(1)謎の日本人
五月に入り、やっと太陽に力こぶがつき始めた。おいしそうな綿菓子が、まっさらな青空に浮かんでいる。
ここは、イギリスのリバプールにあるライムストリート駅だ。まるで動物園の大きな鳥類舎のように鉄筋の格子で出来ている。終着駅なのだが、もちろん完全に閉鎖された空間ではない。だからか、ガラス張りになっているというのに、構内は、まったりと温められることはなく、ひんやりしていた。でも何かから守ってくれている。そういう気配は漂っている。
ジェームズは駅舎から一歩外に出た。すると、魔法がとけたように強風が激しく当たってきた。少し油断すると、体ごと持っていかれそうな勢いで吹き付けてくる。ジェームズは思わず目を閉じ、両足で踏ん張りながら、ジッパーを首元までしっかりと上げた。今年十八歳を迎えようとしているのに、紺色の薄手のダウンにジーンズ、背中には黒のリュックという地味な格好だ。それでもその装いが功を奏したのか、しばらくじっと我慢していると慣れてくる。だからゆっくりと目を開けた。
ジェームズはある目的があって、わざわざロンドンからやってきたのだ。本当ならすぐにでも駅前通りへと足早に階段を駆け降りていかなければならないのに、そうできないもどかしさの中で雲を眺めていた。しかし、その白雲は一向に動こうとしなかった。
ジェームズは視線を腕時計に移した。白地の基盤に赤い指針。誕生日にもらったメイドインジャパンは、もはや午後一時を過ぎていることを黙って教えてくれる。
「まあ、仕方ないか」
きっと何度見ても同じ時刻しか示さないだろう。だから、ジェームズはあの雲に再び視線を移した。かすかに膨らんだように思える。
ジェームズはその変化に惹起されたのか、いつものように過去から目を背けるのではなく、これまでの軌跡を追い始めた。
ジェームズは今朝五時に起床した。もちろんいつもではない。昨夜日付が変わろうとした時に、友達のルーシーから、
「リバプールで大会に出るから、今日は会えないわ」と、メールが来たからだ。
「あの大会って今日だった?それもリバプール?」
ジェームズは確かにルーシーから大会に出るとは聞いていた。当然、ロンドンで行うものとばかり思っていた。
「でも、ルーシーに何の用があったんだっけ?」
ジェームズはいくら考えてもその答えにたどり着くことが出来なかった。だから応援というよりも、ルーシーに会わなければならないと、単純に思ったのかもしれない。
ルーシーは柔道などの東洋の格闘技を経験した後に、日本の相撲を自らの競技にしていた。まさかルーシーが、日本人は今でもちょんまげに着物姿で刀を振り回している侍だらけだ、なんて思っているわけではないと思うのだが、侍風の髪型をした、太った様な肉月で、裸になった大男が、腰に「回し」という、狭い帯のようなものを幾重にも巻き付けただけで闘う姿は、ルーシーにとって案外ミステリアスに思えたのかもしれない。
さすがに女性が裸で競技するわけにはいかないので、一見、レスリングの選手のようなコスチュームに回しを付けることになる。ただし、裸足だ。
「ねえ、どうしてそんな格闘技を選んだの?」
「いま、格闘技って言ったよね。相撲は格闘技じゃないのよ。神事なの。だから、おごそかなの?」
「おごそか?」
「そうよ。言い換えれば神聖なものなの。だからとても礼儀作法が厳しいの」
「でも勝ち負けはあるんでしょう?」
「そりゃあ、そうだけど」
ルーシーが女性同士で話をしている声が聞こえてくる。
「それって、日本ではポピュラーなの?」
「子供から大人まで知っているわ?」
「そういう意味じゃなくて、みんながするものなの?」
「子供の頃はよくするみたい」
「じゃあ、日本ではサッカー選手より多いのかしら?」
「断然少ないと思うわ。力士っていうんだけど、プロの相撲選手は誰でもがなれるものじゃないから」
「プロって? でも神事なんでしょう?」
「うん、そうだけど、そう簡単ではないみたい。それに、土俵っていって、ボクシングで言うリングのような所は、女性は上がることすらできないのよ」
「それじゃあ、今度の大会では土俵はないの?」
「そんなことはないわ」
「どうして?」
「ヨーロッパでは神事より格闘技という面が強いからだと思うし、国際的に広まって行けば、日本でもいずれそうなっていくかもしれないから」
「ルーシーはそれでいいの?」
「神事だと思うと複雑ね。でも日本の古い書物にはちゃんと女性も相撲を取っていたって書かれてあるのよ」
そんなルーシー達の会話を思い出しながら、ジェームズはロンドンのユーストン駅で自分が乗るべき列車を待っていた。丁度四十五度の角度で視線を上げると、この駅から出発するあらゆる方面が示されている駅構内の電光掲示板が、広角に拡がっている。ただし、きちんと列車が時間通りに出発するとは限らないし、どのホームから出発するかはギリギリまでわからない。
「なんか効率悪いな」と、いら立ちがジェームズにそう思わせたが、ふと周りを見回すと、自分と同じように掲示板を見上げる人々がいて、その姿が鏡のようで却っておかしく思えた。
やっとのことでリバプール行きの列車の発車ホームと時間が確定し、掲示板に映し出されたのは出発の二十分前だった。ジェームズはポケットに手を突っ込み、切符を確認すると足早に向かった。もう少しで発車ホームに通じる改札に達すると思ったその時、ジェームズは誰かに引っ張られ、危うく倒れそうになった。
「あの……、助けてください」
ジェームズは声を掛けられただけなら、聞こえないふりもできただろう。しかし、背に持ったリックをしっかりつかまれていたので、「どうしましたか?」と、答えるしかなかった。その声に反応するように、前かがみの姿勢からゆっくりと顔を上げてきた。
若者ではない。だからと言って太った中年という様相でもない。きちんとした紺のスーツを着ている東洋系の男性が、確かに苦しそうな面持ちでいる。
「腰が……」
ジェームズは、その男性がしきりに腰に手をやりながら、「痛い」と、繰り返すので、どうしたものかと、あたりに目をやった。いつもなら誰かしらが忙しくても近寄ってくれるのに、ジェームズ達ふたりというか、困っている男性を誰一人気遣うこともなく足早に通り過ぎていく。だからジェームズは思い切って、「助けてあげてください」と、大声で叫んでみた。誰も足を止めるどころか、振り向くこともしてくれない。
「救急車を呼びましょうか?」
ジェームズはこの状況ではそれが一番正しいように思えた。
「私は日本から旅行で来た者なのです。だから、救急車で運ばれても……ああ……、痛い……」
確かにたどたどしい英語だが、眉がしっかりして、黒目も大きい。
「お知り合いの方に連絡しましょうか?」
ジェームズは改札口をちらりと見たが、もはやこの男性をこのままにすることは出来ない。
「一人旅なので」
「えっ」
一人旅の割にはスーツ姿? バックすら持っていない。
「とにかく病院へ」
ジェームズはそう言うしかなかったが、一体どこへ連れて行けばいいのだろう?と思った。なぜなら、ジェームズはここ数年クリニックへ行ったことがなかったからだ。
「えーっと……」と、スマホを取り出すと、急にその男性がメモを見せてきた。旅行者はこのクリニックを受診するように言われたらしい。しかし、住所は書かれてあるのに、電話番号が書かれていない。「電話は?」と聞くと、その男性は答えることなくまたうずくまってしまった。「電話をかけてからじゃないと診てくれないと思うんですけど」と、もう一度それは親切心で尋ねたのだが、やはり返答はなかった。
ジェームズは仕方なく、その男性の片腕を肩に担いでゆっくりと歩き出した。先ほどより人が多くなっている駅舎内であったが、ぶつかることもなく、相変わらず誰もいないかのようなよそよそしさで通り過ぎていく。
男性はもはや体を完全にジェームズに預けてくる。それでも何とか歩こうとしてくれるのだが、また痛みでうずくまる。背中に乗りますかと言うと、リュックがと、とんちんかんな返事をする。駅前通りまで行くと、それまで誰もが近づかなかったことが嘘のように、一台のタクシーが急停車した。
乗ろうか躊躇していると、急にドアが開き、その男性はジェームズを引きづり込むようにして座席に落ち着いた。
「ハムステッド二十番地へ」
ジェームズが後部座席から行先を告げると、車のドアは勝手に閉まり、運転手は無言で発車した。
もはや朝靄は消えかかっていて、透き通るような光沢が、街並みを、原色よりもはっきりとした輪郭で立体感を持たせてくる。いつも地下鉄ばかりを利用している学生のジェームズには、その男性を気にしながらも垣間見えるその景色の移動が新鮮に覚えた。
そう思っているのはジェームズだけではないようだ。できるだけ早く目的地に着かなくてはいけないのに、運転手は気にも留めないようで、わざとゆっくり走っているようにも見える。世界でもっとも有名な横断歩道は、早朝だというのに観光客で賑わっている。そこでも一切クラクションを鳴らすことがなく、記念写真を邪魔しないように停車していた。うめき声はもはや聞こえない。ジェームズは男性の名前を聞いていないことに初めて気付き、様子を伺いながら尋ねてみた。「アヤベ」と、言ったような気がしたが、そのことをもう一度確認する前に、タクシーは、とある白亜の建物の前で止まった。
「着きました」と、ロンドンタクシーの運転手らしく、自信たっぷりな声で告げてきた。しかし、ドアは自動では開いてはくれなかった。だから、ジェームズは自らドアを開け運転席に回った。窓越しに、いくらですかと、尋ねると、運転手は、男性からもらっていますと、返答した。いつのまに? いやそんなことなどあるはずがないと、要らぬ勘ぐりを起こさせる猶予を与えないような素早さで、その男性はいままでのことが嘘のように、一人でタクシーからスーッと降りると、そのまま何事もなかったかのように建物の中にさっさと歩いて入って行った。
「あの……」と、一瞬あっけにとられていたジェームズも、すぐに後追いでその建物のドアノブに手を掛けたが、岩のように押しても引いても一向に動かない。普通ならこんな不思議なことが起こると気持ちが悪いし、することはしたのだから一刻も早くこの場から立ち去りたいと思うのだが、礼を言われなかったということよりも、言えなかったほどつらかったのかもしれないと、なぜかあの「アヤベ」という男性は大丈夫なんだろうかと、そのことが気がかりで、すぐにその場を離れられなかった。
誰かこの建物に入って行く人や出て行く人がいれば、少しでもクリニックでの様子が聞けるのにとも思ったが、視界に映る光景に変化はなかった。そういえば音が全くしない。
もし、重傷なら救急車がこの建物に横付けされるはずだから、きっとたいしたことはなかったのだと、ジェームズはやっとのことで地下鉄の駅に向かった。「一体何だったんだろう?」と、あの男性のことを考えていると、いつしかまたユーストン駅に戻っていた。
ジェームズはデジャブのように電光掲示板の前に立っている。しかし、デジャブではなかった証拠に、発車時刻は腕時計と同じで午前八時を示していた。リバプールまでは二時間以上はかかる。もし、一回戦で負けてしまっていたらと、でもルーシーに限ってそんなことはないだろうと、ジェームズは列車に乗り込もうとした。
今度は何事もなく改札を通過する。駅員がちらっと切符を確認する。ジェームズはしっかりとリュックを背負い直した。それでも気になって先頭近くの自由席車両に向かうために、プラットホームを歩きながら時々後ろを振り返ったが、誰もいない。
その時だった、急に前からジェームズにぶつかってきた人がいる。二人はその場に倒れ込んでいた。とっさのこととはいえ、ジェームズはなぜか冷静で、自分の体が倒れていくのをまるでスローモーションのように捉えられていて、不意の事故なのに、うまく身体を反転させて大きく打ちつけられるのを自然とかわすことが出来ていた。だから大丈夫ですかと、声を掛ける前に、「泥棒!」という叫び声に反応してすぐに立ち上がれたし、もはや走り去ろうとしていた男を追いかけ始めていた。
せっかく改札を通れたというのに、もう少し歩けていたら列車に乗り込んで、今頃大きく背を伸ばしてゆっくりとまどろむことが出来たのにと、もはや全速力で走り始めていたジェームズの頭は結構冷静だった。あんなに素早く反応したつもりなのに、相手はもはや五メートル以上も先に居る。後ろ姿は完全な男だ。案外無駄な贅肉がない。黒髪でスーツを着ている。あれ? と、スピードを落とさずに走りつづけながら、当然の疑問にぶつかる。でもそのスーツは紺ではなくグレイのストライプだ。でも似てる。なんとか追いつかなければと、ジェームズはギアをあげた。ずいぶん人通りや車や自転車が多くなった道路をその男は器用に走り回っている。偶然にも誰ともぶつからない。いや間一髪でぶつからないように器用にすり抜けているようにも見える。しかし、不自然極まりない。
ロンドン大学を南下して、大英博物館を通り越し、ソーホーにまで達した時に、ジェームズはその男の姿を取り逃がしてしまった。結構全速力で走ったはずなのに、それほど息は乱れていなかった。それでも立ち止まることはせずに、ゆっくりと歩きながらもあたりを注意したが、やはりその男は現れなかった。
「仕方ないか」と、スマホを取り出そうとすると、その男の後ろ姿が目に入った。ジェームズは今度こそと走り出すが、その男も後ろに目があるのか、背を向け再び走り出した。
このエリアで幾度となくそのことが繰り返されたが、決してその男を捉えられない。だからジェームズはじっとしていた。きっと、そのうちあの男は出てくる。その時はゆっくりと素知らぬ顔で近づけばいい。それも背後からではない。ゆっくりと遠回りしても良いから前方に回り込むんだ。
ジェームズは無言でスマホを取り出した。五分、十分、十五分と、時計は進んでいくが、今度はいくら待ってもその男は姿を現さない。ここまで来たらとことん付き合ってやるとも思ったが、そうだ、今朝早起きしたのはなぜだったんだろうと、別な声が聞こえてきて集中できない。だからこれは現実ではないのだと自分に言い聞かせた。だいたい「泥棒!」って本当に叫んでいたんだろうかと、それすらも疑い始めていた。今日は絶対にルーシーに会いに行く。このまま、ここで一日を費やしても仕方ない。警察もいるんだし、もし事実なら、駅員もあの男の特徴を知っているはずだし、正面から顔を見ている。
ジェームズはスマホをポケットにねじ込むとゆっくりと歩き出し、オックスフォードサーカス駅を目指した。すると、右九十度側方を見たことのある男の横顔が、映画のスローモーションのように正面からすれ違う様が映りだされる。「アヤベ」と、なぜかその言葉だけが汽笛のように聞こえてくるが、正面ではないので確認できない。なんとか回り込むんだと思えば思うほど、身体が言うことを聞かない。だから「くっそー」と、お腹に無理やり力を入れてみた。しかし、もがけばもがくほど、余計に何かが絡みついてくる。だから目をつぶり、今度は体から一切の力を抜いてみた。すると急に全身の足枷が無くなり、身体が軽くなった。やっと自由になったんだと、その喜びがもはやすばやく方向転換を指令し、あの男を追いかけるために全速力で走り始めていた。今度はハイスピードで周りの景色が遠ざかる。しかし、もはやそのことはどうでもいい。あの男を捕まえるのだという思いだけが、馬の鼻先にぶら下がる人参のように目に入る。
どこをどう走ったのかはもはやどうでも良かった。これほど全力疾走したのに追いつくことが出来ないことが悔しくてたまらなかった。目の前にはユーストン駅が再び映る。これが最後のチャンスかもしれない。だから、最後の力を振り絞って腕を思い切って交互に振り、一ミリでも足先を伸ばしてみる。もう少しだ、もう少しだ、と、まるで呪文のように言葉を反芻する。そして最後には、祈るような気持ちで指先に力を入れた。スーツの端に手がかかる。よしやっと捕まえたぞと、思った瞬間、その男はユーストン駅の改札を通りぬけ、異次元に吸い込まれたように消えてしまった。
ジェームズはあれだけのスピードにいつブレーキを掛けたのかわからないほどのゆっくりとした歩幅で、ホームを前方車両に向かって歩いていた。もはやデジャブではなく幻想なのだと思う一方で、この世に幻想なんてないんだと願う自分もいた。だから現実だけを一つ一つ確認するように、それでもこそ泥のように周囲をきょろきょろ見渡しながら、やっとのことで列車に乗り込んだ。午前十一時発の列車は定刻通りに発車した。もはや列車の真上から陽光が降り注いできていて、車内を程よく温めていた。抑揚のない車掌の声が、まるでゆりかごのなかで聞く子守唄のようにジェームズに染みこんできて、いつしかまどろみの中にゆっくりと吸い込まれていった。




