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ウイルス

作者: 山猫食堂

1.プロローグ

2015年1月。東京都江戸川区の葛西臨海水族園でクロマグロなど大量の魚が死亡するという事件がおこった。事件という表現が適当かどうかは別としても、3ヶ月の間に150匹以上の魚が原因不明の死をとげたのだから、やはり怪事件であることに変わりがない。死亡した魚の死骸は専門の研究機関に送られ死亡の原因が調査された。その結果調査されたすべての魚からある種のウイルスが検出されたが、死亡原因の究明には至っていない。はじめのうちはこの「怪事件」をワイドショーがこぞって取り上げお茶の間を賑わしたが、その後の中東の人質事件に話題を奪われ、残り3匹となった水槽と同じように今ではひっそりと世間の記憶から忘れ去られようとしていた。

1月30日。水族園では問題の大水槽の消毒作業が行われた。残った3匹の魚は、生きたまま調査のために研究機関に送られ、海水をすべて抜いた水槽の中で保健所の指定業者が手際よく作業を進めている。その作業をじっと見つめている男がいる。飼育員の坂本修という40代ほどに見える男だ。

「坂本さん。特に問題はありませんか?」

坂本に声をかけたのは水族園の園長、土井和義だった。

「あ、園長。はい。特に問題はありません。作業を始める前に私も大水槽の中に入って残った魚がいないことも確認しました。」

「そうですか。ご苦労様でした。それにしても、一体どうしてこんなことになってしまったのか…」

「飼育員の私が何の手だてもうてずに、本当に申し訳ありませんでした。」

「坂本さんのせいではありませんよ。気になさらないでください。」

「それにしても、この後この大水槽はどうなってしまうのですか?」

「またこの大きな水槽に海水をためるだけで莫大な費用がかかります。まずは都と予算の相談をしなくてはいけませんね。」

「これまでこの大水槽の海水を入れ替えたことはないんですか?」

「この大水槽は開館当時の最新の濾過機能を備えたものなんです。今の設備と比べてもひけをとりません。おかげで海水の入れ替えはもちろん、清掃ダイバーを大水槽に入れたこともないのですよ。でも、あなたはそのくらいのことはご存知なのでは?」

「もちろん。こちらにお世話になってもう7年になりますからね。ただ、それ以前も海水を入れ替えたことはないのかなと思いまして…」

「そうですか。あれからもう7年になりますか…あっ、いけない。都庁に出かける時間でした。では残りの作業確認、よろしくお願いしますよ。」

「わかりました。お気をつけて。」

2.もうひとつの怪事件

2009年12月。江戸川信用金庫葛西支店で奇妙な銀行強盗が起こった。何が奇妙なのかと言えば、強盗は1円の現金も強奪しなかったのだ。

12月6日午後2時50分。年末だというのに行内にはいつものようにまばらな客しかいない。窓口担当の真野京子は閉店後業務を前にそわそわとしていた。今夜は女性同期社員だけの忘年会で銀座に繰り出す予定だった。小岩支店の真理子から憧れの石川先輩の情報も聴きださなくてはならない。今日はなんとしても残業はしたくないのだった。

「これ、お願いします。」

はっと我に返り見上げると、やせ形の男がキャッシュトレーの上に伝票を置いて立っている。30代前後だろうか。ニット帽を目深にかぶりマスクをしているので、ほとんど顔はわからないが、なぜかとっさにそう思ったのだった。

「少々お待ちください。」

慌てて伝表を手に取り確認するとそれは「貸金庫開閉記録(票)」だった。申請者の欄には「東京海洋大学水産学部鷲尾教室」とある。

「身分証明書をお願いします。」

と言うと、男は「ああ」と頷き学生証を提示した。氏名は「加藤正也」という学生だった。生まれは1990年の24歳と思っていたよりは若いようである。

「コピーをとらせていただいてよろしいでしょうか?」

と尋ねると、加藤という男は再び「ああ」と頷いた。コピーをとり学生証を返しながら、

「ただいま金庫をお持ちしますので、そちらのブースでお待ちください。」

と店舗の隅にあるついたてで仕切られたテーブルへ促した。加藤という男はそのテーブルの方を振り返ると黙ってブースに進み椅子に座った。この支店の貸金庫はすべて「手動型」と呼ばれる昔ながらの形態だった。利用者の申請に応じて貸金庫ボックスを渡し、利用者は保管している鍵で貸金庫ボックスを開けて利用する。

「もう。閉店時間になっちゃうわよ。」

小声で文句を言いながら京子は指定された貸金庫ボックスを加藤という男の座っているブースに持っていった。

「お待たせしました。ご指定の貸金庫ボックスです。お持ちの鍵でお開けください。それと、申し訳ございませんが間もなく閉店時間となりますので、ご利用はお急ぎください。」

そう早口で言い貸金庫ボックスを男に手渡すと、京子は再びカウンターの中に戻って行った。(もう、閉店時間になっちゃうわよ。今日は残業するわけにはいかないんだから。早く帰ってよね。)心の中で恨み節をつぶやきながらカウンターの中に入ったその時。

「ちょっと、お客様。お待ちください。おいっ。お前!」

突然入り口付近にいたガードマンの叫び声が聞こえてきた。京子がその声の方を振り向いたときには、すでに加藤という男は貸金庫ボックスを抱えたまま店舗から逃げ出していた。

素性も確認されているし、犯人はすぐに捕まるだろうと思われたが、大方の予想に反し捜査は難航した。犯人が提示した学生証は最近盗まれたものだった。また巧妙に顔をガードされており防犯カメラの映像や京子ら目撃者からの情報でも犯人の特定は進まなかった。

貸金庫の持ち主である「東京海洋大学水産学部鷲尾教室」とは鷲尾光一教授の主催する研究室で、主にクロマグロなど大型魚類の培養殖技術に関する研究を行っていた。貸金庫の中身は研究室の銀行口座の通帳、印鑑と運営に関わる領収証の類が保管されていたが、事件の後口座から預金をおろされることもなく、他にこれといった重要なものは保管されていなかった。研究室からも特別な訴えはされなかったので、大きくニュースに取り上げられることもなく、早々に人々の記憶からも消え去られていった。

3.告発

2015年2月10日。警視庁葛西警察署生活安全課の西脇健二巡査長はデスクに向かって頭を抱えていた。原因は先ほどかかってきた匿名の電話だった。少し暗い感じのする乾いた男の声がまだ耳に残っている。その男の言い分によると、先月までに葛西水族園でおきた魚の連続死は東京海洋大学のワシオ教授の研究室が開発したあるウイルスが原因だというのだ。確かラブドウイルスとかいうウイルスの一種で狂犬病に似た症状が現れるということだ。

「全く名前も名乗らずに言いたいことだけ言いやがって。」

訳のわからないことに対する不満が思わず口をついて出てしまった。

「西脇さん。一体どうしたんですか?」

西脇の呟きに気付いたのは後ろに座っていた門田純一巡査だった。

「どうしたってよぉ、門田。ちょっと聞いてくれよ。さっき『クロマグロ』とかって名乗る変な野郎から電話がかかってきたんだよ。」

西脇は待ってましたとばかりに先ほどの不可解な電話の話を門田にぶちまけた。訳のわからないときは誰かと悩みを共有した方がいいのだ。

「ふうん。魚に狂犬病ねえ。さっぱりわかんないですねえ。」

「だろ?だから俺も頭をかかえてたんだよ。」

「でも本当なんですかねぇ…そのラブラブウイルスでしたっけ?」

「ラブドウイルスだよ。でも、そんな専門的なことを知ってるってことは、その研究室に関係あるヤツの内部告発ってことかもしれないな?」

「え?じゃあ西脇さんはあの電話の男の話が本当だと思ってるんですか?」

「だから本当だったらって言ってるだろ。大体専門の研究機関で調査してるんだから、そんなウイルスが原因ならもう出どころが分かってるはずだろ?」

「そうですよね。大体水族園から被害届けが出されてるわけでもないから、事件扱いにもなりませんしね。」

「でもあのウイルスを調査したのは東京海洋大学の鷲尾研究室のはずですよ。」

西脇と門田の二人が振り返ると、そこに立っていたのは警ら係の斉藤こずえだった。

「なんだこずえちゃんかぁ。突然ビックリさせないでよ。」

「ごめんね門田くん。二人があんまりにも興奮してしゃべってるから声かけられなかったのよ。」

「斉藤くん。それにしてもなんで君はそんなことを知ってるんだ?」

「実は、私の弟が東京海洋大学の学生で、あの水族園でバイトしてるんですよ、西脇さん。」

「へぇ。こずえちゃんの弟、海洋大なんだ。それで水族園でアルバイトねえ。」

「うん。先輩から代々受け継がれていて、結構あの水族園でバイトしてる子多いらいしのよ。」

「なるほどね。それであの事件の裏情報にも詳しいという訳か。それにしても妙だな。」

「何が妙なんですか?西脇さん。」

「いや。さっきのタレコミが本当なら、その鷲尾教授はウイルスが原因だと特定できたはずなのに、なぜそのことを隠してるんだろうな?」

「何か隠さなきゃいけない理由があると?」

「ああ。そのことを隠しているから内部告発があったと考えるとつじつまが合うよな。」

「なるほど。さすが西脇さん、冴えてるなぁ。よしっ。じゃあ俺、巡回のついでに水族園に行って、こずえちゃんの弟さんの話を聞いてきますよ。こずえちゃん、弟さんに連絡してもらっていい?」

「うん。今日は午後からバイトで水族園にいるはずだから、後で携帯に連絡しておくわ。」

「ありがと。よろしくね。」

「お前例の空き巣事件の裏ドリがまだだったじゃねえかよ?」

「あ、そうだった。でも気になるな~。西脇さんも気になってるでしょ?」

「まあな。わかったよ。じゃあ俺が巡回のついでに聴きにいってくるよ。」

「ありがとうございます。さすが西脇さん。そうこなくっちゃ。」

4.謎のUSBメモリー

2009年2月18日。警視庁葛西警察署刑事課の西脇健二巡査はデスクに向かって頭を抱えていた。

「どうしたんだ?西脇。」

そこにやってきたのは生活安全課の巡査部長、渡部博巳だった。

「あ、ナベさん。いや例の葛西信金の貸金庫強盗事件ですよ。」

「ああ、あの事件。被害者から被害届けが取り下げられて捜査も打ち切りになっちゃうんだろ。何か問題でもあるのか?」

「いや、そうじゃないんですが。」

「盗まれた金庫も、海岸沿いの水族園の近くで見つかったんだよな。通帳も印鑑も無事だったとか。」

「はい。元々たいした物は入ってなかったって話だし、通帳から金も引き出されてなかったんですが。」

「じゃあ一件落着じゃないか。」

「ええ。でもたいした物を入れてないってのに貸金庫を使ってたっていうのがなんか気になるんですよねぇ。」

「そんなもんかねぇ。」

「それに。あの研究室のゼミ長の学生の証言では、中身はわからないけどUSBメモリーが入ってたって言ってるんです。」

「例の学生証を盗まれた学生だな。で、そのUSBメモリーってのは無かったのか?」

「はい。でも、鷲尾教授は印鑑、通帳と領収書の類いしか入れてなかったって言ってるんです。」

「忘れちゃってるんじゃないか?まあいずれにしても、たいして重要な物じゃなかったってことだな。ところで犯人の足取りはつかめたのか?」

「水族園の裏手で金庫をこじ開けて、そこに金庫を棄てて逃げたってとこまでは。」

「目撃者も大勢いたのに足取りもつかめないってのも妙だなぁ。」

「はい。あの場所からだと水族園に逃げこむしか姿をくらませる手はないはずなんですが。」

「手がかりは無かったのか?」

「はい。出入口の防犯カメラにもそれらしいやつは映ってなかったし、園内で怪しいやつの目撃情報も得られていないんです。」

「じゃあ水族園の関係者じゃないのか?それなら裏口からも出入りできるだろうし。」

「もちろんあの日水族園にいた関係者はみんな裏ドリをしたんですが、怪しいやつが浮かんでこないんです。」

「例のUSBメモリーは見つからなかったのか?」

「ええ。園内や周辺もしらみつぶしに探しましたし、関係者の所持品も全部確認したんですが出てきませんでした。」

「そうなのか。でも、まあ、捜査も打ち切りなんだから、もういいんじゃないのか?」

「そうなんですけどねぇ。でもなんだかスッキリしないんだよなぁ。」

そう言うと西脇は深いため息をついた。

5.消えた飼育員

2015年2月10日。西脇は葛西臨海水族園内のレストラン「シーウィンド」に座って、空っぽになった巨大な水槽をぼんやりと眺めていた。

「あのぅ。西脇さんですか?」

振り返ると背の高いひょろっとした若い男が立っていた。斉藤こずえの弟、高志である。

「斉藤君?すみませんねバイト中に呼び出して。お姉さんの同僚の西脇です。」

立ち上がって挨拶すると、隣の席に促し再び腰を下ろした。

「いえ、いいんです。丁度休憩時間だったし。それにメインの大水槽があんな状態ですから、水族園も開店休業中みたいなもんですし。」

「あれが例の大水槽ですね。でもなんで今でも空っぽのままなんですか?」

「なんでもまだ予算どりの調整がついていないみたいなんです。それに新しい魚のアレンジもしなきゃいけないんですが、大水槽の飼育員だった坂本さんという人が急に園を辞めてしまって、、、」

「水族園の運営もいろいろと難しいんですねぇ。ところで、その事件の原因を東京海洋大学の鷲尾研究室でおこなったという話をお姉さんから聞いたんですが。」

「はい。鷲尾教授の研究室で調査をしたと友人から聞いています。僕は学部が違うので詳しくは知りませんが。」

「そうですか。なんでも死んだ魚からはあるウイルスが検出されたけど、そのウイルスが死亡の原因になったかは特定できていないとか?」

「そうみたいですね。僕もまた聞きなので、ニュースで報道されていた程度のことしかわかりませんが。」

「そうですか。では詳しい話は鷲尾教授に伺う方が良さそうですね。研究室にどなたかご紹介いただける方はいませんか?」

「そうですねぇ。友人もあの研究室ではないので、、、あっ!園長。」

西脇が振り返ると、恰幅のいい初老の男が二人に近づいてきた。

「西脇さん。こちら水族園の土井園長です。」

「園長。こちら西脇さんです。僕の姉の同僚の方なんです。」

「西脇さん?初めまして、この水族園の園長をしております土井と申します。」

「あ、はじめまして。葛西警察署の西脇と申します。」

あわてて立ち上がった西脇は、今度はちらりと警察手帳を掲げて挨拶した。

「警察の方ですか。まあどうぞ、お座りください。」

「斉藤君のお姉さんは警察関係の方だったんですか。それで、今日はどのような御用で?」

「園長。姉は婦人警官なんです。それで今日は、例の魚の連続死についてその原因を調べられているようで。」

「どうしてまた、警察の方が魚の死亡原因を調べてらっしゃるんですか?」

「いや。あの。ワタクシはただ巡回の途中に斉藤さんの弟さんのお顔を見に寄ったというか、、、まあ個人的な興味がありまして、、、」

「個人的な興味ですか、、、」

「園長。それで西脇さんは鷲尾教授にご紹介いただきたいそうなんですが、園長は確か教授とお知り合いでしたよね?」

「ええ。鷲尾先生とは個人的にも親しくさせていただいております。まあ、ご紹介程度でしたら問題ありませんが。」

「そうですか。ありがとうございます。ご協力に感謝します。」

「それでは西脇さんが会いに行く旨、鷲尾先生にお伝えしておきましょう。」

「本当にありがとうございます。斉藤君もありがとう。」

「とんでもない。僕こそ何もお役にたてなくてすみません。」

「いやいやそんなことはないよ。それにしても園長。この大水槽も早く元の通りになるといいですね。なんでも飼育員の方も辞めてしまって大変みたいですね。」

「ああ。坂本君のことですね。彼はかれこれ7年もここに勤めていただいてましてね。目立たない男でしたが、本当に頼りにしていたんです。」

「突然辞めてしまったんですか、、、」

「はい。丁度この水槽の海水を抜いて消毒作業を行ったんですが、その後すぐに。この水槽の飼育員として責任を感じていたみたいですし、彼にもかわいそうなことをしました。」

「そうですか。とにかく早く大水槽が復活することをお祈りしています。」

6.現れた男

2009年12月6日。葛西臨海水族園の園長室では一人の男の面接が行われていた。

「東京海洋大学を中退されてるんですか。」

「はい。水産学部に在籍しておりましたが、父が亡くなり実家の養殖業を継ぐために大学を中退しました。」

「私も海洋大卒なんですよ。」

そういいながら園長の土井は終始微笑みをたたえたまま面接を終えた。

「では坂本さん。よろしければ早速来週からでもご出勤ください。これまでのご経験もおありなので仕事にはすぐに慣れると思いますよ。」

「ありがとうございます。精一杯がんばります。」

と、そこにドアをノックする音がした。

「園長。少しよろしいでしょうか?」

少し開けたドアの隙間から顔を覗かせたのは、事務員の吉田沙織だった。

「ちょっと失礼。吉田さん、どうしましたか?」

ドアに近づいていくと、吉田は土井の耳元で小声で要件を伝えた。

「葛西署の刑事さんが、園内を捜索したいと言って見えられてます。」

「え。警察?わかった、受付で少しお待ちいただくように。すぐに私も向かいます。」

あわてて席に戻ると心配そうな面持ちで坂本が待っていた。

「坂本さん。ちょっと急用ができましたので、今日の面接は以上とさせていただきます。この後誰か職員に園内をご案内させましょうか?」

「いえ、一人で大丈夫です。一通り見学させていただいて今日は失礼します。」

「そうですか。どうもあわただしくて申し訳ありません。では来週からよろしくお願いします。」

「こちらこそよろしくお願いします。」

坂本が園長室を出ると、後を追うように土井もあわてて部屋を後にした。坂本はそのまま園内の展示ゾーンに向かった。そして2階の展示フロアの隅にある「STAFF ONLY」と掲示されたドアの前に来ると周りを見渡しそっとその扉の中に入っていった。

7.ウイルスの真実(前編)

2015年2月12日。西脇は東京海洋大学水産学部鷲尾研究室に鷲尾光一教授を訪ねていた。

「先生。お忙しいところ申し訳ありません。」

「気になさらないで下さい。あなたが見えられることは葛西水族園の土井園長からもご連絡いただいていましたから。それにしても一体警察の方がどのような御用件ですか?」

「はい。実はその水族園でおきた魚の連続死についてはご存知ですよね。」

と西脇が切り出した。

「もちろんです。私の研究室で死骸の調査も行っておりますから。」

「なんでも魚の死骸から検出されたウイルスが死亡の原因だとか?」

「いえ。そんな発表はいたしておりません。確かに魚の死骸からはあるウイルスが検出されていますが、そのウイルスが死因だとは特定されておりませんからね。」

「そのウイルスというのは、ラブドウイルスというやつですか?」

「あなたはどうしてその名前を?」

「やっぱりそのウイルスが魚の死亡と関係しているんですね?」

「何根拠のないことを言ってるんだ。そんなウイルスはあの連続死とは関係していない。」

「でも先生。そのラブドウイルスの一種が死因だと警察に告発があったんですよ。」

「なんだって?」

「しかもそのウイルスは先生の研究室で開発されたものだと。」

「いや。知らんぞ。私はなにも知らんぞ。」

「いいですか先生。そんなことはこちらの研究室を調べさせてもらえばすぐにわかることなんですよ。どうか本当のことをお聞かせ願えませんか。」

「、、、わかりました、、、」

ラブドウイルスの名前を聞いた途端態度が豹変した鷲尾教授だったが、西脇の指摘に抗うことをあきらめ、ぽつりぽつりと真実を語りはじめた。

鷲尾研究室では主にクロマグロなど大型魚類の培養殖技術に関する研究を行っていた。

クロマグロは泳ぐことによって口からエラに海水を通して、海水に含まれている酸素を取り込んでいるため、休むことなく泳ぎ続ける必要がある。そのため群れを成して交代で泳ぎながら睡眠をとるのだが、睡眠をとるための一定の時間帯(昼間と夜間といわれている)は泳ぐ速度が低下する習性がある。この泳ぎのリズムを高速に保つことにより養殖マグロの成長を早めるための研究がメインのテーマだった。2008年に鷲尾教授を中心とする研究メンバーはラブドウイルスの一種であるあるバクトウイルスを開発した。このバクトウイルスをクロマグロに投与すると狂犬病ウイルスと似た症状がでるのである。このバクトウイルスによって興奮状態なったマグロは泳ぐ速度を落とすことなく高速で泳ぎ続けるようになり、従来よりも成長スピードを速めることに成功したのだった。当時研究室の助教授であった坂本という男の実家が和歌山県の紀伊半島沖でクロマグロの養殖業を営んでいた。マグロの人口苗種を仕入れ2~3年かけて生簀で成魚に育てるという手法だった。早速この養殖クロマグロにバクトウイルスを投与することになった。

「すべては順調に進んでいたんだ、、、」

そこまで話し終えると、突然鷲尾教授は下を向いてしまった。

「その坂本という男の家のクロマグロはどうなったんですか?」

西脇は続きを話すように促した。

「全滅だった。われわれの実験結果からは考えられない結末だった。」

結局バクトウイルスの投与は失敗に終わり、大量のクロマグロを失った坂本の実家の会社は倒産し、坂本の父親は首をつって自殺した。警察の捜査も行われたが、西脇教授の研究グループはクロマグロの大量死はバクトウイルスの投与を原因とするものではなく、当時太平洋沖で大量発生した赤潮が原因だと結論づけた。

「坂本くんはそのまま大学を辞め、行方が分からなくなってしまったんだ。」

「鷲尾先生。本当にクロマグロの死因はバクトウイルスの投与が原因だったのではなかったのですか?」

「ああ。あの事件はバクトウイルスが原因ではない。そのことは警察も納得済みだ。」

「いえ。バクトウイルスの投与が原因であった可能性は否定できません。」

二人の背後から突然話に割り込んできた男がいた。

8.ウイルスの真実(後編)

「加藤くん。一体どうしてここにいるんだね。」

「資料を取りに戻ってきたら先生方の話し声が聞こえて、、、」

「あなたはひょっとして加藤正也さんではないですか?」

「ええ、確かに加藤ですけど。刑事さんなぜ私のことをご存じなんですか?」

「やっぱり。鷲尾先生、加藤さん。実は私、7年前の貸金庫強盗事件を担当した西脇と申します。」

「なんだ、あなたはあの時の刑事さんだったんですか。」

「はい。ところでどうして加藤さんはこちらに?」

「ええ。私は大学を卒業し、今は助教授として鷲尾先生の研究室のお手伝いをしています。」

「ところで先程のバクトウイルスが原因だとかというお話は?」

「加藤くん。資料を取ったのならもう行きたまえ。」

「いえ、先生。やはりきちんとお話しすべきだと思います。刑事さん。バクトウイルスには大変な欠陥があったんです。」

「それはどういうことですか?」

「実はクロマグロの興奮状態を持続させ成長スピードを速めることには成功したのですが、バクトウイルスを投与された魚は体を休めることができなくなってしまい、極度の緊張とストレスにより2~3か月後には死に至ってしまう確率が非常に高くなるんです。」

「それでは、坂本という男の実家のクロマグロが死んだのはバクトウイルスが原因だったということですか?」

「はい。その可能性は高いと思います。」

「それは違う。それは違うぞ。」

鷲尾教授は声を荒げて否定した。

「大体、そのバクトウイルスとやらの存在を証明することができるのか?」

西尾は胸ポケットに手を入れると一つのUSBメモリーを取り出し鷲尾教授の座っている机の上に置いた。

「先生。このUSBメモリーに見覚えがありますね?」

「こ、これは。まさか、、、」

「そうです。7年前に葛西信用金庫の貸金庫から盗み出されたUSBメモリーです。」

「まさか、まさか、、、」

「内部告発の電話をかけてきた『クロマグロ』という男から昨日郵送で届きました。この中に鷲尾研究所で開発されたバクトウイルスの生成データが記録されているという書面も一緒です。」

「そんな、、、」

「さあ、先生。隠していることを話してくれませんか?」

「、、、わかった。、、、7年前の真実を話そう。」

鷲尾教授は観念したように真実を語りだした。

「和歌山での実験失敗の後、クロマグロの本当の死因を調査されることを恐れた私は、バクトウイルスに関係するすべての資料を処分しました。坂本くんに内部告発される恐れがあると考えたからです。そして、バクトウイルス生成に関わる情報のすべてを一本のUSBメモリーに記憶させ、私しか知らないところに隠したのです。」

「そこが、7年前のあの貸金庫ですね。」

「そうです。そしてそのUSBメモリーは何者かに奪われた。ウイルス生成データの存在が明らかになることを恐れた私はUSBメモリーの存在を否定しました。」

「加藤さんはUSBメモリーの中身が何か知らされてなかったのですね。」

「はい。私は確か金庫の中にUSBメモリーがあったような記憶があったのですが、先生が無いとおっしゃったので、それ以上は疑いませんでした。」

「先生。署までご同行いただき詳しい話を聞かせていただけますか?」

鷲尾教授はうなだれたまま力なく頷いた。

9.エピローグ

「じゃあ、やっぱり水族園の怪事件は鷲尾教授が犯人だったってことですか?」

葛西警察署生活安全課で門田純一と斉藤こずえが西脇を挟むように座っていた。

「いや。今では鷲尾教授はバクトウイルスを作ることはできないそうだよ。」

「一体、どうしてですか?」

「ああ。バクトウイルス生成に関するデータはすべて例のUSBメモリーにだけ記憶されていた。鷲尾教授もあのデータが無ければバクトウイルスの生成はできないそうだよ。」

「じゃあ一体誰が水族園の怪事件を引き起こしたんですか?」

「それができたのは、USBメモリーを盗んだ犯人か坂本だけだよ。」

「坂本って例の鷲田教授に実家の養殖クロマグロを全滅にされた、あの坂本ですか?」

「そうだ。そもそもあのウイルスを発見したのは坂本だったそうだ。彼はある種の天才だったそうだ。彼なら生成データが無くてもバクトウイルスを作りだすことが可能だそうだよ。」

「っていうより、7年前の貸金庫強盗事件の犯人は坂本なんじゃないですか?」

「おっ!お前にしては鋭いとこつくじゃないか。確かに7年前に貸金庫からUSBメモリーを奪ったのはその坂本だよ。」

西脇は二人に今回の一連の事件の謎解きをはじめた。

「7年前、貸金庫を奪った坂本は水族園の裏手で金庫をこじ開けてUSBメモリーを手に入れた。その後予定通り水族園の採用面接を受けるために土井園長を訪ねる。そして警察が水族園の捜査を始める前に、防水ケースにUSBメモリーを入れ大水槽の中に沈め水族園から出ていったんだろう。もちろん出口で警察のチェックがかかったが、坂本は面接を受けに来たという動機がある上にもちろん所持品からUSBメモリーも出てこない。こうしてやつは無事に水族園から出ていったんだ。その後の捜査で水族園の中や周囲からはUSBメモリーは発見されなかった。そして飼育員として水族園にもぐりこんだ坂本は、目立たないように7年間待ち続けたんだ。」

「なるほど。すべて計画通りだったってわけですね。でも、どうして坂本は7年も待ってたんですかね?」

「お前そんなこともわかんねえのかよ?7年だぞ、7年。」

「あっ!時効ですね!もちろんわかりますよ。」

「怪しいもんだな。まあいい。とにかく貸金庫強盗事件の時効を待って坂本は次の計画を実行に移したんだ。」

「魚の連続死事件ですね。でもまた、なんでそんな手の込んだことをしたんですか?あんな派手なことをすれば見つかりやすくなるのに。」

「いや、あの怪事件もまた坂本のシナリオ通りだったんだ。あの大水槽は最新の濾過器が付いていて、清掃ダイバーが潜ることもない。誰もあの大水槽の中に入ったやつはいないんだ。このことはUSBメモリーを隠すのには好都合だったが、もちろん回収のために大水槽の中に入ることもできない。そこで大水槽にバクトウイルスをばらまいたんだ。そしてウイルスに侵された魚はだんだんとそして確実に死んでいった。魚のいなくなった大水槽は海水を抜かれ、坂本はやすやすとUSBメモリーを回収したという訳さ。」

「でも、なんでそこまでしてUSBメモリーを回収する必要があったんですか?」

「150匹もの魚が大量死したんだ。もちろんこの怪事件は世間の注目を集める。そこでバクトウイルスの情報を告発して明らかにする。すべては鷲尾教授の不正を白日のもとにするために。そして最後の仕上げとして証拠品のUSBメモリーが必要だったということさ。まあ、これで和歌山での実験失敗の事件は再捜査されることになるだろう。」

「なるほど、さすが西脇さん。それで、坂本のことはどうするんですか?」

「7年前の事件はもう時効だしな、水族園の方だって事件扱いにはなってない。まあ、すべては俺のたんなる推察だということだよ。」

「まんまと坂本は鷲尾に復讐を果たしたってことですね。しかし、水族園はいい迷惑でしたね。」

「なんでも土井園長のところに匿名で改良型のバクトウイルスの生成データが送られてきたらしいぞ。それが本物だったらどれだけ値打ちのあるデータかわからないな。」

「罪滅ぼしのつもりですかね。でも水族園もお金に困ってたみたいだし、それで大水槽が復活するといいですね。ね、こずえちゃん。そしたら一緒に水族園デートしようよ。」

「もう。門田君たら調子いいんだから。」

(完)

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