望み
会津に帰った容保は、京都を立ち退く前に首席宰相・一橋慶喜に帝に献上申し上げると示した鶴ヶ城ではなく、猪苗代湖畔の松平家所有の狩り場の隅に居を構えた。黒谷で宣言した通り、側仕えや右筆の殆どは家族の元に返したが、登喜枝を始めとした身寄りのない僅かな者だけが使用人として、容保の元に残った。
真紀の中間を勤めた作兵衛は京都で結婚したので、真紀は京都に残るように促したのだが、作兵衛は振り切って妻子を引き連れて夏前に完成した松平家の館に移ってきた。
秋になれば狩り場には鹿や猪、時には熊が出没する。長らく家中を挙げての狩りが行われていなかったこともあって、近隣の農地に増えすぎた鹿が食害を与えていると聞いた容保は、大がかりな狩りを催した。
「まあ、このような立派な」
登喜枝は表玄関に届けられた鹿の巨体に驚く。下馬した容保が満面の笑みで、
「久し振りの狩りであったからな。かなりの数が取れた。これほどの雄鹿はなかなかお目にかかれぬ。参加した者に大分分けたが、これは是非にと渡された。捌いてくれてもなかなか大きいものだな。真紀はどこだ」
「御方さまならば、お庭でお見かけしました」
「塩漬けを拵えてみたいと言っていたな。台所の準備を頼む、わしは真紀を連れていく」
館は夏には整ったが、庭にはほとんど手を入れていない。ところどころに元家臣から献上された桜や紅葉が植えられているだけで、いずれは整えねばならないと真紀と話した庭の隅に、見慣れた後ろ姿を認めて、容保は満面の笑みで呼び掛けた。
「真紀!」
振り返った真紀の足元を見て、容保は内心だけで首を傾げた。季節は秋とは言え、火鉢を出すほど寒くない。なのに真紀の足元には火鉢が置かれ、僅かではあったが小さな炎と白い煙が見えた。
「お帰りなさいませ、容保どの」
「あ、ああ。鹿を持たされた。塩漬けにするのだろう? 台所に運ばせたが……それはなんだ」
言いながら近寄って、容保は真紀の足元にもう一つ、見たことのある銅箱を見つけて、眉をしかめた。火鉢の中にはほとんど灰になってはいるが書状のように見える。銅箱の蓋は開けられて、中身はなかった。容保はようやく思い至って、声を上げる。
「真紀、もしやそれは」
「ええ、正之どのから頂いた書状を全部燃やしてしまいました」
さらりと告げられた言葉の意味を一瞬理解出来ず、容保は数度瞬いて、
「しかし」
「良いのですよ、もうこの書状の役目は終わりました。今更ですが、誰ぞの目に触れては困ります」
確かに真紀に銅箱に納められた数々の書状を見せてもらったことがある。殆どは真紀の近況を問うもの、幕府の中枢を担う者としてどのような方策が正しいか問うものなど、今となっては私人同士の書簡でしかない。
それでも真紀が容保に渡すことになった正之の書状と共に、その書状の数々を銅箱に納め、永らく土津神社に預けていたのは、処分するには忍びなかったからであることを、容保は知っていた。
「しかし」
「ああ、これも処分すれば良かったですね」
真紀が懐から出してきた桜枝丸紋が彫り込まれた木簡で、容保は慌てて火鉢の中に放り込もうとした真紀の手を掴む。
「容保どの?」
「何をしておるのだ、書状はともかくその木簡は」
「必要でしょうか?」
小首を傾げて問われれば、容保もどう応えてようかと考えるが、真紀はすぐに頷いて、
「そうかも知れませぬ。残しておきましょうか」
「……真紀」
肌身離さず懐に入っていた木簡を凝視して、真紀は呟いた。
「会津に安住するならば要らぬかとも思いましたが」
「しかしそれは土津公がそなたに与えたものであろう?」
桜枝丸紋が彫り込まれた木簡は、正之が会津を頼むと真紀に託した証に思える。嘗てそう言ったのは真紀自身だった。なのに簡単に処分すると言う真紀の言葉に、容保は違和感を感じたが、再びそれを懐に仕舞う真紀を見て、それを口にせずに話を変える。
「台所に行くか?」
「そうですね、あ、でも大丈夫かしら」
真紀の言葉に容保は問う。
「何がだ?」
「廸の時は、獣の臭いに悪阻が出たので、此度はどうかなと思いまして」
「……悪阻?」
「二月になるようです。そろそろ悪阻が出てもおかしくない頃なので。でも子によって悪阻の出方は違うと言いますから、行ってみましょう」
さりげなく告げられた言葉に、しかし容保は笑む。
「子が出来たか」
「暖かい頃に生まれてきますね。今度も健やかに生まれてくれればよいのですか」
さして膨らみを見せない腹を撫でながら、真紀は満面の笑みを容保に向けた。
「子が三人になるなんて、少し前まで考えも及びませんでしたが」
真紀の言葉に容保は力強く頷いて、
「確かにそうだな。来年の夏は賑やかなことになるだろうな」
容保が湖畔の館を離れて、鶴ヶ城に赴くのは月に一度ほどのことだ。鶴ヶ城を政権に委譲すると公にして以降、明け渡す為の手続きや残されている物の仕分けの為だったが、ほとんどの仕分けが終わり、ものが無くなり寒々しいほどに広くなった鶴ヶ城の私室で、容保は久方会わなかった人物を迎えていた。
「久しいな、息災であったか?」
友野脩井は深々と頭を下げた。すぐ横には娘の郁を伴っている。
「長々と御無沙汰しておりやす。殿におかれましては、この度の御方さまのご懐妊、おめでとうございやす」
「郁どのの診立てでは、母子共に健やかであるとか。親子三代に渡り、世話になっておるな」
友野脩井は先代・容敬、続いて容保の医師頭を勤めたが、京都に容保が移ったことを契機に隠居し、長男の脩法が後を襲った。京都・黒谷では容保も真紀も脩法に世話になり、会津に引き上げた後は国防軍の軍医となったため京都に残った脩法に代わり、会津では初めての女医となった長女の郁が五日に一度、館を訪れて診察している。
郁に目を向けると、郁は頭を下げたまま顔を上げない。その様子を訝しく思っていた容保だったが、脩井の言葉に顔色を変えた。
「いえ、この郁、今後は御方さまをお診立てするに相応しからずに付き、暫くはそれがしが御方さまをお診立ていたしやす。ですが早急に腕の良い医師をお探しくださるか、脩法を会津に呼び戻しやす」
「……どういうことだ」
「郁、申し上げぬか。ならばわしが」
「いいえ、私が」
ようやく顔を上げた若い女医の双眸は、強い決意に満ちていた。郁は幾分震える声で、言う。
「実は殿や御方さまが会津にお帰りになられる時に、兄より文を受け取りやした。殿の御家族方の病歴や、合わぬ薬などを知らせてきたのでごぜえやす。その中で、兄は書いておりやした。御方さまの御体のことでごぜえやす」
「真紀の?」
「はい……御方さまが時知らずの身を失われたことは勿論、兄も知っておりやした。京都に発たれる少し前に御方さまに問われたそうにごぜえやす。あとどれほど生きることが出来るかと」
容保を見つめながら、郁が続ける。
「兄は分かる限りでお答えしたそうでごぜえやす。御方さまには医術の心得がごぜえやす、誤魔化すことなど毛頭出来ず、正直に十年は保たぬとお答えした由」
「………十、年か」
真紀の穏やかな笑顔が脳裡に過る。そう言えばと思い至る。京都を立ち退く時、真紀は自分の持ち物を京都に残る右筆たちに、会津に着いてからは家族の元に帰る右筆たちに次々と分け与えた。右筆頭の登喜枝がこのままでは御方さまの手持ちが無くなりますと泣き言めいた苦言を容保に示したので、容保が伝えると真紀は数度瞬いて、
『そうでした、明日着る小袖は置いておきましょう』
あの時は別れる右筆たちに、せめてもの手土産を渡したいのかと思っていたのだが、それだけではなかったのか。
だが容保の意識を今に引きずり戻すように、郁は言葉を紡ぐ。
「御方さまは誰にも明かさぬようにと、兄に口止めしたそうでごぜえやすが、だけんじょ、兄は今後のこともある故にと、知らせてくれたのでごぜえやす。確かに私が診ても御方さまのお体はかなり弱っておりやすので、兄の診立ては妥当なものでございやすが」
一度、郁は言葉を切った。
容保は呆然と郁を見つめていたが、続いた郁の言葉に瞠目する。
「なんと、申した?」
「ご懐妊は、御方さまの命を縮めやす、お子を無事ご出産あそばされても、のちは一年保たぬやも知れませぬ」
「いち、ねんだと……」
時知らずの身を失った真紀が少しずつ、本当に少しずつ弱っていくのを、容保は感じていた。真紀は何も言わなかったが、だからこそ容保は回りから隠遁するには早すぎると言われても京都を立ち退き、会津に移るのを急いだ。真紀の命があと十年と告げられて心はざわめいたけれど、どこかでそうかも知れぬと応える自分がいた。
だが告げられた期限は、あまりにも短かった。
「なんと、いう……」
「御方さまには申し上げてありやすが、御方さまは子は生む、このことは誰にも明かさぬようにと言われやした。ですから、殿にお願いがありやす。此度のお子は諦めるわけには参りませぬか、諦めるならば御方さまのお命、少しでも伸ばすことは出来ます」
郁の言葉は、座っていても目眩を感じている容保にはどこか遠くで響いていた。言い募ろうとする娘を、容保の様子を見ていた脩井が留める。
「待たぬか、郁」
「されど」
「にしは殿のお気持ちを考えられぬか」
父と娘の声を、どこか遠いところで聞きながら、容保は額に手をやる。
一年。そしてその期限を、真紀は知っている。
子が出来たと言った時、真紀は何をしていた?
土津公の書簡を処分し、桜枝丸紋の木簡まで燃やそうとした。
大切に、肌身離さず持ち歩いたものを手離すなど、おかしいと感じた。あの時感じた違和感は告げられた命の期限故の真紀の思いもよらぬ行動だったからか。
グラグラと頭を揺さぶられているような目眩を感じながら、容保はそれでも思い至る。
あの時、真紀は『無事に生まれてくれればよいのですが』と言った。それは即ち、真紀は命の期限が短くなっても、子を生むという意思を表したということか。
「……郁どの」
「はい」
「子を諦めれば、真紀は如何程の命だ」
「……五年ほどかと」
「そうか」
「兄も処方しておりやした補薬がごぜえやす。これは私も処方させて頂いておりやした。しかし、これはお子には毒となりやすので、今は止めておりやす。その補薬を以て、五年なのです。補薬もなく懐妊を続ければ、御方さまのお命、削るばかりで」
容保は一つ大きな溜め息を落として、
「子は、どうなのだ。健やかに育っておるのか」
「はい、それは間違いごせえやせん、御方さまがあれほど弱ってらっしゃるのは、お子が健やかに育っておられる証しと考えておりやす」
「ならば」
容保はまだ目眩を感じながら、顔を上げた。
「ならば、郁どの。そなたの話、聞かなかったこととする」
幾分掠れた容保の声に、郁は瞠目する。隣の脩井も瞠目しながら、声を上げた。
「殿、しかしながら」
「このこと、わしは聞かなかったことにすると申したのだ。郁どの、真紀は子を生むことを望んであろう? 己が命削ってでもだ」
「だけんじょ!」
容保は口の端に寂しげに見える微笑みを浮かべる。
「だからこそ、聞かなかったこととする。郁どの、よくぞ知らせてくれた。しかしこの話はここで終いとしよう」
ここのところ食が細い、そう登喜枝は心配そうに言った。
眠る真紀の顔は、やはり痩せて見える。
友野父娘の話を聞いた日は予定通り、鶴ヶ城で泊まった。床に入っても思いが千々に乱れて、結局一睡も出来ず、まんじりと朝を迎えた。
夕刻に館に帰る予定だったが、容保は切り上げて昼過ぎには館に帰った。
廸の午睡に付き合って眠る真紀の横に座り、容保は内心だけで溜め息を落とした。
『ご懐妊は、御方さまの命を縮めやす、お子を無事ご出産あそばされても、のちは一年保たぬやも知れませぬ』
思い返した郁の言葉に、容保の心がざわざわと揺さぶられる。
分かっていた筈だった。
なのに目の前に真紀の命の期限を突き付けられて、容保は観兵式の夜、中山忠如に喉元に突き付けられた刃に感じたそれよりも遥かに深く、遥かに濃い恐怖を感じた。
真紀が、死ぬ。それも近い内に。
ふと気づくと自分の手が、蒼白い真紀の頬に触れる寸前まで届く。しかし真紀が身動ぎ、容保の指先は止まった。真紀がゆっくりと目を開き、容保を認めて、穏やかに微笑む。
「……お帰りでしたか」
「……そなたが気になって、な」
小さく返された良人の言葉に、真紀は苦笑する。
「過保護なこと。容保どのは、ずっと私を玻璃と間違えておいでですよ」
横で眠る廸を起こさぬようにそっと身を起こし、真紀は打ち掛けを羽織って隣の部屋に移ろうとするが、突然容保に背中から抱きすくめられた。
「容保どの?」
「……聞かせてくれ。そなたは、どうしたいのだ。真紀」
僅かに震える声。
耳許で囁くように言われて、一瞬瞠目した真紀だったが、いつもの穏やかな微笑みを浮かべながら、肩口に乗せられた容保の頭を撫でる。
「どうしたい、とはどういうことですか?」
「真紀の望み通りにしてやりたい。それはずっとわしの願いだった。今も、これからもそうだ。だがやはり聞きたい。そなたはこれからどうしたい?」
肩口に押し当てられた容保の口から響く声は籠って聞こえるが、真紀の身体に振動を伝える。それとは別に容保自身の身体の震えも僅かに感じて、真紀は目を閉じた。
「私は、生きたいのです」
真紀の言葉に容保が身動ぐのを感じながら、真紀は目を閉じたまま、言葉を紡ぐ。
「私は生きたいのです。穣太郎、廸、そして生まれる子のため、何よりあなたと共に生きたいのです」
「真紀」
「私はずっと死にたかった。時知らずの身を持てば如何なる方法を用いても、死は得られませなんだ。戦国の世を彷徨って私は思い至ったのです。死す方法は一つ。私が生まれた時、その先にあるはずの私が死する時まで長い時を過ごさねば、死ぬことは叶わぬと」
背中から抱きすくめられたことで感じる容保の暖かさがするりとなくなり、真紀は目を開けた。そして振り返る。
「時知らずの身を失って、廸が生まれた頃に少しずつ自分の身体が弱っているのを感じました。無理もありますまい、数百年の時を経ているのです、死してもおかしくない怪我も何度もしました。その反撥が来たのでしょう。京都を立ち退く前に藩医の友野どのに診立てて貰いました。私の寿命はあと十年保てばよい方だと」
項垂れる容保の顔を覗きこみ、真紀はついと手を伸ばし、容保の頬に触れる。
「でも、容保どの。私はその時、本当にその時、強く思ったのです。死にたくない、まだ生きていたいと強く感じました」
真紀の親指が、容保の頬骨の上を辿るように動く。
「生きて、あなたの、子らの行く末を見届けたい。だから足掻こう、そう決めたのです」
友野脩法に勧められた補薬を朝晩煎じて飲むようになったのもその頃だ。出来ることは限られている。分かっているが、足掻こうと思っていた。だがそれでも真紀の時は限られ、かつて容保に言ったように共白髪までは無理だ。
「出来る限り生きたいのです」
「……ならば、腹の子は」
容保が絞り出すように言おうとした言葉は続かなかった。
真紀がそっと容保の唇に指を触れる。
僅かに触れるその指だけで容保の言葉を制して真紀が言う。
「この子は、授かりものです。これほど弱った私の身体に宿ってくれた。私の生きている証なのです。だから、私は生みたいのです。でも、出来る限り生きたい。それが矛盾と分かっていても、そうしたいのです。容保どの、これが我儘だと分かっていても、それが私の望みです」
真紀は容保の唇から指を外して、ゆっくりと容保を正面から抱きしめる。
「容保どの、ごめんなさい。こんな我儘な私で。許して下さい」
容保の胸の中から聞こえる真紀の言葉に、容保はこみ上げる熱い何かに喉を塞がれたように、応えることが出来ない。ただ、黙って真紀の身体を抱き寄せた。
「……ごめんなさい」
「……もう、謝らなくていい。謝ることではない」
涙が溢れるのもそのままに、容保は真紀の薄荷の匂いを感じながら、何とか言葉を絞り出す。
「そなたの望みを叶えてやるのが、我が望みと申した筈だ。謝るな」
身体を預けてくれる真紀の温もりが、涙を一層溢れさせる。一筋二筋と落ちる涙が、真紀の肩を濡らす。
「もう一つわしの望みがある。生きてくれ、真紀。時の許す限り、生きてくれ」
真紀は黙ったまま、小さく頷いた。




