鍋敷き
「ありがとうございます。これから一緒に頑張りましょうね」
本を手にした瞬間にどこからともなく声が聞こえた。
「ん?」
微かに聞こえた声は、男性の声とも女性の声ともどちらとも取れる中性的な声だ。
耳に心地よい透き通った声で、なんと表現したら良いものか、そう、理想的な声だ。
不意に聞こえた声に辺りをキョロキョロと辺りを見渡してみたけれども、古本屋の店主が少し離れたところにあるレジでうたた寝をしている姿以外、他に誰の姿も見られなかった、だけど聞こえた気がした。
「おかしいな?気のせいだったかな。」
仕事のしすぎで疲れているのかもしれない、はたまた、あまりにもモテなさすぎて少し心が病んできているのかも?
そんなことを思いつつもこの胡散臭く、鍋敷きにするくらいしか使い道がなさそうな本を買うためにレジに向かった。
なんでそんな本を買うことにしたかというと、特に理由はない、ただなんでも良かったんだ気が紛れれば……
「勢いでやった、反省している。」
そんなセリフが頭に浮かんで少しニヤケしまった。
そんなニヤケ顔は当然レジに着くまでに、いつもの凛々しい顔に戻して、本をカウンターの上に置いた。
自分では普段の顔は凛々しいつもりなのだ、誰にも同意してもらったことはないけども。
「いらっしゃい、一冊でいいかい?」
いつの間にか、うたた寝から目覚めていた店主がそう話しかけてきた。
コクっ
無言で俺は頷く。
なぜかわからないがこういう場面でなんといえばいいのか30才になるというのに未だにわからない。
まあ買い物をするのに、言葉でのコミュニケーションは特に必要性を感じでいないだけだ。
「ビッ!」
店主がバーコードをスキャンする。
こんな寂れた個人商店でもバーコードで商品を管理してるもんなんだな。
そんなどうでもいいことに感心をしていながら、パンツのお尻側のポケットに入っている、財布に手を伸ばした瞬間
「10000円になります。」
「え?」
「え?」
俺と店主がお互いに顔を見合わせた。
10000円?こんな汚れた中古本が?
どうなってるんだこういったHow to 本なんて値が張ってもせいぜい2000円がいいところだろう。
それなのに古本で10000円?
明らかに値段設定を間違えている。
「買うの辞めたいよぉ、お母さん。」
心の中で小さな俺が助けを求めている。
お母さんは全く関係ないのだが、自分の中の幼児性がこういう時に垣間見えてしまう。
店主の方も値段に驚いてレジの表示を、2度見してしまっているじゃないか。
あんなにキレイな2度見なんて、ふと見上げたパチンコ店の看板の「パ」が落ちてしまっている時くらいにしか見たことがない。
「…………」
俺と店主以外に誰も居ない店内を静寂が包む。
お互いにしばらくの間無言で見つめあってしまった。
「おかしいな、ちょっと値段確認してく……」
店主が言い終わる前に、俺は財布から10000円札を取り出していた。
早まった!しかし、出したものを今さら引っ込めるのも格好が付かない。
「ダダダ、ダイジョーブです!」
上擦った声が出てしまった。
何も大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないけど仕方がない。
仕方がなくないけど引っ込みが付かない。
もう買うしかないのだ……
10000円札をレジの上に叩きつけるように置き、本を引ったくる様に店主から取り上げ、早足で店を後にした。
店を後にした俺の胸には後悔と恥ずかしさ、そして10000円もする中古の鍋敷きが残った。