家族写真
馬の蹄の音に、作兵衛は顔を上げた。作兵衛が手綱を引く荷馬のものではない。背後から土埃を上げながら疾走する馬車が向かってくるのが見えた。荷馬をつないである荷車には城下で西郷家や他家から松平家へと託された荷物がぎっしりと積まれているので、荷馬もゆっくりとした足取りで、作兵衛もそれを急がせるつもりはなかったけれど、この道は幾分狭く、馬車をやり過ごすには荷馬車を幾分でも路傍に寄せた方が良かろうと、作兵衛は荷馬車から降り、荷馬の手綱を引いた。
だが馬車は速度を緩め、作兵衛のすぐ脇で止まった。西洋服で身を固めた御者が声を上げた。
「済まぬがこの辺りに、会津松平家の館があると聞いたが」
「へえ、真っ直ぐお進みなせえやし。湖沿いの道に出やして暫く進めば、左手に門が見えやす。それを上られるとお屋敷で」
「そうか」
御者は頷いて、再び馬車は進み始めた。馬車の中には一人の、御者と同じく黒い西洋服に身を固めた男が座っているのが、小さな窓越しに見えた。
「珍しいことでなし、お屋敷にお客様とはなぁ」
作兵衛は一人ごちて、荷馬の首筋を撫でた。
「さあて、おめ。もう一踏ん張りだ。西郷さまや他の方々が精がつくもんを御方さまにと用意して下さったんだ。はようお届けすんべ」
荷馬はブルルと鼻を鳴らして、力強く歩を進め始めた。
馬車は作兵衛の案内通りに進み、屋敷にたどり着いた。誰何の声を上げようとする御者を止めて、男が馬車から降りる。
目の前にあったのは小さいながらも洋館の趣を見せる建物で、京都に最近林立し始めたそれに比べれば華麗さも規模も大したものではない。だが、周りの景色にとても馴染んで見えて、男は僅かに微笑んだ。
「会津どのらしいと言えば、そうだな」
「……どちら様で?」
「一橋慶喜と申すが、松平容保どのは御在宅か」
表玄関の脇から現れた使用人は告げられた名前に、驚愕する。
「し、しばらくお待ちを! あ、いや、お通し申し上げやす!」
慌てふためいていた割に、使用人はそれでも作法はしっかりと守り、洋風の応接室に通された慶喜からシルクハットとコートを使用人は預かって、すぐに違う者が応接用の椅子に座った慶喜にもてなしの茶を出した。
「会津どのはお変わりないか」
「はい、先月三人目のお子が生まれてから、御方さまとお子の為にと、お忙しくされておりやす」
最初の使用人よりは身分が高かった様子の女性が振る舞う薄茶は、鄙びた場所で飲むにしては風流で、男は満足していた。満足したことで先程の使用人の言葉を思い出した。
「三人目、と申したか?」
「はい、瓊二朗さまと殿が命名されやした」
使用人と入れ替わるように姿を見せた容保が、微笑みながら男の前の椅子に座った。
「一橋さま、御無礼を致しました。お待たせしたのでは?」
「いや、急の訪いはこちらの方。会津役所に来る用事があり、思い立ちお邪魔したのだ」
そう言って慶喜は容保を見つめた。その様子に容保は小首を傾げる。
「一橋さま?」
「いや、会津どのであるのは判るが……面持ちが変わられたか?」
慶喜の問いに容保は微笑みながら、よく言われるのですがと応える。
慶喜の知る容保は幾分線が細く、しかしその意思の毅い双眸が歌物語に聞こえるような非業の死を遂げる若武者を連想させた。囂しい朝廷の女房たちが光源氏と源氏判官のようなと評すると聞こえた時は、さもありなんと納得したものだった。
だが目の前で微笑む壮年の男は、双眸は京都にあった時より柔和に見える。線の細さは幾分鳴りを潜め、透けるほどに白かった肌は幾分日に焼けて血色良く見えた。
「いかに暮らしておられる?」
「京都に在りし折り、書き散らしたものをゆっくりとまとめております。それ以外は近隣の民と田畑の手入れをしたりでございますよ」
「……京の水より、古里の水が良かったということか?」
冗談めかして顎を触る容保に投げかけられた低い声に、容保は眉をひそめた。
「一橋さま?」
「……ずっと気になっていたことがある。蓮見の宴の折り、わしがそなたを首席宰相の推挙した時、そなた、断りの最後に妙なことを申したな」
慶喜は小さくため息を落とす。
首席宰相となり、憲法と名付けられた礎となるべき定法が正式に発布する詔書と、評議府を制定する詔書に首席宰相として名を記しても、晴れがましい中に、どこか本来ならばここにあるべき名は違うのかも知れぬという、喩えようもない感情が燻り続けていることに気づいていた。それは松平容保があまりにも潔く身を引いた所為ではなく、自分が真っ先に容保を推挙したことに起因していることにも、判ってはいる。
「だが、会津どの。そなたを推挙したのは武家や公卿の兼ね合いだけではなく、確かにそなたが首席宰相の器であろうと、わしは思ったのだ。なのに、そなたは判らぬ理由で京都を去った。そのことが、どうしても解せぬのだ。そなたが目の前にあった最高の地位と名誉を擲っても、叶えたかったこととはこの地で穏やかに暮らすことだったのか」
「……一橋さま」
「どうしても解せぬのだ。陰遁など年経てからすればよいのではないか?」
「いいえ、それがしにとってはあの時でなくてはならなかったのです。そしてあの折、身を引いて会津に戻ったことに後悔などありませぬ。寧ろ正しい選択であったと、それがしは考えております」
静かだが、決して揺らがないと判る口調で容保は言う。
「それがしは、会津松平家を相続以来、会津のため、宗家のため、京都にあっては帝の御為、国の為と一所懸命に立ち働いてきた積もりです。成さねば成らぬと必死でございました。それは一橋さまも同じと心得ますが」
「……如何にも。それはわしとて同じ、今も変わらぬ」
「左様でございましょう。ですが、それがしにはずっと心に定めて参ったことがございます。ある者を守り抜くと誓ったのです。その為ならば、地位も名誉も要らぬ、ただここの暮らしがあればそれで良いと気づいたのです」
「……判らぬ」
唸るような慶喜の応えに、容保は微笑みを浮かべたまま頷く。
「さもありなん、ご理解頂けるとは毛頭思うておりませぬ。ですがそれが理由なのです、そうとしか申し上げられませぬ」
「……そなたの側室のことか」
容保は瞬く。突然に真紀の名前が、京都にあった時、最も冷淡に真紀に接していたように見えた慶喜から漏れたことに、何より驚きを感じた。慶喜は続ける。
「それほどまでに、側室が大事か? 一生涯陰遁生活を送って、二人で睦み合うことがそれほどまでに大事か」
「……二人でいられる時は、少ないのです。いくら守ると心定めても、その思いと寿命は」
容保の微笑みは、幾らか寂しげなものに変わる。
「沿わぬことが往々にしてあります」
慶喜が瞠目する。容保の言葉が意味するところを理解して、絞り出すように問うた。
「……病か、側室は」
「……いいえ、病ではありませぬが……」
冬は越せぬと、医師には言われております。
容保の小さな声に、慶喜は目を閉じた。
「会津どのはそれを知って」
「……正直申せば、斯様に早く来るとは思いませなんだ。真紀と静かな時を過ごせたらと、ずっと望み、望みが叶った矢先に斯様なことに」
「ならば京都に移して、良い医者に見せては」
容保は寂しげな微笑みを絶やさぬままに、
「京都までは真紀の体が保たぬと医師に言われております。それに何より本人が望みませぬ」
「知っておるのか、自分の寿命を」
小さく頷く容保の双眸が幾分潤んで見えて、慶喜は目を逸らした。そして顔を背けたまま言う。
「思いつきで立ち寄ったとは、嘘だ」
「え?」
「東北の役所を回ることを帝に御報告申し上げたら、上皇さまから内々に頼まれた。そなたと一柳の暮らしを見て参れと。書状も預かっている」
差し出された宸翰は見慣れた上皇のもので、容保は恭しく目を通す。容保と真紀の息災を訊ねる書き出しから始まり、杖にてほとんどの歩行が可能になったことが書かれていた。
「……上皇さまから伺った。一柳が如何に知恵者で、上皇様の信頼を得ていたか。わしは……何も知らなんだ」
宸翰を読み終わる頃合いを見計らい、慶喜が呟くように言った言葉に、容保は苦笑する。
「あれは表に出ることを望みませぬ。女子であること、会津の一家老補佐役に過ぎぬことを常に心に留めて動いておりましたから」
「……そうか」
「御宸翰へ返書はした方が宜しいでしょうか?」
「上皇さまには出来れば頼むと仰せであったが」
「判りました。会津には何時まで御逗留で?」
「明日の昼には発つ。それまでは城下の宿を取っている。そこに届けてくれれば良い。それもだが、会津どの、写真機を使うて良いか?」
思いもしなかった言葉に、容保は首を傾げる。
「写真機でございますか? 構いませぬが、如何されるのです?」
「上皇さまにわしからお知らせするより、そなたたちの暮らしぶり、写真機で撮影してお見せすれば判りやすかろう。側室は床もあがらぬか?」
「いいえ、今は常の生活をしております故に、大丈夫ではありますが」
「ならば準備させよ。お子たちも一緒に。写真をお見せすれば上皇さまもお慶びになるだろう」
「ご無沙汰しております」
深々と頭を下げた真紀を、慶喜はまたしても凝視した。
「何か?」
「……いや、神戸以来か」
「左様でございますね。あの折は女性の身でありながら、同席するなど御無礼仕りました」
「いや、あれもそなたの役目であろう」
もう何年も前に会ったきりの女性だ。神戸の折は総髪に羽織袴姿だったが、今はさほど華美ではない打ち掛けを同じく質素な小袖の上に羽織っている。幼子を抱いて歩く姿は余命幾ばくもないようには見えなかったが、明らかに健康そうに面変わった容保とは違って、その顔は僅かだが面窶れ、肌は蒼白く透けるかのように見えた。
先日、上皇より四方山話として京都で彼女が如何に動き、如何に今の政権を望んだか聞かされた。
自分が矜持故に読み上げなかった京都守護職拝命書の任限が回り回って、あの騒乱を納めることになったことを上皇から知らされて、真紀の読みの深さ長さと、真紀という一介の側室の手の上で躍らされたのではないかという矜持に僅かについた瑕疵を一瞬思い出して、小さく溜め息をついてから、真紀に呼び掛けた。
「……御内儀」
「あら」
真紀は数回瞬いて苦笑する。それに気分を害したのか、憮然としながら写真機の準備を整えつつ、慶喜が言う。
「なんだ」
「いえ、失礼しました。その様に呼ばれることなどついぞなかったので」
「……そうか。ならばなんと呼べばよい?」
「いいえ、内儀とお呼びください」
「であるなら御内儀、そなたは良かったのか? 会津どのが陰遁するという選択が正しかったと思うか」
慶喜の問いに真紀は数度瞬いて、いつもの穏やかな笑みを口の端に浮かべて応える。
「どうでしょう、お答えは難しゅうございますね。家老補佐役の私ならば、あのまま京都にあって新しい日本の形作りにご参加下さいと申し上げるのが最上の答えでございましょうね。でも私は容保どのの側室です。望まれて側室に上がりました。容保どのの傍にいつでもいると申し上げてきました。だから」
ふと、真紀は目を上げた。慶喜が写真機を準備する場所から少し離れた所に応接室の椅子を持ち出して、容保と穣太郎、廸が座っている。三歳の廸には椅子は高過ぎ、両の足を揺らして遊んでいる様子を容保が暫し大人しく座っておれよと声をかけている様子を微笑みながら見つめて、真紀は言葉を紡いだ。
「だから私は、容保どのが選んだ道を共に歩くことだけを定めたのです。それでも容保どのが会津に帰ると定めた時、私は嬉しかった。少しでも、私に残された時を容保どのが共に過ごしてくれることを定めて下さったから」
「……愚かな、と言いたいが」
慶喜は立ち上がり、真紀を見つめる。
「愚かな、と言いたいが。それはわしが理解出来ぬだけのことだな。もうよい、何やら妬けるような話に思えてきたわ。御内儀、そろそろ座られよ。撮影する故、暫しでも動かぬようにお子らに言い含めてくれるか」
去っていく馬車を見送りながら、容保が声を上げた。
「真紀」
「はい?」
「そなた、また自分よりもわしを優先したな」
「……はて、何のことにございますか?」
「一橋さまが、上皇さまの御宸翰を届けて下さった。観兵式の夜の騒擾を納めた功で褒美を取らすと仰せの帝に、わしが陰遁することを願い出れば認めよと申したそうだな」
一瞬、惚けた表情を浮かべた真紀に、容保は重ねて言う。
「上皇さまは、そなたが自分のために頼み事をしたのは初めてで寧ろ小気味良かったと認められていたが」
「……上皇さまの仰せの通りです。容保どのが陰遁を願い出れば必ず帝はお退けになる筈です。ですから」
「回り回って、そなたの望みになるとは言え、わしの望みを叶えよとは、わしが面映ゆい」
「え?」
真紀が容保の顔を覗き込めば、幾分笑んだ表情で容保が言う。
「わしはどのように、万人に思われようとも会津に帰る心積もりを固めておった。帝が退けられようとも粘るつもりであったのだ。逆に拍子抜けたわ、確かに何れの時か呼び戻すと添え言があったにしても、だ」
「……余計なことでしたか?」
「いや」
容保は、真紀の腕の中で眠る瓊二朗を真紀から受け取り、そのすべやかな頬を撫でる。
「よいのだ。どちらにしても、我等はここに暮らすことが出来たのだから」
慶喜から届いた書簡には容保からの文と、慶喜が撮ったという数枚の写真が添えられていた。容保の文を読んで、上皇は苦笑する。
「会津どのはなんと?」
「惚気けにしか聞こえぬわ。一柳と子供の話ばかりや。余程会津の暮らしが良いと見える」
上皇が差し出す容保の文を受け取り、尹宮はしかしと続ける。
「また子を成したと聞きましたが、そうなれば一柳は」
「……一層、短い時を大事に暮らしておるんやろ」
『もう上皇さまにお目にかかることはありますまい』
京都を立ち退く少し前、真紀は初めて小袖に打ち掛け姿で仙洞御所を訪れた。羽織袴か、大腰袴姿しか見たことのなかった上皇には見慣れぬ真紀の姿だったが、告げられた言葉はそれ以上の衝撃だった。
『どういう意味や』
『言葉の通りでございます。私は恐らく、再び京都に参ることはありますまい』
静かに言う真紀は、常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。
弱っているのです、時知らずの身を失ったためでしょうか、医師の診立てではそのように言われております。
『会津も知っておるのか、そのこと』
上皇が問えば、真紀は黙って首を横に振った。
『ならば、あれが会津に隠遁するというのは、ただそなたと穏やかに暮らしたいという望み故か』
『……何れは会津に帰りたい。それが容保どのの口癖でした。それを叶えて差し上げたいと、私も思っておりました。ですが、私に残された時間があまりないのも、帝が望みを言えと言われた時、私の心を過ったのも事実です』
だから、私の我儘なのです。最後の時を穏やかに暮らしたい、というのは。
真紀の言葉に上皇は深い溜め息を一つ落として答えた。
『それでもよいではないか。そなたの時間が短いことを知らぬ会津が、そなたと穏やかに暮らしたいと望んだのだ。そのこと、大切にせねばなるまいて。だが、知恵者のそなたの講釈をもう聞けぬのは、残念や……その時まで、息災に暮らせ』
深々と平伏して、頭を上げた真紀の双眸は幾分潤んで見えたことを思い出しながら、上皇が呟いた。
「それでも、一柳は子を成したんやな。何とも幸せそうな家族写真や。会津も、一柳も穏やかな暮らしが出来てるんやろ、羨ましいことや」




