夜明け前 3
パジャマから制服へと着替え終えたアザミは、奥行きのある大食堂に案内された。先ほどの寝室以上に華美な装飾が其処彼処になされた荘厳な空間は、アザミの家以上の大きさがあるのではないかと思わせるほどに巨大で、まるで小人にでもなってしまったかのような錯覚を引き起こす。あまりの威容に放心していると、「こっちこっち」とお姉さんに案内されて、周りの家具類に引けを取らない大きな長机の端の席に座らされた。
席に着くと待つ間もなく料理が運ばれてきた。先ほどのセロシアと呼ばれた金髪の青年が一人で全ての用意をしていた。周りを見ても彼以外の使用人らしき人物は見当たらず、ここにいるのはアザミとセロシアとお姉さんの3名だけである。そういえば、と、アザミはようやく大切なことに思い至る。
「すみません、お姉さんの名前を聞いてもいいですか?」
倒れたところを拾ってもらって、その上朝食まで用意してもらった恩人の名前すら知らないのでは非礼も過ぎるであろう。
「そーいえば、言ってなかったね。私の名前はねフィエリスっていうの、よろしくね」
フィエリスと名乗ったお姉さんは、長机の一番奥の席に座っていた。ごく自然な風に腰掛けているがそこは当主の座する場所であり、つまりは彼女こそがこの途方もない大豪邸を取り仕切る張本人であることを示していた。その事実を知ってか知らずか、アザミは応えるように自らも名乗っていた。
「私は紫門アザミです。あの、本当に今更なんですけど、ありがとうございます、助けていただいて」
フィエリスは、そんなアザミの反応を実に微笑ましそうに見ている。
「そう、アザミちゃんっていうのね。そんなに畏まらなくっていいよ、困っている人を助けるのは私の仕事みたいなもんだから」
ノブレスオブリージュというやつだろうか。高貴な人々は他者に対する配慮まで優雅に行ってしまえるのだと、アザミは心の底から尊敬する眼差しでフィエリスを見つめる。当のフィエリスはアザミのそんな視線をくすぐったそうに受け止めていた。
「それから、さっきまであなたの傍について様子を見ていてくれたのがルメリアさん、朝ご飯の支度をしてくれたのがセロシアさんだよ」
フィエリスが紹介するとセロシアがニッコリ笑って頭を下げたので、アザミはつられて会釈を返す。こちらのセロシアについては、朝食に呼ばれたときに聞いたので知っていたが、あの秘書風の美人はルメリアというのか。アザミは頭の中で寡黙な彼女の顔を思い浮かべる。太陽のような男性と月のような女性は、あらゆる点で対照的であるように思えた。
アザミとフィエリスが会話をしていると、机の上には料理が出そろっていた。パンにバター、オムレツにスープ、果物とシンプルながらも品のあるメニューは、食欲を誘う芳香を漂わせている。
「さ、食べましょ」
「い、いただきます」
恐る恐る口に運んだそれは、口一杯に佳味を広げていく。長時間何も口にしていなかったこともあるのだろう、アザミの身体は一口、もう一口と次々に目の前の料理を口に運んでいく。
「おかわりする?」
あっという間に食べ終わったアザミを見てフィエリスは優しい口調で訊ねた。
「い、いえ、もう十分頂きましたから、美味しかったです」
しかし、アザミの言葉を裏切るように腹が音を立てて返事をした。
「ふふ、遠慮なんてしなくていいのに」
「す、すみません」
「沢山食べてくれた方が作った人も喜ぶと思うよ? ね、セロシアさん」
「ええ、丹精を込めて作った甲斐があります。さあ、お召し上がりください」
運ばれてくる追加の朝食を、アザミは顔を仄かに赤らめながら受け取る。
「ありがとうございます」
小さくなりながらも礼を言って、二度目の朝食を食べ始める。二度目であってもその美味しさに変わりはなく、やはりすぐ完食できた。フィエリスは三度目を進めてきたが、そこは強く断った。幸いなことに腹は鳴らなかった。
朝食を食べ終わり一息ついたところで、紅茶を飲みながらフィエリスは本題である宝石剣について話し始めた。
「さっきの続きなんだけどね、あなたの持つそれはこの地方に伝わるおとぎ話の中に登場する『魔法の杖』なの」
「魔法の杖、ですか?」
「そう、魔法の杖」
通常、魔法の杖と言われれば想像するのは木の枝のようなものだが、アザミの持つそれは明らかに鉱物によって作られた石製のものだった。そもそも科学技術が蔓延し、神秘やオカルトが文化の隅まで追いやられたような環境で生まれ育ったアザミにとっては、魔法という単語自体が突拍子もないものではあるのだが。それでもフィエリスははっきりとした口調で断言した。
「なんだか、まるでファンタジーの中みたいですね、魔法の杖なんて」
おとぎ話なのだからファンタジーであるのは必然なのだが、その魔法の杖が実在すると言われれば微かに笑みを浮かべずにはいられなかった。フィエリスはそんなアザミの表情を見て、何かを考えるように一拍おいてから喋りだす。
「そうね、まるでファンタジーみたいだよね、どんな魔法でも扱うことの出来る杖なんて」
――普通は一人に一つだもの。
アザミの感想に同意するように言葉をなぞるが、最後に付け足された一言は両者の認識の隔絶を決定づけるものであった。
「ですよね、一つあれば十分ですもんね。はは、……………………へ?」
曖昧に笑って流すような器用な芸当は、残念ながらアザミの適応力では叶わない。その常軌を逸した発言に脳内の処理が追い付かずしばらく動きが停止する。言葉の意味を何度も咀嚼してようやく飲み込めだしたアザミの様子を見計らって、フィエリスは確信に満ちた笑みを浮べながら言い放った。
「やっぱり知らないんだね、魔法のこと」
反射的に知っていますと答えそうになるアザミだが、その言葉は喉の奥に押し止めた。確かに絵本やアニメなどで小さいころから魔法というものは見てきた。火を起こす魔法や変身の魔法、動物と会話ができる魔法等々、様々な魔法がファンタジー世界に浜の真砂ほど溢れかえっており、それらは全て人の理想を表現するための夢物語であった。
今、目の前のフィエリスが言っているのは、そういった魔法のことではない。
架空の幻想ではなく、事実としての現象。
誰かの描いた実現不可能な空想ではなく、人々がごく自然に扱うことのできる技術としての魔法である。
「こーいうのは見せてあげた方が早いよね」
フィエリスは手にしていたテーカップを傾けて、中の紅茶をテーブルナプキンの上に零した。透明な深緋の液体が、光を通して煌きながらカップの口から下へと流れていく。アザミは突然の奇行に目を見開くが、よく見ると零れた紅茶はナプキンに染み込まずその場に留まり続けていた。
「これは……」
「私の魔法はね、撥水。私の望んだものなら紙だって、タオルだって濡れないようにすることができるの」
撥水。
自然界ではアメンボの足や蓮の葉などで知られる、いわゆる水をはじく現象。そのメカニズムは形状によるものであったり、油によるものであったりと様々であるが、それらの特性を持たない物質にも撥水の性質を付与できるというのが、どうやらフィエリスの魔法であるらしい。
その現象が魔法である証拠に、フィエリスが指を鳴らすとナプキンの上に溜まっていた大きな水滴はみるみるうちに染み込んでいく。別に指を鳴らす必要は無いらしく、わかりやすくするための演出であるとフィエリスは補足した。ともあれ一連の様子を見ていれば、これが魔法であるというのは疑い難くなった。
「今はこんなものしか見せてあげられないけど、機会があれば大掛かりな物も見せてあげられるかもね」
フィエリスは謙遜するように言うが、こんなもの程度の扱いでしかないのがアザミにとっては驚きである。大掛かりな物とは一体どれほどの規模の魔法になるのだろうか。そこまで考えたところでアザミは思い出す。
今朝ベッドで目が覚める前の記憶。草原で聞いた耳を裂くような轟音と、蹂躙し尽くされた大地の映像が鮮明に浮かび上がってくる。こうして向き合っている今は敵意こそ感じないが、それでもフィエリスはあの凄惨な光景を生み出すことの出来るほどの破壊力を有しているはずなのだ。
魔法を持たない自分ではここでは暮らしていけない。文字通り、住む世界が違うのだ。
フィエリスはなおも魔法の説明を続けるが、どこか遠くで話されているようでアザミの耳には入ってきていない。意識は一刻も早く帰宅することへと傾いている。だからフィエリスの話が一段落着いたところを見計らって、家へ帰ることを切り出した。
「すみません、せっかくお話しいただいてるところ申し訳ないんですけど、そろそろ帰らないと……」
「あら、ごめんね。私ってば話しすぎちゃったみたい」
フィエリスは少しだけ恥ずかしそうにはにかんで、椅子から立ち上がり食堂の入口へと歩いていく。アザミも後を追うように後ろについて歩く。入口の傍に立っていたセロシアが、二人の歩みに合わせて重厚感のある扉を開く。前を歩いていたフィエリスが立ち止まってセロシアに語り掛ける。
「アレを持ってきてください」
「かしこまりました」
小声でやり取りした後、振り返ってアザミを見る。
「それじゃ、玄関まで見送るね。こっちだからついてきて」
そう言って正面に向き直り、歩き出したフィエリスに続いて部屋を出る。
「朝ご飯美味しかったです。ごちそうさまでした」
「恐れ入ります」
入口に立っているセロシアを見上げながら礼を言うと、輝くような笑顔で返事を返された。
圧倒されるほどの豪邸ではあったが、意外と玄関までは遠くなかったように感じた。それとも感覚が麻痺してきているのかもしれない。ようやく馴染んできた屋敷のスケールに別れを告げるのは名残惜しくもあるが、こんなところで生活を続ければいよいよ家に帰れなくなってしまいそうな気がする。玄関につくと、二人よりも後に食堂を出たはずのセロシアが、荷物を持って待機していた。一体どうやったのか不思議に思うが、魔法のある世界なのだから、細かいことは気にしても仕方ないのかもしれない。
そこでアザミは荷物を二つ渡された。一つは宝石剣、ではなく『魔法の杖』だった。ただし、アザミの記憶にある抜き身の状態ではなく、きちんと鞘に納められている。更にベルトが通してあり襷掛けできるように細工が為されていた。
「セロシアさんに頼んで作ってもらったの。いくら切れないとはいえ、抜き身の刀剣に見えるようなものを持ち歩くのは物騒でしょ?」
確かに物騒ではある。しかし、それを言い出したらそもそも刀剣を持ち歩くこと自体物騒なのだが。
「問題ないよ。だって刀剣じゃないんだもの。もし何か聞かれたら、ただの宝石ですって答えれば大丈夫」
宝石なら宝石で税関に引っ掛かりそうな気もするが、その時は大人しく引き取ってもらおうとアザミは心の中で思う。もともと思い入れのあるものでもないし、何より優先すべきは家に帰ることなのだから。
「それからこちらは昼食になります」
そう言いながらセロシアから渡された二つ目の荷物は、蓋のついたコンパクトなサイズのバスケットだった。中にはサンドウィッチがギッシリと詰まっている。
「お腹が空いたら食べて。籠は持って行ってくれたらいいからね」
何から何まで親切にされて、アザミは感極まってしまう。だが別れの場面に涙は見せられないと制服の袖で拭い、顔をあげて感謝を述べる。
「ありがとうございます、本当にお世話になりました。さようなら」
「少しでも力になれたみたいで良かったよ。それじゃあね」
「お気をつけて」
見送る二人も笑顔で手を振っている。深く頭を下げて屋敷の外に向けて歩き出す。少し歩くと後ろから声が飛んできた。
「街の中心から電車が出てるからまずはそこに行ってみるといいよー。屋敷を出てまっすぐ行けば着くと思うからー。分からなかったら近くの人に聞くんだよー」
アザミは振り返って礼を言う。
「ありがとうございますー」
改めて正面に向き直りゆっくりと進んでいく。左右には色とりどりの花の庭園が広がっていて、青い空には日が高く昇り世界を照らしている。どこからか吹いてきた風は、豊かな春の匂いを連れてきた。
二人に見送られながら歩いて行く少女の背中は、次第に小さくなっていった。