話していたから」
ナナモの脳裏にかすかに母の映像が横切った。
「だったら大丈夫さ。文字を覚えるのはそう難しくはないし、当たり前だけど日本語なんだから、文法も同じだし」
ヤソナはナナモがその伝説の継承者なのではとまだ勘繰っているのか、ナナモをちらりちらりと見ながらも、カミヨモジの基礎を教えてくれた。ナナモはそんなヤソナと接しながら、初めて会った時の印象を思い出していた。ナナモはうまくいかないとすぐに誰かのせいする。きっとアヤベはそういうことを、この夏期講習でナナモにまず何よりも先に教えたかったのかもしれない。
こぢんまりとした夏期講習の授業はサマーアイズのようにフランクではなかったが、東京での夏期講習のように牛ぎゅう詰めで窮屈すぎるということもなかった。だからと言って、ナナモが日本での夏期講習と同じようにその授業にのめり込んでいったかというと、そうでもなかった。当初は、どのような古代の話が聞けるのだろうかと、その授業内容に好奇心をそそられることもあったが、ヤソナからカミヨ文字の手ほどきをうけ、その後自分でも努力したかいもあって、不自由なく使いこなすことが出来てからは、やはり暗記中心の授業内容には物足りなさを感じ始めていた。もう少し我慢していればカミに近しいものとしての能力を発揮する、魔法使いの呪文のようなカミヨ文の授業が始まるのではないかと思ったが、そういう気配すら全くなかった。だから、せめて日本の成り立ちについては、カミガミが創る壮大な物語を、もっと具体的に聞けるのではないのだろうかと期待したのに、実際の講義は、どのくらいの時代にどのような地殻変動や活火山の活動などがあって、日本列島が創られていったのだという、空虚な科学的根拠を羅列していくだけだった。
継承者になるための学校に入るためには、試験ではなく決意が必要だと言っていた。こういう講義を、もっともっとこれからも吸収して学んでいかなければならないということを含んでのことだろうが、大学受験のように、試験問題に必要かそうじゃないかで、ずいぶん取り組みかたに違いが出てくる。おそらく、そういう人は継承者にはなれないのかもしれない。ナナモだけがそう思っているわけではないと思うのだが、授業中に欠伸をしている人は誰もいなかった。
朝の禊ぎと祭礼は続く。講義は午前と午後にみっちりある。勿論、予習復習を強いられる。そして、夏期講習中だけらしいが、食事中は誰とも話せない。
「ねえ、どうして、皆あんなに一生懸命勉強するんだい?」
ヤソナと二人きりになるとナナモは鬱積した思いを吐き出した。
「どうしてって?」
「僕は地上の世界で今まで夏期講習を受けてきたんだけど、それは大学に合格するための勉強だと思うんだ。けど、この夏期講習でどれだけのことを学んで記憶しても、継承者になるための学校には試験がないんだから、意味がないんじゃないかなあ。それに、僕の脳はそう大きくないから、ここの授業を覚えていると、肝心な大学受験の知識が置き換えられていくように思うんだ」
「じゃあ、ナナモはノートも取っていないし、予習復習もしていないのかい?」
ヤソナは、自分と同じように夜遅くまでテキストに向かい、図書館で調べ物をしているナナモを知っていた。
「みんながしているからしているって感じだね」
「そうかな、例え試験に出なくても、今後必要になるんじゃないかって思っているから勉強しているんじゃないのかい?」
ナナモは反論できなかった。アヤベはその学校に行っても必ず継承者に成れるとは決まっていないと言っていた。でも何か基準はあるはずだ。ナナモの決意だけではない何かが。しかし、アヤベは何も語ってくれなかった。今勉強していることがきっと必要になるのではないかとも考えられる。その不安が、ナナモに夏期講習の継続を強いらせているのかもしれない。
「ナナモのコトシロは、継承者になるための学校に入るのに、大学受験のような制度はないって言ったのかい?」
「ああ、そう言ったよ。決意が大切だって」
正確にはアヤベではなく、その意志を汲んだカタリベだったが、あえて訂正しなかった。
「じゃあ、なぜ、夏期講習を受けにナナモは来たんだい?」
「さあ。多分その決意には、夏期講習を受けることが必要だからじゃないのかって、思ったからだと思うんだ」
「ナナモはコトシロに聞かなかったのかい?」
「聞いたさ、でもコトシロは答えてはくれないだろう」
コトシロであるアヤベはカミからの託宣を伝えるだけの仕事だと言った。だからカミが前もって伝えていること以外は答えられないと言っていた。
「でも、コトシロはカミから本当にそのことを聞いていなかったと思うかい?」
「どういうこと?」
「ここは地上の世界じゃないんだよ。中間の世界なんだ。僕たちは確かに存在しているんだけど、同時に存在していないんだ」
ナナモはそのことを以前アヤベから聞いていた。むろん理解はしていない。だからと言って拒むことは出来ないので、無理にでも受け入れるしかなかった。
「僕達の決意にはきっと夏期講習を受けることが必要なんだろうね。でもそれは試験があるかどうかという問題じゃない。だから皆一生懸命になってここで勉強しているんだと思う。僕のコトシロはこう言ったんだよ。継承者になるために君たちは今まで育てられたんじゃない。だからそういう育てられかたをした人たちと同じようになるためには、人一倍努力しなけりゃならないって。ナナモを見ているとそういう所が甘いような気がする。もう忘れたかもしれないけど、だからナナモは伝説の継承者なのかって僕は今でも思っているんだ」
ナナモはヤソナの感情のない平坦な言葉を久しぶりに聞いた。しかし、それはヤソナの思いやりのような気もした。ヤソナの言うとおり、ここは地上の世界ではない。だから試験ではなく決意だと言っても、その意味すら分からない。わからないから不安になる。不安だから勉強する。きっとそのことは、地上の世界もここでも同じなのかもしれない。ナナモはそう思うしかなかった。
「ねえ、ナナモ、継承者になるための学校ってどこにあるのか知ってる?」
珍しくヤソナがナナモに話しかけてきた。ヤソナの質問は知らないナナモに教えてあげようという意味なのだろう。
「ヒラサカにあるって僕は聞いたけど、ヒラサカがどこにあるか知らないんだ。ヤソナは知っているんだろう」
ナナモは反対に質問していた。しかし、ヤソナは、いつものようにすぐには答えてくれなかった。それどころか何か考えている風にナナモには思えた。
「この夏期講習もどこでやっているかわからないんだ。ただ、僕はここに東京からブルートレインに乗ってやってきたんだけど、その切符には僕には読めない字が書いてあったんだ」
ナナモがそういってもヤソナはすぐには反応してくれなかった。それどころかブルートレインって何って、頓珍漢なことを聞いてくる。だから寝台特急だよ答えてから、確か「杵築」という文字だったので、メモに書いてヤソナに見せた。
「どっちの杵築なんだ?」
ヤソナはキヅキと言ったようだ。けれどもどっちとはどういことだろう?だからナナモは首をかしげるしかなかった。
「発音だよ」
「発音?」
「そうさ、キヅキなのかキツキなのかどっちなんだい?」
「えっ、読み方が違うの?」
ナナモはやっとのことでその質問の意味を理解した。だからポケットに手を突っ込んでスマホを取り出そうしたが、出てきたのはあの鏡だった。
「その鏡・・・」
「ブルートレインを降りる時に渡されたんだ。ヤソナも持っているんだろう」
ナナモはひよっとしてこの鏡を持っているのは自分だけなのかと思った。もしそうならナナモはヤソナの言う通り伝説の継承者かもしれない。しかし、ヤソナもポケットから鏡を取り出す。
「僕らはみんな三角縁の鏡を持っているんだけど、ナナモにはどんな絵柄が描かれているんだい?」
ナナモは絵柄と言われてもピンと来なかった。だからヤソナに、裏だよと、言われてその通りしてみた。何やら装飾が施されているが、よくわからなかった。まるで雲間を何か動物が飛び移っていくように、部分的にその装飾が動いたような気もするが、そんなはずはないかと、ヤソナには黙っていた。
「なにか見える?」
だからナナモはそう聞いてみた。ヤソナは黙ってしばらく見入っていたが、何も言わなかった。その表情は一瞬曇ったようにも感じられたが、ヤソナは何事もなかったかのようにしばらくするとわざとらしくであったが、
「何か特別な絵柄が刻まれているのかなあと思ったんだけど、そうでもないんだな」と、つぶやくように言った。
ナナモは特別ではないことにホッとしながらも、
「ヤソナの鏡には何かが刻まれているのかい?」と、聞いた。
「僕の鏡も装飾されているよ。でも、よくわからないんだ。だからナナモの鏡を見て何かヒントがあるのかなと思ったんだけど無駄だったな。鏡はそれぞれの持ち主によって代々伝えられているのものだから、本当は個性があったり意味があったりするんだけどな」
ナナモはヤソナは色々なことを知っているんだと、やはり二回目だからかなと、心の中でつぶやいた。ナナモの鏡にはどういう意味が刻み込まれているのだろうと興味が湧いてきたが、きっとここではそのことはわからないのだろう。この勾玉と同じように、この鏡にもひよっとしたら色々な機能が備わっているのかもしれないと、今は想像するしかなかった。
「そう言えばヤソナは勾玉の首飾りをしてないね」
ナナモは不意にそう質問していた。
「ああ、部屋に戻ると、ついね」
勾玉を常に身に付けるように言われてはいないが、ナナモは夏期講習の初日に、首飾りで時間を知ったので、できるだけつけるようにはしていたし、なぜか首飾りと鏡は、肌身離さず身につけるべきものなのではないかと、何となくであるが感じていた。だから、鏡と同じように、首飾りについても尋ねようと思ったが、
「ところで杵築はどこにあるか知っている?」と、ヤソナに遮られた。
ナナモははぐらかされたことが少し気になったが、それでもそのことにずっと興味があったので、「いや」と、否定的な答えで話の続きを促した。
「キヅキだったら出雲だけれど、キツキだったら大分だからね」
「僕はキヅキだと思う、だって出雲には出雲の社があるだろう」
「そうだね。でもそれは国譲りの後の話だろう。だからその前には大分にあったのに、何らかの理由で出雲に移されてきたのかもしれない」
確かにそう言われたら返す言葉がない。相撲の国技館って両国じゃなくて蔵前に在ったんでしょうと、なぜかルーシーの声が聞こえてきた。社が国技館と同じとは言わないが、ヤソナが言いたいのは、カミヨを現在とそう簡単に比較出来ないということだ。
「オホクニの社はね、宙に浮いていると思うんだ。確かに出雲には大きな社があるけど、今は全国にオホクニを祀っている社はあるからね」
アヤベは出雲の社だけが天空のカミガミが行き来できる場所だと言っていた。だからナナモは、それが出雲の大社であると決めつけていた。しかし、正しいとは限らない。決めつけによって歴史は作られるからだ。ヤソナの言う通り、社が空中にあるのなら、どこからでも社には行けるのかもしれないし、反対にどこからでも行けないということになるのかもしれない。
ナナモはキヅキで今夏期講習を受けていると信じたい。それはなぜかここが妙に懐かしい気分でナナモを包み込んでくれるからだ。
「でもどうしてヤソナは社が宙に浮いていると思ったんだい?」
「バカにしないかい?」
「ああ」
「僕は飛行機でここにやってきたからだよ」
バカにするつもりは毛頭ない。ナナモもブルートレインの車窓から大男を見たのだ。
「じゃあその時に社が見えたって言うのかい?」
「そうさ。でも、ナナモが学校はヒラサカにあるってさっき言っていたから、やっぱり出雲なのかもしれないな。それにナナモは伝説の継承者っぽいからね」
ヤソナはこの時会ってから初めてといっていいような不気味な笑みを見せた。ナナモはその笑顔に金縛りにあいながらも、身震いが止まらなかった。
ナナモは急に何か遠い昔の記憶が、地底深くからマグマのように噴き出してくるような感覚に苛まれた。その記憶が噴出したら怪我をする。しかし、どうしてもその記憶を見てみたいという欲求も沸き起こる。ここでは欲を出してはいけない、地下の世界に引き込まれるという声は、ヤソナの声でかき消されそうになっている。ナナモはもう一度耳を澄ましたが、そのどちらかの声を聞く前に、ナナモは睡魔に身体ごと攫われてしまっていた。




