花の野
芳和五年の夏は、猛暑となった。いつも満々と水を湛える猪苗代湖も幾分縮み、湖沿いの田畑には用水が用を成さず、民は田畑を枯らさぬために苦心した。猛暑は常の暮らしをしていた真紀の体力を奪い、秋の風が吹き始める頃には床から起き上がれぬほど衰弱が進んだ。
容保は頼母たちに頼み、精のつくもの、身体に良いと言われるものを度々取り寄せたが、真紀はほとんど口に出来ず、容保は真紀の部屋に文机を持ち込み、真紀の様子を見ながら会津に帰ってから始めた京都の頃からの防備録の執筆を続けていた。
しかし、秋風が冬の冷たさを運び始めた頃には真紀は床から身体を起こす程に回復した。
「まだ幼い廸と瓊二朗を残して逝くわけには参りませぬから」
真紀はそう言ったが、最近では館に泊まり込み、つきっきりで真紀を診ている女医の友野郁は、容保の問いにここまで弱られれば何時まで保つかは自分でも判らないと、首を横に振った。
そんな頃、文机に向かう容保に真紀が言った。
「容保どの、頼みがあります」
「?」
振り返れば真紀は床から身体を起こしており、容保は慌てて横になるように言えば、いつもの微笑みを浮かべながら、真紀が言った。
「お願いです、聞いて頂けますか?」
聞くからと諭して真紀を寝かせれば、真紀の言葉は容保の想像を超えていて、容保は思わず問い質す。
「どういう、ことだ?」
「申し上げた通りです。私の名、私が成したこと全てを容保どのが記されている防備録から消して下さい」
あまりの言葉に、容保は動揺のあまり、容保の視線は防備録を広げた文机と真紀の顔を何度も何度も往復する。
「な、なぜだ」
夏の終わり、真紀の身体は骨が浮くほど痩せこけたけれど、秋に入って真紀が無理をしてでも饗される食事を食べ続けたお陰か、常に戻りつつあった手で確と容保の手を握りしめ、真紀が絞り出すように言った。
「後の為です」
「どういうことだ」
宥めすかして身体を横たえさせ、真紀に問えば、真紀は深い深いため息を落として、語り始めた。
「容保どのの書き記した防備録は、何れの時か、世に出ます。容保どのが秘しても、容保どのが記したものであれば、それは世に出ることを防ぎようもありませぬ」
「しかし」
「……容保どのが秘そうとすればするほど、後の世の者で、そして求学心に富む者ほど、無邪気に世に出そうとするでしょう」
「真紀」
「容保どのが、会津が、容保どのが何を望んで、否応なく動乱と騒擾に巻き込まれたとしても、学問を究めるという欲に駆られた者はその史料の中にある思いを汲み取ることが出来ずに世に出してしまうことは往々にしてあるのです。それは学問の志を立てたことのある私ならば判ります」
何度も咳く真紀に薬湯を飲ませ、容保は問うた。
「だから、名を消せと?」
「……はい、消して下さい。私の名を消し、私が成したことは会津家中の者の功績にすり替えても構いませぬ、側室としては名も知れぬ家中の娘とだけ、記して下さい」
「……ならぬ」
容保は強い、激するように言った。
「ならぬ、そなたがいたことを消せだと! 斯様なことをわしが許すわけがないことをそなた自身が一番判っておろうが! そなた無くして会津は無かった、そなた無くしてわしは無かったのだぞ!」
激しい言葉に、真紀は何度も何度も瞬いたがやがて微笑みを浮かべながら、静かに言う。
「………そのお言葉だけで、真紀は充分でございます」
「真紀!」
「容保どの、私はずっと恐れて参りました。容保どのにも何度も申し上げました。反撥のことです。何か事を起こせば、元あるべき事象があるべき姿から離れれば離れるほど、その反撥は強くなると。私は会津が数千の贄を出さぬこと、国賊にならぬこと、そればかりを願って京都で動いて参りました。数百年、この身体を保ってきた時知らずの身を失ったことこそ、運命の流れに逆らった私への反撥ではないか、そう思うのです」
真紀の紡ぐ言葉に、容保は思わず言葉を失う。真紀は続けた。
「神のような存在があり、それが私を戦国の世に落とし、時知らずの身を与えたかどうか。それは判りませぬ。ただ私は思うのです。これ以上、時代の流れに逆らうことは、容保どのが京都で築き上げた世界を変えるやも知れぬ、だからこそ私という存在が永い時を生きたことを秘さねばならぬと」
「真紀……」
「もう一つ、理由があります」
真紀は微笑みながら、しかしその手は容保の腕を握りしめ、
「容保どのの防備録が世に出れば、必ず後の世で、歴史を学問とする筈の後の世の、私の目に触れます」
真紀に握りしめられた右手は、真紀の病人とは思えぬほどの力を受けて、ぎりぎりと痛みを伝える。容保は振りほどくことが出来るけれども、あえて身動きせずに真紀の言葉に耳を傾け続けた。
「戦国の世に飛ばされる前の私は、会津に関する史料を目にする機会があれば必ず目にする筈です。ですから駄目なのです、何の疑念も持たずに戦国の世に飛ばされる時を迎えなくては」
真紀の言葉の意味を、容保はすぐに理解する。そして、思わず思った言葉を口にする。
「しかし、それではそなたは、わしに出会うまで、いや、土津公を託されるまで苦難の道を歩むことになるではないか」
湖畔に館を構えて以来、真紀は容保に問われるまま、戦国の世で目覚めて以来の苦難に満ちた自身の、流転の日々を語って聞かせた。時知らずの身を持つ者として、世にそぐわぬ才を持つ者として、疑心を向けられ、裏切りに会い、絶望に満ちた日々のことを。
その話は大抵、正之を託されたこと、後に正之に会津を託されたことで報われたと締め括る話で終わっていた。真紀の言葉は、長い時の流れを生きてきた真紀自身の生涯を否定するように感じて、容保は声を荒げた。
「だがそれでは、そなたはまた繰り返す。何度もわしに語って聞かせてくれたではないか、あのような日々があっても、土津公に出会い、そして何よりわしに出逢えて報われたと」
「……そうですよ、会津という礎を正之どのに与えられ、容保どのと出逢えたことこそ、私が永き時を生きてきた、証となったと。ですが、だからこそ私は繰り返さねばならぬのです。辛く何も見えぬ、頼る者さえない、あの日々を。そうして、会津という礎の上で、容保どのと出逢い、三人の子を得た。あの子達の為にも、私はまた繰り返さねばならぬのです」
静かな、しかし峻烈な真紀の言葉に容保はようやく思い至った。
真紀の言葉通りならば、真紀が暗く辛い日々を乗り越えなければ、穣太郎、廸、瓊二朗は我が子として迎えることが出来ないのだと。
「……そんな、まさか」
「ええ、そうなのです。辛くとも、何も見えぬ日々でも、それでも私はあの子達の為にまた繰り返さねばならぬ。ならば、喜んで私は私自身を戦国の世に送ります。私自身に恨まれようとも、容保どの、あなたと出逢い、子達に再び逢うために」
容保の頬を涙が伝う。
幾筋も幾筋も流れ落ちるそれを、真紀は幾分痩せた指で掬う。
「泣かないで下さい、容保どの。私はそれでも容保どのと、子達と過ごした日々こそは、今まで永き時を生きてきたからこそ、見つけることの出来た、珠玉だと信じたいのです。だから、私の名を全て消して下さい。私はそれでも、幸せだったのですから」
「ま、き」
「泣かないで、容保。あなたを残して逝くことだけが、私の心残り。ずっと共白髪になるまで、傍にいるという約束を果たせなかったことだけが、私の唯一の後悔なのです」
「……真紀」
真紀は満面の笑みを浮かべて、冷えた指で容保の涙を拭う。
「おかしな話でしょう? いつかお教えしましたよね。時知らずの身を持っていた頃、死することが望みであったのに、今はあなたの傍にいたい、子達の行く末を見守りたい、まだ死にたくない、そんなことを考えるのです。なんて我儘で愚かな考えでしょうね」
「いいや」
容保は真紀の身体を起こし、抱き締める。
「いいや、そんなことはない。そなたはわしの妻だ。子達の母だ。おかしなことではない、そう考えることがおかしなことである筈がない!」
「……容保どの」
「生きてくれ、少しでも長く。わしの傍にいてくれ!」
容保の身体が小さく震え続けるのを感じながら、真紀はそっと容保の背中に手を伸ばし、目を閉じた。
真紀が息を引き取ったのは、年を越して、冬の終わり。
館を覆う雪が僅かに溶け始め、軒に連なる氷柱からポタリポタリと雪融けの雫が落ち始めた頃。
その頃は、真紀は昏々と眠る日々が続き、時折目覚めては二言三言容保と会話を交わすが精一杯だった。
「今日は、少し、暖かい、ですね」
「まもなく雪も溶けよう、春が来るな」
それが二人が交わした最期の言葉だった。
真紀は眠るように、逝った。
傍についていた容保も、真紀の閉じられた眦から一筋の涙が伝うのを見て異変を感じたが、その時には事切れた後だった。
かつて見た花の野に真紀はいた。
辺りを見回せば、近くに花冠が落ちていた。
あの時、それを差し出していた幼子の姿を真紀は探したが見当たらない。
真紀は小さく笑んだ。
あの時の幼子が誰であったか、理解して。
それから遠くに霞む人影を認めて歩き始めた。
整えられた真紀の遺骸を前に茫然と座る容保に、真紀の遺書を差し出したのは、右筆頭の登喜枝だった。
秋の頃、一時回復した真紀に預かったという遺書は、真紀の癖の強い筆跡で、まだ語られていなかった真紀の過去が認められていた。
容保どの、斗南という土地を御存知ないと思います。八戸の北にあった小さな小さな土地です。
私の曾祖母が会津の出身であることは何度かお話し申し上げましたね。ですが本当は曾祖母はその斗南で生まれました。
私の知る史実では数千の会津の贄が出るのだとお聞かせしましたが、その死者の数は鶴ヶ城籠城戦での死者だけでなく、会津を追われた者達が斗南と呼ばれた地で餓えと寒さで死んだ者たちも含まれます。曾祖母は斗南で生まれましたが、五人兄弟の末っ子で、その地で上の三人の兄姉は斗南で死んだと、曾祖母の日記で知りました。
私の知る『史実』では、国賊とされた会津は最後の最後まで官軍とされた軍勢に鶴ヶ城に籠城してまで抗し続けました。結果、多くの死傷者を出した後に恭順したことで、八戸藩のそのまた北の、たった三万石へ移封となりました。それが斗南です。三万石とは言え、実際の石高は一万にも満たぬ斗南に一万七千人の藩士とその家族が生活を余儀なくされたことで、大変に困窮したとされていました。
曾祖母は、斗南の暮らしについて何一つ語らず、私が曾祖母の苦難について知ったのは、曾祖母の遺した日記ででした。今の穣太郎ほどの子達が、下の子達に自らが凌げる筈もないのに防寒の為の衣類や食べ物を譲り、朝には冷たくなっていたことを読んだ時は、流石に涙が止まらなかったことを覚えています。
弱き者たちが次々と死ななくてはならぬ世の中が、なぜ生まれたのか。
私はそんな疑問を持ったことから、会津がなぜ国賊とされたのかを学問で追究するようになったのですが、そうした折りに私は戦国の世に送られたのです。
秀忠公に幼い正之どのを託された時、これは天啓だと思いました。いずれ正之どのに会津の末路を示せば、必ずや会津の道を違えてくださるだろうと安易な思いでした。
ですが、望んだとしてもそれは思うように進まず、今思えばそれも反撥であったかも知れませぬ。容保どのが京都守護職を拝命されたことで、他人の手ではなく、反撥を恐れつつも、自らが踏み出さねば流れは変わらぬと思い知りました。
容保どの、自らに関わることは自らの手で切り開かなくては、流れは変わらぬのです。
私はそうして、会津の中に、京都に少しずつですが、関わることに自らに定めて、生きて参りました。
その後は、容保どのも御存知の通りです。
ですが、私は未だに分からぬのです。私は自らの手で切り開こうとしました。ですが、そのことが正しかったのか、間違っていたのか。分からぬのです。
ただ、私が時知らずの身を無くしたことは私が自らの手で切り開いたことが原因なのかも知れませぬが、とにかく何かが反撥を招いたことには違いないでしょう。
それでも、今は私が望んだことが後の世に、会津に、容保どのに良かれであれと願うのです。
後悔は一つだけ。容保どのと子達の行く末を見られぬことです。どうか、子達を頼みます。
私の遺体は荼毘にふし、その灰は猪苗代湖に流して下さい。そうすればいつでもお屋敷に訪なえますから。
私はいつでも、容保どのの傍におります。
一柳真紀。
容保は、松平家墓所に埋葬すべしと言う頼母たちの意見を容れず、真紀の遺言通り火葬とし、その灰を猪苗代湖に撒いた。だが一つだけ真紀の遺言と違っていたのは、真紀の遺灰を一握りだけ残して、小さな竹筒に納め、いつでも自らの首にかけたのだ。
加えて松平家墓所には真紀の名前を霊璽を初めとして何も残さず、あまつさえ家系図に記された廸と瓊二朗の母としての真紀の名まで削り取らせた。頼母は異論を唱えたが、容保は静かに、
「真紀の遺言である。自らの名を全て消せと言われた」
と告げられれば、頼母ですら、もう何も言えなかった。




