昔の妻
翌日、お袋から名前を聞いて、親父が搬送されたその救急病院へ赴いた。
病院は、河川沿いの景色の良い場所にあり、上階の病室であれば遠く海を見ることも出来る。長く入院していると気分も重くなるので、患者の精神的な安定をはかるためなのか。いや、たまたまそれなりの広い土地があったからだと思うが、とにかく眺めが良いのは確かである。実はここの病院、俺が高校生の頃に来たことがある。お袋が、急に胸が痛くなり入院した時で、心臓が軽い機能障害を起こしたのである。今でもその症状は続いており、主治医に診てもらっているが、その時、自宅の家事機能が停止した。お袋が居なくなると極端に不便な生活になってしまった。取り分け、昼の弁当のみならず風呂上がりの下着の用意までやってもらっていた親父は、かなり苦痛だったに違いない。言わずともあのクソ女がお袋の代わりを務める力などない。ギャグではないが、我が家の生活はお袋が心臓部であり、我が家自体も疾患にかかってしまったのだ。それから長い時を経て、その心臓は年老いてもなお、稼動不能なロボじいを支えようとしている。昔の日本人妻の献身には、感銘すら覚える。
「来てくれたんだね、ありがとうね。」
手術を終えて眠っている親父の傍から、ずっと離れないお袋の様子、安堵している顔には全く見えなかった。
「どんな具合かい?」
「さあ、どうなんだろうねえ、手術のことは、全然わからないから、代わりにあんた、先生からどうだか聞いてくれないかい?」
「ああ、勿論だよ。お袋独りでよく頑張ったね。手続きのことは俺がするから。」
「いいのかい?、たすかるよ。」
すると笑顔になった。気性が強いお袋は、昔は正直な表情を見せることはあまりなかった。今回は相当身に堪えたのだろう。俺は、他の用より優先して来た甲斐を感じた。そして、お袋は、こんなことを言い出した。
「ついこの前、来てくれたからねえ、姉ちゃんからも電話があったんだけど、来たばかりだから、もう無理して来なくていいよって言ったんだよ。いつ死んでもおかしくないことだけど、その度に来てもらうのは大変だからね、そうなったらしょうがないことと割り切っていいんだよ。」