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(11)新たなる夏期講習

「みなさん、苗字ではなく名前だけを、一人ずつ言ってください」

 オホノは最前列に座っているナナモにまず促した。なぜ夏期講習にきて自己紹介しないといけないのかと、頭をかすめたが、夏期講習といっても、きっと合宿みたいなものに違いないと思い直した。ナナモには名前が二つある。ここは日本だからナナモとだけ伝えてもよかったのだが、顔を見ればナナモがハーフであることはすぐにわかることなので、あえて、「ジェームズ・ナナモです」と、言ってから、少し間をおいて、「よろしくお願いします」と、付け加えた。

 ナナモが立ち上がったので、隣の女性も立ち上がった。ナナモはその姿に驚いた。ルーシーではないか。ルーシーが隣にいる。でもなぜ黙っていたのだろう。

「キョウコです。よろしくお願いします」

 ナナモはまた驚いた。ルーシー、いやキョウコをまじまじとは見られないので、できるだけ瞳を外に向けて確認した。やはり横顔だけしか見られない。もしかしたら面と向かえば全く違う顔に見えるのかもしれない。しかし、ナナモ、いや、ジェームズがルーシーを見間違えるわけはない。ナナモの動揺は隠せなかった。さらに驚いたのは、リタやミッシェルやビリーが居る。次々とサマーアイズのクラスメートが立ちあがっていく。しかし、それぞれはナホであり、ユウコであり、ヒロシであると自分の名前を述べていた。

 丁度半分ほどになった時に立ちあがったのはカリンだった。カリンもきっとカリンとは言わないのだろうと思ったが、カリンはカリンであると名前を言った。

「カリン!」

 ナナモは立ちあがって叫んでいた。カリンはナナモの声に何ら反応することもなく、静かに座っている。ナナモはまだカリンの方を見ていたが、オホノが静かにと、ナナモに注意してきたので、ナナモも黙るしかなかった。ルーシーが不愉快そうな顔でナナモを睨んでいた。

 やっぱりルーシーだ。ナナモはカリンのことなど忘れて、ルーシーに懸命に自分のことを無言で伝えようとした。しかし、あれだけロンドンで失意のジェームズを心穏やかに迎えてくれたその優しさは、いま微塵も垣間見ることは出来ない。

 オホノでさえ、リバプールでホットドッグを買った時のおじさんに似ているなと思えてきた。だからどうなんだ。見た目ではない。ここは中間の世界なのだ。ここにいる受講生達が妖怪だとは言わないが、ナナモが思う心が容姿を作るというアヤベの言葉を、ナナモはもはや忘れていた。

 ルーシーはきっとキョウコという女性なのだろう。ルーシーとは完全に別人なのだ。もしやと思ったカリンまでそうなのだろう。

 自己紹介はまだ続いていたが、カリンの自己紹介が終わってからは、知らない人ばかりで、皆日本人の顔をしていた。

「あなたで最後ですね」と、オホノが言ったので、ナナモは振り返る気もなかったが、自然と顔を向けていた。

 ある男が立ち上がり、自己紹介する。

 ナナモには聞き覚えがない名前だ。顔にもさして記憶を刺激する特徴はない。しかし、しばらくその男を眺めていると、頭の奥底から小さな電流が発せられてきて、ナナモは少し痛みを感じた。まだ我慢できる程度だったが、、その刺激は外膜から細胞の中に入ってきて盛んに膨張させながら、まるでスクリーンのように、何かを細胞壁に映し出そうとする。

 ナナモはもう少しでその一粒の光明が捉えられそうだったので、彼から視線を外さないように頑張った。

しかし、そこまでだった。急に吐き気がして、身震いがとまらなくなったからだ。ナナモは仕方なく視線を外し、オホノを見た。オホノは無表情だったが、膨張した脳細胞から、何かをゆっくりと吸い取ってくれているかのような穏やかさを感じて、心が落ち着いてきた。

「授業を始める前にここでの生活についての心得を話します」

 まず朝六時に神社に行ってお参りするので、それまでに、洗顔し、シャワーを浴び、そして真新しい衣服に着替える。朝食をとり、その後は昼食時間以外教室で授業を行う。夕食後は各自就寝までは自由行動だが、図書館で勉強しても良い。そういうスケジュールだった。

 講義はここで行い。図書館や宿舎は別棟だが、地下でつながっている。オホノは、ナナモ達をまるでツアー旅行のガイドのように案内する。少しひんやりとするが、城塞のように、迷路で複雑に交差しているわけではない。きっと案外単純な構造であるのは、ここが夏期講習を目的とした建物であるからだろう。

 そう言えば、列車を降りてから何も食べていない。他の受講生がどのような手段でこの場所に来たかはわからないが、先ほどまで緊張していたので感じなかったが、ナナモは少しお腹が空いてきた。

「授業は三十分ほど経ったら始めます。朝食が希望な人は食堂に行ってください」

 ナナモの声が聞こえたようだ。どんな食事が待っているのかとナナモの好奇心は食堂に向かわせた。きっとこういう世界では豪勢な食事が出てくるに違いない。

 ナナモは閑散としたその場所で周囲を伺ったが、食事を給してくれる人もいなければ、食事らしいものも何一つなかった。

 食堂にいたのはナナモ一人だったが、ナナモは座ってみた。ブルートレインの時のように、給仕が来てくれるのではないかと思ったが、しばらくしても誰も来てくれなかった。

 どれくらい時間が経ったのだろう。オホノは三十分ほどしたら授業を始めると言っていた。そういえば時計が見当たらない。だからナナモはポケットに手を入れる。出てきたのはあの鏡だ。ナナモはもう一度その鏡を見た。ジェームズ・ナナモが映っている?

 いや、映ってはいなかった。その代わり、教室が映り、オホノは授業を始めようとしていた。 

 ナナモは全速力で教室へ掛け戻った。なぜすぐにたどり着けたのかはわからない。オホノは別に何も言わなかったが、ルーシー、いやキョウコが迷惑そうに睨んでいた。

「では、カミヨ国語から授業を始めましょう」

 オホノは黒板を向いた。いつの間にか、目の前には、文房具とテキストが置かれていて、ナナモはテキストを見ながらオホノの講義を聞いた。隣にいるキョウコは東京での夏期講習の生徒達と同じように、真剣なまなざしでノートにオホノの講義をメモしている。ナナモは黒板から周囲に視線を動かす。遠くまでは確認できなかったが、皆真剣にノートに何かを書き込んでいる。

 ナナモも同じようにしようかと思ったが、ナナモはこの講義の何をノートに書き写してよいのかがわからなかった。だいたい、カミヨ国語と言っているが、ナナモが今まで見たこともないような文字が並べられている。平仮名でもカタカナでも、漢字でも、むろん英語でもなかった。オホノはその文字を描きながら、その文章の解釈をしている。その内容はカミガミの言い伝えの様であった。だからと言って摩訶不思議な世界ではない。生と死という単純な輪廻の中で、自然のなりわいが淡々と語られていく。

 カミヨ国語の授業はあっという間に終わった。ナナモはその文字については全く分からなかったので、一切ノートをとらなかったが、その講義は新鮮で、記憶からすぐに消えて行ってしまうということはなかった。

「少し質問してもいいかな」

 ナナモはそれでも遠慮気味にキョウコに聞いてみた。きっと不愛想に見えても、ルーシーのように、困ったナナモを見捨てはしないだろう。しかし、そういうナナモの甘さは一蹴された。キョウコは無言で前を見ている。その先にはオホノがいた。

 キョウコは質問は私ではなく、オホノにしろと指図している。

「でも、先生にはちょっと聞きづらくて」

 キョウコはまだ面倒そうにナナモを見ている。

「じゃあなによ」

 キョウコは初めて声を出した。その声は確かにルーシーだった。

「カミヨモジって何?」

 キョウコは狐につままれたような顔をしている。

「えっと・・・」

 キョウコは何かを言いたがっている。しかし、それが質問に対する答えではないことは明白だ。だからナナモはもう一度自分の名前を言った。

「ジェームズ・ナナモ?ナナモでいいわね」

 ナナモはこくりとする。

「ナナモはこの文字を見るのが初めてなの?」

「ああ」

「本当?」

「ああ」

「それでよく夏期講習を受けようと思ったわね」

 キョウコはまだナナモの質問には答えてくれない。ナナモはそれでもじっと我慢した。

「テキストの最初のページを見れば簡単な説明があるわ」

 キョウコはそれだけ言うと、もう私には質問してこないでよと言わんばかりのそっけなさで前を向いた。ひよっとしたら俺だけなの?と、ナナモは後ろを振り返るしかなかった。

 次の授業は天文学だった。星読みや空読みといったもののようだが、講義は新鮮で面白かった。しかし、困ったことに黒板に記している文字はすべてカミヨ文字だった。

 午前の授業が終了した。オホノは、一時間後に授業を再開すると言った。

 ナナモはまっすぐにオホノの所へ駆け寄ったが、すんでのところでカリンに先を越された。

 カリンはまだ始まったばかりの授業についてオホノに質問していた。特に天文学についての質問だったが、ナナモはカリンの質問の意味すら分からなかった。

 カリンの質問は執拗だった。オホノはそれでもできるだけのことをしてあげようとしていた。

「あの・・・」

 ナナモはそれでも痺れを切らしてつい間に入ってしまった。二人はナナモの声を無視する。ナナモはあきらめて食堂に向かった。

 食堂では皆が食事をとっている。特に誰かが給しているわけではなかったし、誰一人として話しているものもいなかった。

 ナナモはまたしてもどうしていいのかわからなかった。もはやルーシーに聞くわけにもいかなかったので、仕方なく誰かが食事を終えるのを待っていた。しかし、配膳された食器を持ってどこかに去っていくと、誰一人として戻っては来なかった。

 ナナモは途方に暮れた。また、一人なのか。それより、何も食べなければ餓死してしまう。きっと地上の世界ではないのだからそういうこともないだろうが、それでもそれならお腹が減らないわけはない。もはや、ナナモの腹の音は百メートル先へも届いてしまいそうだ。

 今度こそ何か食べない限り教室には戻らないぞと、思ったが、やはり講義は気になる。国語と天文学の授業を聞いただけなのに、もはや最初の思いとは異なった感覚になっている。相変わらずの腹の音だったが、仕方なく教室に戻ろうとすると、カリンが目の前にいた。まだ、食事をとっていない。また、ルーシーのように冷たくされるかもしれないが、もはやカリンにかけてみるしかなかった。

「あの・・・、カリンさん?・・・ですよね」

 ナナモの問いかけに怪訝そうな顔をする。

「僕、ナナモ、いや、ジェームズ・ナナモです」

 カリンはそれでも通り過ぎようとしたが、何か思いだしたのか、ナナモの方を振り向いた。

「ナナモってあなた?」

 ああやっぱりあのカリンではないとナナモは思う。しかし、仕方ない。振り向いてくれただけでもラッキーだ。だから、「はい」と、素直に答えた。

「オホノ先生が、ナナモは食事の取り方を知らないんじゃないかって。だから教えてあげてくれないかって」

 ナナモは頷くしかない。

「やっぱり、そうなの。ナナモは何も教えてもらっていないの」

 また頷くしかない。

「いい。食事は誰が作っているの?」

「さあ?」

「さあじゃないでしょう。ナナモが作っているわけじゃないし、ここはナナモの家じゃない。だったら、料理を作ってくれる人がいるわけでしょう」

 ナナモは頷くことも出来なかった。

「だったらその人達に感謝しないと」

 そう言えば、日本でもイギリスでも食事をとる前には必ず感謝を述べていた。ただし、日本ではいただきますと言う合掌だ。

「料理を作っている人は、その食材を作ってくれる人に感謝しているし、食材を作っている人は、自然に感謝しているはずよ。そう言う感謝のつながりがとても大切なの。それなのに、唯、食べたいっていう欲をナナモは出していたんじゃない。それじゃあいつまでたっても誰も食事を作ってはくれないわ」

 カリンはそう言うと、テーブルに着き、そして、両手を合わせ、そして、心穏やかに、まるでカリンがそこにはいないかのように同化していた。

 すると、カリンの目の前には食事が現れて、カリンはいただきますと、もう一度合掌すると、食事を始めた。

 ナナモは無言で食事をしているカリンの横に座って、カリンと同じようにした。しかし、今までのナナモの生活には食事は当たり前だったので、カリンに感謝しろと言われてもそう簡単ではない。それに、感謝しなければと思えば思うほど感謝していないのではと思ってしまう。

 どうすればと思った時にまたお腹が鳴った。

「自分の欲を出してはいけません。ここで、欲を出すと地下の世界に引き込まれます」

 アヤベの声のような気がする。

「アヤベさん、でも、お腹が鳴って仕方ないんだ。感謝する前にお腹が鳴るし、止められないよ」

「お腹が鳴るのは生理現象です。欲とは違います。だから、心穏やかにして、食事を作ってくれる人や、お米を作ってくれる人や、作物が育っている自然を思い浮かべてください。それは経験しなくとも想像がつくはずです。そういうつながりが大切なのです」

 ナナモは想像ならできそうだと思った。大地に根付いた作物を収穫し、それを料理する。単純ではあるが、ゆったりとした時間の流れを創造してみた。ナナモがそのすべてを感じ取れはしない。しかし、そういう人々と自然のつながりは古来、大切にされてきたことだというのはわかる。その営みの中でたまたまナナモが生まれ育ってきた。そういうつながりの中に居る。ナナモは感謝とはそういうものなのではないかと解釈した。

 そうするとナナモの前に食事が現れた。簡素ではあったが、もぎたての香りがした。

「いただきます」

 ナナモは無欲で食べていた。もはや自然とのつながりなど忘れてしまっていた。料理人の食事はおいしかった。そういう単純さの中にいた。

「ごちそうさま」と、無言ですべて食べきると、自然と言葉が出ていた。隣にいたはずのカリンはもういなかった。そう言えば今何時なのだろう?カリンに聞いておけばよかったと思った。

 ナナモはその膳を持ち上げて食堂から去ろうとした。どこに持って行けばよいのだろうかという迷いは、風のように近づいてきた何ものかによってスーッと持ち運ばれていた。

 この食堂には誰かがいるんだと、ナナモは思ったが、そのことを深く考えることはなく。おいしかったですよと、心の中で合掌した。

 ナナモはポケットから鏡を取り出す。教室の様子を見ようと思う。しかし、そこに映し出されているのはナナモの姿だった。ナナモははじめ自分の顔だけを見ていたが、首飾りが光っているように見えた。

 首飾りはすべてモスグリーンの色をしている。ナナモがその鏡を見ていると、向かって左側の一番上の勾玉が光り、その次にその二つ下の勾玉が光った。

 ナナモは何のシグナルだろうと見直したが、同じようには点灯してくれなかった。仕方なく、ナナモは鏡をポケットに戻そうとしたが、慌ててもう一度その鏡で自分を映し、そして今何時なのだろうと念じてみた。すると鏡に映る勾玉は同じ場所で同じように光った。

 首飾りは十二個の勾玉で出来ている。ナナモは勾玉をさすりながら、そうなのかと、足早に教室に戻った。まだ、オホノは教室には現れていなかったが、ナナモ以外の生徒は皆席についていた。

 昼からの講義は地質学と植物学だった。これもナナモにとっては馴染みの薄い教科だった。相変わらずカミヨ文字は講義中ずっとナナモを悩まし続けていたが、それでもその内容はナナモの興味を飽きさせることはなかった。

「皆さんを寄宿舎に案内しないといけませんので、今日の講義は少し早いですが終わります」

 オホノは、夏期講習はこの四教科を中心に進められるので、しっかり予習復習をしてくださいと、付け加えた。

「では寄宿舎に案内します」

 ナナモたちは地下道を通って、寄宿舎に向かった。おそらく、いくつかの竪穴式住居が建てられているに違いない。

 二人一組で一部屋となる。畳に布団ではなく、机が二つとベッドが二つというシンプルな作りだ。

 ナナモは部屋に入り右側のベッドに荷物を置いた。

「悪いんだけどこっちと代わってくれないかな。右側に壁があると寝れないんだ」

 ナナモは別にベッドにこだわりがなかったので、ああいいよと、言おうとしたが、その顔を見た途端、目の前が暗くなり鼓動が激しくなった。

 ナナモの目の前には最後に自己紹介した青年が立っていた。

「ねえ、大丈夫」

「ああ」

 きっとナナモの顔は真っ青だったに違いない。首筋にナメクジが這うような冷汗も滲み出ている。それでも、ナナモは彼から目を逸らさなかった。

「えっと・・・」

「ヤソナっていうんだ。よろしく」

 本来なら笑顔で、「こちらこそよろしく」と、言うべきなのだろうが、ナナモは握手を求めてくるヤソナに手を差し延べるだけで精一杯だった。


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