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アイソレーション

作者: ONWELL

フルメタルパニック‼︎ を読み返していたら、ふと思いついてしまいました。読んだ人ならわかると思いますが、「ラムダドライバ」が人の社会に応用されたら……? という発想で生まれた話です。

✳︎フルメタの世界観とは一切関係ありません。二次創作ではありません。

そのとき、何かが僕の唇に触れた。知らない感触だった。

 それは僕の体温と同じくらいに温かった。ほんのり甘かった。でも少しかさついていた。ああだめだ、と心の中で思った。やめてくれ。僕はこんな感触知らないでもよかったのに。

 ぶぅん。蠅の羽音のようなおぞましい音がした。

 頼む。やめてくれ。違うんだ。止まってくれ。

 そう口に出そうとして言葉は口が塞がれていたせいで声にならなかった。

 弾けた。風船みたいにぱん、と何かが弾けて飛んでいった。

 その瞬間甘い感触が消えた。テレビのスイッチを切ったみたいに突然途切れた。

 さっきまで手の中にあった柔らかい感触が消えた。

 甘い温もりは、夏の残り香に溶けて消えた。

 ひぐらしが夏の終わりを忍んでいるみたいに鳴いていた。 


※※※

 

 二十一世紀の大発明と言えば、それは皆が口を揃えてこういうだろう。

 斥力場形成システム。通称、RFF-System。RFFと省略されることが多い。

 赤ん坊の頃にうなじの部分にマイクロチップを埋め込む。でもそれはよくあるディストピア映画みたいな管理社会のためのデバイスじゃなくて、むしろ逆だ。個人の生命を最大限保障するために政府が配給する。

 今では国連加盟国の三分の二で正式採用されている社会保障の一環だ。マイクロチップはそれ単体で斥力場ーー言うなればバリヤーのような障壁を形成することができる。障壁は人の”警戒感”を敏感に感じ取ってそれに応じたレベルで形成される。たとえば目に何かがぶつかったとき、人は瞬きをして眼球を保護する。そう言った脊髄反射と同じレベルで人体を保護する。いや、もっと優秀かもしれない。RFFは自動的に本人の感じている危険度を察知して反映する。鳥の糞が落ちてきたときは薄く、自動車がぶつかってきそうなときは強力に。

 一番最初に日本に導入された年、交通事故での歩行者死亡数が前年比の半分以下になった。その実績を評価した政府はますますRFFへの信頼を高め、全国民へのRFF導入を決定した。一時期RFFの悪用が懸念されたが、警察組織による強化版RFFが導入されると犯罪も激減した。殺人事件は一年に一度あるかどうか、というまでに急落。その他の凶悪犯罪もほぼ理論上実行が困難を極め、まれにニュースで取り上げられる程度になった。自殺件数も毎年ほぼゼロを推移した。RFFが起動している状態での自殺は理論的に不可能に近かったからだ。

 だけど、ここでみんなが考えていなかった事態が起きた。

 RFFが斥力場を形成するのは、生命の危機に瀕した場合だけではなかった。

 人の不信感、精神的な排外心。そういったものも反映してしまったのだ。

 普通の社会生活の中で、嫌悪感を抱いている人物に近づくと自然と斥力場が生まれたり、それが干渉し合ったりする。そういった事案からの人間トラブルが多発してしまって、社会問題となっているのだ。

 時々、こういったことを指摘してテレビでコメンテーターが偉そうに言うんだ。

「今世紀の新たな治安維持の黎明において、我が国は犯罪ではなく人間精神そのものとの戦いに追われることになるだろう」とか何とか。

 RFF導入以後の刑事事件に占める犯罪の割合は暴力を伴う事案ではなく詐欺やネット犯罪が大多数だ。特にネット上における誹謗中傷、名誉毀損事件は増加傾向にある。そういったものが「人間精神」、つまり利己心とか欲望とか、もしくは嫉妬、憎悪を指すなら確かにそのコメンテーターの言う通りなのかもしれない。

 でも、そういったすべては僕には無縁な話だ。

 僕はみんなに嫌われているから。誰のRFFが僕に反応しようと、RFFが社会にどう影響しようと、もう関係のない話だ。だって僕に向ける感情は、誰だって同じ。嫌悪。軽蔑。嘲笑。家族さえも同じ。友達はいない。誰も僕に触れられない。RFFが反応して僕を拒絶するからだ。

 でもそれにただ一人、例外があるとすれば。

 それはきっと宮野恵子だった。

 

※※※


 図書室は冷房が効きすぎて寒いくらいだった。ひぐらしが一日の終わりを忍んでいるみたいにやけに悲しい鳴き方をする。数人の勉強熱心な生徒が残っているだけで、後は僕と宮野しかいない。僕らは図書委員なのだった。図書室の中はオレンジの果実を搾り取ったみたいに西日に染まっている。目に染みる橙色。

 僕は貸し出しカードの整理をしながら横目で宮野を盗み見ている。

 宮野恵子という女生徒は本当に不思議な人物だった。ものすごく可愛いとか、最高に美少女とか、そういったことはない。むしろ逆かもしれない。お下げにした髪の毛は地味というか、本当に二十一世紀の女子中学生なのか疑問だし、瓶底のめがねは厚ぼったくそばかすに満ちた顔を覆っている。元々色白の肌は手入れを怠っているのか、最近日焼けで痛んでいるように見える。

 ただ、その痛々しい日焼けを免れた真っ白いうなじだけが、異常にまぶしく僕の目を貫く。

 それが僕の席からちょうど見えるんだ。宮野の細い首筋と、その小さな不自然な膨らみが。雪原に何かこんもりと滑らかな丘ができているような、そういう触れてみたいと思わせる何かが宮野にはあった。特別な何か。

「柵木君はいつもマスクつけているんだね」

 ふと、思い出したように宮野恵子が僕に言った。

 どきっとしたけど、僕は努めて淡々と答えた。

「まあね」

「それは、何で? こんなに暑いのに蒸れない?」

 宮野がくすぐったいような声を出して僕に聞いた。宮野のしゃべり方はいつもこんな感じ。耳に息を吹きかけてくるような、そういう声質をしている。

「何でそんなこと聞くんだい?」

「気になるから」

「・・・・・・」

 僕は宮野に触れないように、しっかりと彼女と距離を置く。今もそう。ちょうどイス二つ分、宮野と離れている。

 宮野の視線に耐えられず、僕は窓の向こうを見つめた。夕焼けに染まっている空。まだ陸上部がランニングをしているらしくて、遠くでかけ声が聞こえる。薄汚れたカーテンがゆらゆらとエアコンの排気に晒されて揺れている。

 そんな中、僕はぽつりとつぶやいた。

「自分に自信がないから、かな」

 それは実は誰にも言ったことがない真実だった。持病がある、とか喘息の発作が、とかありもしないことをねつ造して何となく通していた僕の弱さを、宮野恵子はたぶんわかっていたんだ。だからあんな質問をしたんだろう。今ならそう思う。

「ふーん」

 宮野がつまらなそうにそう言った。失望させただろうか。横目で様子を伺った。

 その時、本当に時間が止まった気がした。

 宮野が、身を乗り出して、イス二つ分の距離をーー誰にも乗り越えられなかったはずのそれを――軽々と乗り越えて、僕の目の前に膝立ちになっていた。そのまま彼女は僕のマスクを外した。何でもないような、慣れきったような、自然な挙措だった。両耳にかかっているマスクのフック部分を摘んで、外す。左も、右も同じように。

「みや、の・・・・・・」

 宮野の細い指先が、僕の頬に触れた。

 ゼロ距離。

 宮野のそばかすの数がわかりそうだった。でもそんなところは見ていない。僕の視線は宮野の真っ黒な瞳に釘付けだった。濁り一つない。深い。僕が映っている。マスクをしていない僕の顔が宮野の瞳の中にいた。口をあんぐりと開けて。

 宮野のRFFは反応しない。

 一方僕のRFFは一瞬遅れて肌の上に薄く展開される。アレルギー反応みたいに。全身の毛が逆立った。肌が泡だった。一瞬のうちに鳥肌が立った。蠅が飛ぶときの低いうなり声のような音が耳を打つ。ぶぅん。赤黒い斥力場が僕の視界を覆う。

「柵木君。大丈夫だから。落ち着いて。わたしは君を傷つけない」

 なにが起こったかやっと理解して、のけぞった僕に、宮野はそういった。そのささやくような声のせいか、素直に僕のRFFは警戒を解いて、霧散した。

 頭の中がだんだんと冷えていった。さっきまで視界を支配していた真っ赤な覆いはなくなって、自然の生み出す優しい橙色が網膜に染み込んでくる。

 彼女は手を伸ばす。

 ゆっくりと、僕らは触れあう。

 それが僕らの関係の始まりだった。

 

※※※


 宮野恵子という少女は特別だ。比喩じゃない。本当に特別だった。

 彼女は自らの意志でうなじに埋め込まれたRFFデバイスを破壊していた。宮野の首筋が妙に白いのは、デバイスを摘出したときの傷口を隠すために化粧をしていたからだった。

 もちろん普通ならあり得ない話だ。それは犯罪行為だった。内乱罪の予備行為として、発覚したら処罰される対象になる。厳重な処罰だ。

 僕らが初めて触れあったその日、僕は宮野の真意を問うた。なぜあんなことをしたのか、ということ。RFFが導入された昨今、対人マナーとして人のパーソナル領域――人が無意識に自身だけのテリトリーと認識している領域――に侵入することはタブーになっているのだ。今の時代、人は触れあわない。全てが機械任せだ。子育てさえも。

 だけど宮野はその不文律を破った。いとも簡単に。

「試してみたかったから。これがもう完全に壊れたか」

 宮野は首筋を揉みながら、僕にそう言った。

 そこで僕は宮野の秘密を知ったのである。

「RFFを壊したの?」

 つい、うわずった声が出てしまった。この地味な少女がそんな大胆な、というより向こう見ずなことをするとは思わなかったのだ。

「犯罪じゃないか」

「うん。そうね」

 涼しい顔をして宮野は答える。

「僕が通報するとは考えなかったの」

「柵木君はそんなことしないよ。だって君は――」

 そこで宮野は僕の顔を見つめて黙った。一瞬の空白のあと、彼女はくすっと笑って僕から顔をそらした。

「何だよ」

「もしかして、自覚してないんだ?」

「自覚?」

「本当にわからないんだ。へぇ」

 誰も知らない秘密を知っているように、妙に嬉しそうな顔をして宮野は微笑む。

 秘密を知っているのは僕の方なのに、なんでこんな含んだ笑みをされなきゃいけないんだ。

「柵木君。じゃあ、こうしようよ。わたしの秘密を守ってくれるなら、いつか教えてあげるから。君の秘密」

「そんなものないよ」

「ほら。やっぱり自覚してない、自分の秘密。ううん、秘密っていうより、”真実”だろうけど」

 真実。もしそんなものがあったとして、なぜそれを宮野が知っているんだろうか。

 でもどんなに宮野に質問しても、彼女は教えない、といって笑みを浮かべるだけ。

「自分のこと知りたいなら、ちゃんと、守ってね。わたしのこと」

 だめ押しするように、宮野は言う。

「共犯だからね」


※※※


「出かけるのか?」

 玄関の扉に手をかけたとき、ちょうど部屋から出てきた兄さんが訝しげに聞いた。

「うん。ちょっと」

 履き潰しかけている汚れたスニーカーの踵に足を通しつつ僕は答える。

「夏休みなのに?」

「夏休みだから、だろ」

「俺は勉強してるのにいい身分だな」

 一つ上の兄さんは高校受験のためにせっかくの夏休みを塾と自宅で過ごしていた。だからまだ二年生の僕が遊びに出かけることが許せないのかもしれなかった。

 いや、何をしても兄さんは僕が気にくわないのかもしれない。

 かまわず、姿見で全身を眺める。くたびれたTシャツ。何の捻りもないデニム生地の短パン。汚れたスニーカー。どこからどう見ても冴えない男子中学生だ。これでいい。目立つ格好は避けるべきだ。

「一人でどこ行くんだよ」

「一人じゃない。友達と」

「友達?」

 兄さんはそういって素っ頓狂な声をあげた。

「お前の口から”友達”なんて言葉聞くとは思わなかったぜ」

 僕は姿見から兄さんに向き直った。へらへら薄ら笑いを浮かべている。

「何で」

 わざと棘のある口調で僕は聞いた。

「”何で”? 本当に自覚がないのか?」

「何だよ自覚って。みんなが僕を嫌ってるってこと?」

「何言ってるんだ。ちげーよ」

「じゃあ何だよ」

 どこかで聞いたことのある言葉に僕は余計に苛ついた。

 ここ最近世界全体が僕を嘲っているんじゃないか。そんなことさえ思ってしまう。

「あら、出かけるの」

 兄さんに言い返そうとしたそのとき、リビングから母さんが顔をのぞかせた。そのまま僕の格好を見て、急いで何かを手にとって向かってくる。

「ほら、これ。あんたこれないとダメでしょ」

 僕の機嫌を伺うような目つきで母さんは使い捨てのマスクを差し出した。

 別に反抗期とか、怒鳴り散らしたりとか、家庭内暴力を振るったりとか、そんなことはしないし、できないのに、母さんはいつも僕のことをそんな目で見る。火口から煙を噴きだしてる活火山でも見つめているような目つきだ。

「ああ。どうも」

 僕がマスクを取ろうとすると、あの耳障りな音が耳朶を打った。

 ぶぅん。

 瞬時に、母さんの肌の上にRFFの赤黒い斥力場が形成される。ぱん、と弾けた音がして僕の手が押し戻される。

「・・・・・・」

 接触への警戒感を見事に反映した、というわけだ。

「あ、ごめんなさいね。ここに置いておくから」

 怯えた表情で母さんはマスクをいったん下駄箱の上に置いた。僕は無言でそれを手に取り、いつものように身につけた。左耳にかけ、右耳にかける。そして顔のない少年の誕生だ。

「じゃ。夕食までにはもどるから」

「じゃあな、”マスクマン”」

 兄さんは薄ら笑いをやめずにそう僕に返答した。母さんが困ったように兄さんの肩に”触れた”。やめなさい、というジェスチャー。母さんは僕を怖がっている。僕を刺激したくないのだ。でも、そうやって兄さんに”触れられる”という事実が、一番僕を刺激することを母さんはわかってない。

 まあ、もう慣れたものだ。

 僕の家族はいつもこんな感じ。軽蔑。嘲笑。畏怖。

 そういうものが、RFFより強固な壁を僕らの間に作っているのだ。


※※※


 旧校舎は木造で、雨風に長年晒されたせいで半ば崩れかけていた。補強工事もせずに放置されたせいで廃墟同然になっている。世間から忘れられた哀れな姿は、丘の上に立っていたこともあってちょっとやそっとじゃ見つからない立地になっていた。

 夏休み初日、僕と宮野はこの旧校舎に立ち入って使えそうな教室を探した。どこも雨漏りしそうな場所ばかりだったけど、保健室らしき場所だけはかろうじて生活に耐えられそうだった。僕たちは一日がかりで掃除をして、人一人が生活できそうな環境を整えたのだった。宮野恵子の隠れ家にするために。そして僕はこうして毎日宮野の様子を見に来ている、というわけだ。

 でも肝心の宮野は前のようなあの、独特な試すような笑み――生き生きとした笑みを浮かべなくなっていた。全てをあきらめた老人のような、深い絶望がその表情に張り付いていることは僕にもわかった。

「RFFを壊したら何か変わるって思ってた」

 自分の膝小僧を見つめながら宮野がそう呟いた。その声には落胆が滲んでいた。

「変わらなかったのか」

「全然。何も」

 買ってきたコンビニのサンドイッチを彼女の側において、僕は距離を取った。近くにあった椅子に座ろうと思ったら足が壊れていることに気づく。観念して、そのまま埃っぽい床に座った。もともと汚れてもいい服で着たんだ。それにこのスニーカーはもうこれ以上汚れようがない。迷いなく座り込んだ。宮野と目線が重なった。

「・・・・・・」

 薄暗がりの中、僕と宮野は不自然な距離感の中無言で座り込んでいる。

 

 夏休み前の数週間、宮野恵子が不登校になった理由は、僕しか知らなかった。周りの生徒たちは宮野のことに興味を示さないか、もしくは一足早い夏休みを満喫しているのだろう、とでも考えていたようだった。本当は家出したなんて彼らは知らない。

 宮野の親も、自分の娘を持て余していたようだった。だから体裁上警察に相談はしたものの、様子見を続けるということで決着したらしい。RFFがあれば犯罪になどあわない。宮野がRFFを壊したなんて、誰も知らない。警察も予算を無駄に使いたくなかったらしい。小遣いを使い切ればじきに帰ってくるはずだ、と親を説得して帰らせた。

 だから宮野恵子は一人だった。誰も彼女を探していなかった。


「怖くなかった? 自分の首をほじくるなんて」

 沈黙が怖くて僕は続けた。

「このまま何もせずに、誰とも関わらずに生きていくんだ。そう思う方がよっぽど怖かったよ」

 自分の足の間に顔を埋めて、宮野は弱々しくそう言った。

 老人のように見えたと思ったら、次には幼児のような幼さを見せる。

 そういった動作の一つ一つに、僕は戸惑ってしまう。だってこんな風に二人っきりで、誰かと話し込むなんて経験はなかったから。

「ナイフをね、まずライターで熱するの」

 顔を上げずそのままの姿勢で宮野が続ける。くぐもって聞こえる声。少し震えている。

「ちゃんと消毒できたら、次は姿見と手持ちのやつで合わせ鏡にするの。じゃないと上手く見えないから。でもね。準備が整っても、上手く行くとは限らない。気持ちが落ち着くまで待たないといけないの。恐怖心があるままで傷つけようとするとRFFが反応するから。だから何度も失敗したんだよ。やっとナイフが皮膚に届くようになったのは、初めて試してから二ヶ月経ってからだった」

 そこで、宮野は怯えきった子供そのものの目で、僕を見つめた。

「そこからが大変だった。柵木君の言うとおり、デバイスをえぐり取らなきゃいけないから。また失敗ばっかり。傷口が膿んだこともあった。でも誰にも相談なんかできないでしょ。犯罪なんだもん。だから全部一人で最初っから最後までやったの」

 宮野の瞳から涙がこぼれた。

 きっとそれは僕が見た、宮野恵子の最初で最後の涙だった。

「すごく痛かったよ。生まれて初めて怪我したんだもん。血が止まらなくて怖かった」

 きっとこういうとき、映画の主人公なら上手く慰めたりできるんだろう。

 傷ついたヒロインを抱きとめて、優しい言葉をかけて上げられるんだろう。

「宮野・・・・・・」

 でも僕はそんな人間じゃなかった。

 だから、僕はせめて彼女と同じ痛みを味わおうと思った。

 近くにあったはさみを手にとって、思いっきりうなじを切り込んだ。ばちん、とRFFがそれを阻んだ。もう一度はさみを拾う。今度は肌にかすった。鋭い痛みがうなじに走った。

「柵木君!」

 その手を、宮野が止めようとした。RFFのせいでその体は弾き飛ばされた。その華奢な体が傷んだ床に放り出された。

「宮野、だめだ! 僕に触っちゃ」

 僕も宮野に怪我をさせないよう、必死に自分に言い聞かせた。

 彼女は危険じゃない。彼女は危険じゃない。落ち着け。おさまれ。

 宮野恵子は僕の、僕の……

 僕の、何だ?

「いいから。もういいから。君はわたしとは違うんだから」

 宮野は、続きの言葉を思いつかない僕の隙をついて、はさみを奪い取った。

 その目にはやっぱり悲しみのかけらが残っていた。


 夜の帳が降りた。あれからずっと僕たちは何も言わずにお互いの傷をさすりあっていた。ちゃんと触れるとあらかじめわかっていれば、RFFは宮野に反応せずにおさまっていてくれる。だから僕たちは首の傷を見せ合って、さすりあっていた。それを何かの勲章のように感じていた。少なくとも、僕はそうだった。

 もう帰らなきゃ、と僕が言うと宮野は若干名残惜しそうにそう、と言った。

 そのまま旧校舎の昇降口まで一緒に降りた。宮野は僕を見送りに来てくれた。

 じゃあ、といって宮野に背を向けると彼女は僕を呼び止めた。

「柵木君は、何でわたしを助けてくれるの」

 その質問は、ぽつり、となま暖かい空気の中に放り出された。

「通報しないって確信に満ちて言ってたのは宮野の方じゃないか」

「そう、だったね。うん。でも、そういうことじゃなくて。知らんぷりだってできたじゃない」

「僕の真実だとか何とか、意味深なこと言って僕を引きつけようとしたのも、宮野。お前だぞ」

「それも知らんぷりできたはずでしょう。でたらめだ、って」

 よくよく考えれば宮野の言うとおりだった。僕は宮野を助ける理由らしい理由はないのだ。むしろデメリットしかないはずだった。

 じゃあ、何で僕は宮野を助けているんだろう。

 宮野は、僕にとって、何なのだろう。

 正直適当な言葉が思い浮かばなくて、一番ありそうなことを口にした。

「そうだな。同じだと思ったのかもな。僕だって、一人ぼっちだからさ」

 その答えを聞いて、宮野は困った表情をした。その次に、ひどく傷ついた顔をした。

 なんでそんな顔をするのか、僕にはわからなかった。

「君とわたしは、同じじゃないよ」

 僕は突き放されたような気分になった。

 何でそんなこと言うんだよ、宮野。

 宮野はもう一度言った。

「君とわたしは、同じじゃないよ」

 その言葉が、呪いのように僕の耳に張り付いていた。


※※※


「柵木君だね?」

 終わりがきた。

 そのスーツの若い男が懐から出した手帳を見たとき、僕は確信した。

 それは警察手帳だった。

 静観していたはずの警察が、動き出していた。

 事件だと何かしらの根拠を持っているようだった。咎めるような視線で彼は僕を射抜いた。

「宮野恵子さんのことについて、聞きたいことがあるんだけれど。時間いいかな」

「いえ、ちょっと、これから、その……」

 マスクの下で、もごもごと僕は言葉を持て余した。

「これから予定が? どこに行くの?」

 昼間、旧校舎に向かう途中だった。丘に続く坂道。

 言い訳できない。そう思った瞬間、僕は走り出していた。

「待ちなさい!」

 その言葉を振り切って、僕は走った。ぐんぐんと坂道を上っていった。すぐに旧校舎が見えてくる。

「宮野!」

 昇降口に駆け込んで、すぐに保健室に向かって叫んだ。宮野は異常な空気を察したように、保健室から飛び出してきた。

「柵木君? どうしたの」

「け、警察が」

 それだけで宮野は全てを察したようだった。

「こっち。ついてきて」

 低い緊迫した声で宮野は僕に告げると、小走りで廊下を駆けだしていく。老朽化した床がぎしぎしと音を立てていた。

「どこに行くんだ」

 宮野の後を追いながら、その背中に声をかける。

「わたしもバカじゃないからね。ちゃんと、想定していたから。わかっていたから」

 そう言った宮野は振り返らなかった。そのまま屋上へとつながっている非常階段を上っていく。さすがだな、と思って僕は彼女について行く。

 だけどこのとき、ちゃんと聞いておくべきだった。

 宮野の声が、安心とはほど遠く、全てを達観したものだったんだってことが、僕にはわからなかったんだ。

 立て付けの悪いドアを二人がかりで押し開けて、僕たちは屋上にたどり着いた。

 後から息を切らして、さっきの警察の男が上がってきた。

「宮野、次は? 次はどうするんだ。もう追いつかれちゃったよ」

 僕も息を大きくつきながら、宮野に聞いた。

「次なんてないよ。ここで終わり」

「え?」

「ごめんね巻き込んで」

 宮野はそういって、屋上のフェンスを乗り越えた。


※※※


「そこの女の子は宮野恵子さんだね?! バカな真似はやめるんだ! 君がRFFを破壊したことは情報提供を受けてわかっている。罪は償えばいい。やり直すんだ。君は若い!」

 警察の人が僕を確保してから、フェンスの向こうの宮野に向かって、そう諭すように叫んだ。宮野は風に煽られながら怒鳴り返した。

「『やり直す』? バカなのはそっちでしょ?! こんな狂った世界でどうやり直すの? わたしは親の手の感触さえ知らないのに! 仮にまたやり直したとしてまた振り出しよ。またRFFを埋め込まれて、誰の温かさも知らない人生を送るの! 死んだ方がましだわ」

「宮野さん。いいね、そこを動くんじゃない」

「やめて! 近寄らないで!」

 宮野の半身がその時、危うく下に落ち掛ける。僕は思わず危ない、と叫んだ。

「宮野・・・・・・戻ってきてくれ」

 男に押さえつけられて上手く声が出せなかったけど、僕は心からそう思った。

 それを聞いていたのか、刑事さんが呟く。

「何故こんなバカなことを。発覚しないわけがない」

 警察の人は歯噛みするようにそう唸った。きっと悪い人じゃないんだろう。宮野のことを本心から心配しているようだった。

「長続きしないなんてことは、わかってたわ。いずれ終わりがくるなんてことは。だから試したの。世界を試したの。生きるに値するか。もし両親が迎えに来てくれたら、もう少しがんばってみようって思ってた。あなたのいったように、『罪を償って』生き直そうって。でも来たのは刑事さん、あなただけよ。わたしを愛しているわけでもなく、ただ罰しににきた」

 後でわかったことだけれど。

 宮野は遺書を書いていた。

 そのほとんどは世界への恨み言だった。宮野は温もりに飢えていたのだ。

 だから、彼女は最初で最後の世界への反抗として、RFFを破壊することにしたのだという。それで自分が犯罪者になるということも自覚していたそうだ。

 だからこそ、彼女は試すに値すると思ったらしい。

 もし失敗したら、彼女は自ら命を絶つつもりだったのだ。

 最初から、そのつもりだったのだ。自殺するためにRFF壊したのも、また真実だった。生きるか、死ぬか。その賭だった。

「でも、賭けには負けちゃったみたいね……」

 頭を抱えて、宮野は言った。

 宮野のヒステリックな言葉使いは、彼女自身を深く傷つけているようだった。

 でも、同時に僕も傷つけた。

「僕は?! 僕がいるだろ、宮野ぉ!」

 刑事さんの手を押しのけて、僕はやっとのこと叫んだ。

 マスク越しに僕のくぐもった声が屋上に響いた。

 宮野は自嘲なのか、僕を笑っているのか、よくわからないような薄い笑みを浮かべた。

「言ったでしょ。わたしと君は違う」

「何が違う?! 僕はお前と同じだろ。僕も一人だ!」

「自覚してないのね。いいわ、教えてあげる。君の”真実”。約束だもんね」

 刑事さんにアイコンタクトをとって、放してもらった。この場で宮野が会話を続ける気があるのは僕だけだと、彼は敏感に察したらしい。

 フェンスの向こうとこちら側。

 RFF以上に隔たれた二つの空間で、僕らは向かい合っている。

「そのマスクをつけているのは何のため? いつも学校で誰にも話しかけないのは何故? 嫌われているんだって自分に言い聞かせるのは何故?」

「何、言ってるんだ」

 宮野の顔がそこで、ぼやけた。

「君はね、柵木君。嫌われてるんじゃないんだよ。君が遠ざけてるの。そのマスク、その態度。一つ一つで、人を近づけないようにしてるんだよ。でもそれは悪い事じゃない。きっとこの世界で生きていくのには正しい、模範生だよ。だって近づかなければ誰も傷つかない。自分も他人も。自分が嫌われてることにしておけば、言い訳もつくでしょ。

 だから、本当に独りぼっちのわたしとは違う。誰かに触れて欲しいと望んでるわたしとは違う」

「でたらめだ!」

 僕は叫んだ。そんな言葉聞きたくなかった。

「やっと言ったねその言葉。それが本当なら、証明して。ここに来て。わたしと同じ世界に立って、同じ景色を見てみて。きっとわかるよ」

 フェンスの向こうで宮野が笑う。破滅した笑いを浮かべる。

 わずか数メートルの差なのに、なんて遠いんだろう。宮野がいる場所と僕がいる場所はそう遠くないはずなのに。触れたことだってあるのに、何でこう遠く感じるんだろう。

 あまりの高さに目がくらみながら僕はそう思った。

「わかった。待ってろ。絶対に動くなよ」

 慎重にフェンスを乗り越える。

 夏の粘着質な空気が顔にまとわりついてくる。マスクをもぎとった。こんなものもう必要ないだろ。今必要なのは宮野だけだ。

 だって宮野は、宮野は僕の――

「今行くからな。動くなよ」

 ――僕の初恋の人じゃないか。

 そう言葉にして、初めて自分が宮野恵子という女の子に抱いている気持ちに気づいた。

 僕は宮野恵子が好きなんだ。だから拒否なんてしない。拒絶なんてするものか。

 風が強く僕らの体を煽る。下を見ちゃだめだ。RFFがあるから怪我はしないだろうけど、ここで落ちたら宮野は失われる。永遠に。

 少しずつ、宮野に近づく。にじりよっていく。

 自分に言い聞かせた。

 何度も彼女に触れただろ。だから知ってるはずだ。彼女は危険じゃない。彼女は危険じゃない。だから守らなくていい。お前は今いらない。そう、自分のRFFに言い聞かせる。

 手を伸ばす。

 かつて宮野が僕にしてくれたように、その頬に手を伸ばしていく。

 彼女の肌に、触れる。ゆっくりと。

 指先が宮野恵子のそばかすを撫でる。ずっと見ているだけだったそれを。

「ほら。触れられた。大丈夫だろ」

 僕がそういった瞬間、宮野はその僕の手を取った。

 どんな表情をしていたか、僕は覚えていない。

 ただ宮野が言った言葉だけは覚えてる。

「最後に触れてくれたのが君でよかった」

 さっきまで激情に駆られていたとは思えないくらいに静かで穏やかな声だった。

 宮野恵子の囁くような、あの声だった。

「みや、――」

 宮野はそのまま僕の首の後ろに手を回して。

 そして、引き寄せた。


※※※

 

 そのとき、何かが僕の唇に触れた。知らない感触だった。

 それは僕の体温と同じくらいに温かった。ほんのり甘かった。でも少しかさついていた。ああだめだ、と心の中で思った。やめてくれ。僕はこんな感触知らないでもよかったのに。

 ぶぅん。蠅の羽音のようなおぞましい音がした。

 頼む。やめてくれ。違うんだ。止まってくれ。

 そう口に出そうとして言葉は口が塞がれていたせいで声にならなかった。

 弾けた。風船みたいにぱん、と何かが弾けて飛んでいった。

 その瞬間甘い感触が消えた。テレビのスイッチを切ったみたいに突然途切れた。

 さっきまで手の中にあった柔らかい感触が消えた。

 甘い温もりは、夏の残り香に溶けて消えた。

 ひぐらしが夏の終わりを忍んでいるみたいに鳴いていた。 

 

 瞳を開けると、そこには誰もいなかった。ただ旧校舎の屋上の、目のくらむような景色がそこにはあった。遠くでみんなが普通に生活している様子が見えた。みんな不自然に距離をあけて、ぶつかりそうになるとRFFに頼る。いつもの景色だ。

 眼下から何かが潰れる音がした。タイヤが破裂したような、ぱぁん、という音があたり一体に響いた。

 振り返ったら刑事さんが唖然としていた。まるで子供みたいにその場にへたり込んでいた。

「宮野、どこにいるんだ」 

 そうだ。僕は宮野を探さなきゃいけない。

 さっきまでいたんだ。ここに。

 触れてたんだ。いないはずないのに。

 でもどこを見ても、彼女の姿はない。

 僕は独りだった。



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