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foundation  作者: なみさや
静穏
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会津へ





近年では恒例となった二条邸での蓮見の宴が行われた。ポンと幽かな音を響かせて開く淡い紅色の蓮の花を見つめながら、二条斉敬は呟くように言った。

「蓮は変わらんのう、何年経とうと、恐らく子や孫の代までこうやって咲くんやな」

「二条さま?」

常にないほど感傷的な斉敬の口調に容保は小首を傾げた。斉敬は小さく微笑んで、居住いを正して、声を上げた。

「皆々様に申し上げたき儀がある。わしは秋には首席宰相の座を降りて、隠居しようと考えておる。過日帝に奏上申し上げ、内々に御許し戴いた。ついては続く首席宰相を推挙せよと、帝から仰せがあった。誰かおらぬか」

静まり返った釣殿に、響くのは蓮の花の開花音。

「……然らば、それがしは」

最初に声を上げたのは、慶喜だった。ぐるりと一同を見渡して、

「それがしは、会津どのを御推挙申し上げる」

突然呼ばれた自分の名に、容保は一瞬呆けた。何故自分の名が呼ばれるのか、推挙とは何ぞ、何に推挙か、自分が次代の首席宰相にと、それも一橋さまが?

混乱する容保をよそに、慶喜は続ける。

「二条様には失礼なれど、均衡を取るためにも次代の首席宰相は公卿よりも武家、武家の中でも幕府で要職にあった者より、親藩出身が宜しかろう、何より会津どのは国防軍の軍制を斯様なまでにまとめられた実績が大きゅうございましょうな」

「うむ、会津どのならば帝並びに上皇さまの覚えも良い」

「今までの功績を鑑みても、当然やも」

賛同ばかりの声に、容保は慌てて声を上げた。

「お待ちください、首席宰相の大任、若輩のそれがしには勤まろう筈がありませぬ。それに御存知の通り、右手がこのような仕儀にては」

容保は恐る恐る右手を差し出す。一年前、中山忠如によって傷つけられた右手は当初は中指は何とか動かせるが、薬指と小指は全く動かなかった。傷の回復と、容保の努力もあってか、中指の動きは良くなったが、二本の指は今でもほとんど動かない。

「そのようなこと、些末に過ぎぬ。現に国防相の任を恙無(つつがな)く続けておられるではないか」

春嶽の言葉に容保は首を横に振って、

「それでなくともそれがし、近き内に国防相の任を御解き頂くよう、帝に奏上申し上げる心積もりでおりました」

容保の言葉に、一同に動揺が走った。

「な、何故に?」

「京都守護職拝命以来、それがしは九年に渡って京都に詰めて参りました。しかし国防軍が一通り定まった後に、会津にて暮らす所存にて、そろそろそのような時宜かと考えておりました」

「お主はまだ三十代半ば、陰遁するには早すぎるではないか!」

憤るような慶喜の口調に、容保は今度は静かに首を横に振って、

「国防軍には成長著しい若者が多く、この者達の大成こそ、国防軍の為になりましょう。それがしはこれまでの地位故に、国防相となったに過ぎませぬ。ですから」

「いいや、待たれよ待たれよ。ならば他の省に移られては」

「国防省一筋で参ったそれがしです。省を変われば下の者が苦心するだけでございます」

何とか言い募ろうとする慶喜の袖を引いたのは斉敬だった。

「一橋さん、待ちぃ。会津さん、おことが申すは、首席宰相に推された故か?」

「いいえ。観兵式の後には心に定めており申した。いずれの時か、身を引くと」

「……それは変えれんのか? おもとの歳で身を引くなど勿体ない」

「今でなくてはならぬのです。様々に理由はございます。ですが……」

容保は一同を見渡した。憤然たる表情の慶喜、唖然としている春嶽。判じかねた困惑の表情の容堂、久光、宗城、岩倉。

「今、それがしでないと出来ぬことは、ここではなく、会津にあるのです」

「……決意は、固いんやな」

「はい」

「判った」

「宰相どの!」

「いいや、一橋さん。この旨は帝に奏上申し上げた後に決めるとしようぞ。ここまで決意を固うしてあるものを、我等では止めることは叶わぬであろう故に」

まことに良いのやな。斉敬の言葉に、容保は再び頷いた。

蓮見の宴でそのような会話が成されたことを黒谷に帰って真紀に聞かせれば、真紀は心得たように頷いた。

「そうでございましたか。二条さまが御奏上下さると」

「一橋さまは帝がわしのことを手放す筈がないと、息巻いておられたが……さて、どうなることやら」

「大丈夫でございますよ」

おっとりと応えながら真紀は容保に羽織を着せかける。真紀がいつも身に付けている匂袋から、ふわりと拡がった薄荷の香りが容保の鼻をくすぐった。

「……随分と自信満々な言葉だな」

「そうですか? いいえ、帝ならば必ず容保どのの願い、聞き届けてくれるような気がするのですけれど?」

真紀は微笑んで、再び大丈夫でございますよと言った。

真紀の言葉通り、意外にも帝は首席宰相・二条斉敬と国防大臣・松平容保の退任を許した。奏上した二条斉敬には但し言があったと言う。老年に尽きという首席宰相の言葉を容れて退任を認める。しかし国防相はまだ若く、陰遁するには未だ早し。何れの時か、国防相の力が必要と成りし時は急度(きっと)、呼び戻す故に心得よとの帝の言葉を、二条斉敬から伝えられて、容保は頭を深々と下げてそれを承けた。帝がそこまで言及されたのであれば、と慶喜も渋々引き下がったと聞く。

「雪が降り始める前に、我らは会津に引き上げる」

久しぶりに黒谷本陣の広間に集められた会津出身者達はかつての主君の言葉に響動(どよ)めいた。続いて互いの顔を見合わせて、ひそひそと何かを囁き合い、広間は何時までも静まらない。

「これ、殿の御前であるぞ。静まらぬか」

田中土佐の言葉に、漸く静まった広間に再びの容保の声が響いた。

「まず、この黒谷は本来、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)から会津が借り上げて住まうことを許された地である故に、これからも黒谷に住まう者には早急に居宅を用意しよう。我等が引き上げる折には、金戒光明寺に全てをお返し申し上げて、立ち退くこととする。また政権に仕官せず、我らに仕えてくれた者の中で身内がある者は会津まで同行するが相応の謝礼を払う故にそれを以て、長の勤めを終わりとせよ」

「殿!」

側仕えの中から悲鳴のような呼び掛けに、容保は微笑みながら、

「そなたたちの気持ちは嬉しいが、政権に仕官したき旨あるならば、希望する省に推挙する。遠慮は不要、そなたたちの望み通りにいたせ」

隅に控えた側仕え達から嗚咽が漏れたが、容保の脇に控えていた真紀も声を上げた。

「右筆として仕えてくれた方々も同じです。家族の元にお帰りなさい。同じく相応の謝礼を考えています」

「御方さま、それは」

「登喜枝さん、これはもう決めたことなの」

真紀の穏やかな表情に右筆頭の登喜枝はそれ以上何も言わず、ただただ頭を下げた。

「長の勤め、まことに大儀であった……まことに有り難いことである」

容保の言葉に、一同平伏する。あちらこちらから聞こえた嗚咽は哀しみではなく、長く苦しかった京都での日々を思い起こしてのものだったろう。

「ようやく、会津に帰ることが出来る。廸に会津を見せてやることが叶った」

穏やかに微笑むかつての主君の様子に、一同はただただ平伏するしか出来なかった。





芳和三年九月、帝は徳川雅千代と絲姫を猶子(ゆうし)と迎え、それぞれに親王宣下と内親王宣下を与えると公布した。その養育を令徳上皇が担うこととなり、実母の静寛院宮と二人は仙洞御所に住まいを移すこととなった。

同時に公布された法度は帝室典範(ていしつてんぱん)と銘打たれ、帝や皇族の在り方を細かく規定し、中でも帝位継承順位を明確に示したが、その中に雅千代の名前はなく、帝の猶子で親王宣下を受けても帝位を継ぐことはないと、世に知らしめた。

帝室典範公布の翌日、首席宰相・二条斉敬が辞意を示し、帝はこれを公式に承認。続いて二条斉敬が推挙する一橋慶喜を第二代首席宰相として任命、組閣を命じた。そしてその十日後、ようやく市井に広まり始めた新聞の一面を飾った組閣人事の記事の中に松平容保の名はなく、国防相には弟・桑名定敬が名を連ね、海軍局局長は変わらず勝海舟、陸軍局局長には新たに西郷吉之助が就いた。

何故に松平容保は、国防大臣から離れたのか。新聞は様々に書き立てたが、真相については何も語られぬまま、会津松平家は黒谷を離れ、会津に向かったのが翌月。

やがて新聞は迫り来る評議員選挙に目を向け始め、下野した元国防大臣など忘れたかのように語ることを止めた。






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