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foundation  作者: なみさや
静穏
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紡がれる時




夏が始まる頃、京都に吉報が届いた。

神戸の英国領事が外務大臣・松平春嶽に面会を求めた。何事かと警戒する春嶽に領事が満面の笑みで渡したのは、二通の書簡。一通は仰々しく飾り立てられたもので、もう一通は簡素だが長い文章が添えられていた。

「我等が女王陛下より貴国の帝への即位の御祝いを申し上げる書状と、本国政府より滞っている損害賠償の交渉再開を望む書状です、お受け取り下さい」

あれほど高圧的だった領事の丁寧な物言いに、春嶽は驚きを通り越して呆気に取られたという。

兎に角、完全に滞っていた民間商船への損害賠償は外務省が幕府に代わって行い、秋口には日本・英国両政府の同意が整い、妥当な損害賠償額が商船会社に渡ったという。

同じ頃、法務省が、国の礎とするべき定法の骨子がまとまったとして、帝に奏上、帝もこれを良しとして、この定法を憲法と名付け、出来次第発布すると表明した。

また政治府より、評議府に参与する者を国の民から須く募りたいとの奏上にも帝は賛意を示したため、政治府は勅命として、評議府に参与する者を一定条件を満たす民から自薦他薦問わず選び、この候補者を評議府に参与させるに相応しいか否かを、民に選ばせる仕組みを公表した。準備には相当の時間がかかるため、評議府の『評議員選挙』は三年後となることも、合わせて公表されたのだが、大臣との兼任であっても立候補してはどうかと修理が問えば、容保は首を横に振った。

「わしは国防省だけで手一杯だ。それぞれの家中で相応しき者を出せというものでもあるまい。しかし、我こそはという者が家中にあるならば、構わぬ。出させてやるがよい」

「しかしそうなれば、その者が殿に尊大な態度を取りはせぬか、という声が家中にありやすが」

「尊大? 士農工商の別隔(わけへだて)はなくなるのだ。ならば、わしとそなたも藩主と家老という家の上下もない」

あっさりと告げられて、修理は面食らう。

「されど殿」

「わしとそなたにあるのは国防相と、その副官という役目の違いのみであろうが」

そう言われれば修理には返す言葉もない。そんな修理の様子を容保が語れば、真紀は楽しそうに笑った。

「無理もありますまい、長き時をかけて築かれた関係です。身体の隅々まで染み込んでいるのですよ、誰しもが身分の上下がなくなる意味を理解するのは暫くの時がかかります」

容保のような考え方が出来る者などまだ希だろうと真紀が告げれば、容保は小首を傾げる。

「そういうものか」

「家中でも混乱しましょう。時はあるのですから、身分の上下無きこと、ゆっくり慣れさせてやればよいのでは?」

ゆっくりと散策の足を進める真紀の横を歩きながら、容保は小さく頷いた。

「風が涼しくなってきたな」

「間もなく冬が来ますね、今年の冬は雪が少なければよいですね」

去年の会津は雪で難儀しましたから。

そういう真紀の足元はゆっくりだが、夏に感じていた頼りなさは消えていた。

夏になった頃にようやく真紀は床を上げた。脇腹に受けた傷はかなりの深手で、床での動けぬ日々が真紀の体力を削いでいたのだろう、秋半ばの最近になってようやく真紀は常の生活を営めるほどに回復していた。

「身体を冷やしてはならぬ、一枚羽織らぬか」

「いいえ、そこまでは」

真紀が言っても容保は自分の羽織を脱いで着せる。

「よいというのに」

「何か言ったか」

「いいえ、何も」

それ以上は何も問わず、容保は切り出した。

「そう言えば、今朝頼母からの文が届いていたな。穣太郎は楽しそうに過ごしておるようだ。そなたへの文を同封してあった」

懐から真紀宛の書状を取り出せば、真紀は微笑んだ。

穣太郎が里帰りを兼ねた右筆たちに囲まれて会濤丸に乗り込み、会津に向かったのは秋の始め。容保が穣太郎の国許披露も兼ねて会津に向かわせた。冬の間を鶴ヶ城で過ごし、雪が解ける頃に京都に帰ってくる予定だ。

「楽しげだな」

穣太郎の拙い書状を読む真紀に、容保は穏やかに言う。真紀は書状から目を上げないまま、

「会津に向かわせてようございました。家中の者がよくやってくれているようです」

「頼母が色々と取り回しくれているようだな。そう言えば、わしが初めて入国した折りも、頼母の父・近思によく取り回して貰った」

懐かしむ声に真紀はようやく顔を上げて、容保に微笑みかける。

「容保どの、懐かしゅうございますか?」

「あの頃は辛いだけの日々と思うていたが、そうではなかった。今はそう思う」

容保は穏やかに言って、

「真紀」

「はい?」

「わしは大臣の任を解かれたら、会津に戻ろうと思う。いや、今すぐではない。ないが、いずれは会津に腰を落ち着けたい。何時になるか分からぬが、その時は」

「勿論参りますよ、私も」

間髪置かず、しかし穏やかに返ってきた真紀の応えに容保は苦笑する。

「何時になるやらな」

「ええ、ですが容保どのの今後の入国は、嘗ての入国とは違うやも知れませぬ……世は新しくなったのですから」

真紀の言葉に何かひっかかるものを感じたが、容保はあえて問わず、ただ小さく頷いた。





芳和二年の春は長かった冬に押されてか、幾分短めだったが、京都を取り囲む山は一斉に桜花の色に染まった。黒谷はそのほとんどが竹林であるために春の訪れは目に見えて感じるものではなかったけれど、一本だけ植えられた桜の古木の下で、容保は家中だけで花見の宴を催した。数日前に帰ってきた穣太郎も加わって賑やかな宴となった。

「黒谷に桜があるなど、知りませんでした。もう何年もここに住んでいるのに」

「それだけ忙しなく立ち働いているからな。致し方あるまい」

宴が終わり本陣までの帰り道、容保は最近はすっかり常となった真紀と二人だけの散策をどうか問えば、真紀は頷いて従った。足元には珀と、一昨年珀が生んだ虎毛の雄と茶毛の雌がついてくる。真紀は二匹に寅と茶乃(さの)と名付けていた。やんちゃ盛りの寅と茶乃はじゃれあいながら時折姿を消す。そうなると珀は一声鳴いて、二匹を呼び戻す。だがまたすぐ二匹は姿を消すのだ。

「珀、お母さんは大変ねえ?」

苦笑しながらの真紀の言葉に、珀は理解したかのように尻尾をふって甘く鳴いた。真紀は珀の喉元を撫でてやれば、珀の巻尾は一層激しく振られる。

容保はさきほどから気にかかっていたことを口にする。

「それはそうと、真紀。身体の調子が悪いのか?」

「え?」

「先程、酒を飲まなかったであろう?」

身体が回復して以降、真紀は容保の晩酌に付き合うことが多かった。ここのところ忙しく、黒谷への帰宅が遅くなり、夕餉もそそくさと済ませることが増えたので、晩酌することも少なかった。今日は久しぶりに真紀と飲めると思って杯を勧めたものの、いつもの微笑みでやんわりと今日は止めておきますと断られたのだ。

「ああ、それはですね」

そこまではさらりと言ったのに、何やら口ごもる様子に、容保は眉をしかめる。

「なんだ、調子が悪ければ無理をするなと何度も言っておるのに」

「いいえ、具合が良くないわけではなく、勿論病でもなく、その」

「なんだ」

「……子が出来たようなのです」

「そうか、子が……なに?」

容保は告げられた言葉を一瞬理解が追い付かず、瞠目して真紀を見ること数瞬。

「子が、出来た?」

「ええ」

「そなたに、わしの子が?」

「他に思い当たる節でもあるのですか?」

悪戯っぽく問われて、容保は慌てて首を横に振る。

「そうか、子が」

「医師に見てもらわなくてはなりませぬが、恐らく来年には家族がもう一人増えているでしょうね」

「そうか、そうか。子が出来たのか」

「容保どの……先程からそれしか申されていませんよ」

「いや、済まぬ。子は、その、そなたには悪いが授からぬと思うていたのだ。事実、穣太郎を養子に迎える話もそれ故出た話だったからな」

真紀は数度頷きながら、

「私もそのように思うておりました。しかし、時知らずの身を失うたことに気づいて暫く後に、月のものが始まったのですよ。少し前にそれがなくなったので、まさかと思うていたのですが」

しかしと真紀は言葉を紡ぐ。

「容保どの、この子が生まれ、そして男子であったとしても、長子は穣太郎です。確かに腹を痛めて成した子ではありませぬが、我が子と思い育てて参った穣太郎を、よもや里に帰すなど仰られまい。違いますか?」

「無論だ。穣太郎は我が子だ。そう思って参った。そなたの懐妊が知れようとも、家中の者、それに穣太郎が動じることがないように心砕いてやらねばな」

一瞬険しかった容保の表情はすぐに崩れ、次の瞬間、真紀を抱き締めた。

「な、何を!」

「でかした、真紀! でかしたぞ!」

「ちょっ、容保どの、無体はなりませぬ!」

その勢いで抱えあげようとした容保を慌てて止める真紀の言葉に、容保は今度は慎重に真紀の身体を地面に下ろした。

「容保どの」

「……済まぬ、思わず舞い上がってしもうた」

「……散策ぐらいはお付き合いしますよ、産み月まで大丈夫ですから」

真紀の穏やかな微笑みを見て、容保は胸の中にじんわりと暖かな何かが広がるのを感じながら、満面の笑みを浮かべた。





その年の暮れ、真紀は女子を生んだ。陣痛に一昼夜苦しんだが、生まれてきた子は次の間でまだかまだかと気を揉む容保の耳に届く程の大きな産声を上げた。年明けには命名式が行われ、『(みち)』と名付けられた女子は容保の幾分琥珀に見える目の色と、真紀の大きく見える目の様子を受け継いだようで、賑やかな宴の様子を何事かと見つめていた。

「殿、御方さま、迪姫さま御誕生、まことにおめでとうございやす」

深々と頭を下げた内蔵助は、頭を上げて相好を崩す。

「なんとまあ、めんこい姫ぎみだんべ。顔は殿によく似ておいでだ。口許は御方さまでごぜえやすな。この爺、会津によき土産話が出来やした」

内蔵助の隠居は去年半ばに本人の希望で決まっていた。雪解ければ内蔵助は江戸を経由して会津に戻ることになる。しかし年を越して、ある事態が動き始めた為に内蔵助の帰郷は隠居の為だけでなく、容保の命を帯びてのものとなっていた。

「難しいお役目となるやもしれやせぬが、必ずや果してみせやす」

これが最後のお勤めになるやもと言いながら、内蔵助は呵々と笑う。

「寂しいことを言うでない。迪がいずれ会津に参った時にそなたが顔を見ねば、迪が如何ほどに育ったか、見えぬであろう?」

「これはこれは、気の長いお話で。そうでごぜえやすな、会津で迪姫さまのお出でをお待ちせねば」

年の暮れ、政治府の一同は悩んでいた。

切っ掛けは財務大臣の岩倉が言い出したことだった。

『金がないんや』

それは今に始まったことではない、慢性的な財源不足は政権発足当初からの問題だった。発足に先立ち、徳川宗家が維持難しを名分としてその御料地のほとんどを帝に献上したお陰で、幾分かは持ち直したが、それでも新たな政権とは何かと物要りで、岩倉はあれやこれやと頭を(ひね)っていたのだが、

『どうにもこうにもあかん、民から租税を取ることも検討した方がえいやもしれなぁ』

『しかし租税と言っても、何に税をかけるのです?』

『地租や。所有する者から税を取るんや。名分上はこの国は帝のものや。なら、賃貸してると考えたら、地税という名の賃貸料を払うのは当然やろ』

岩倉の言葉にその場の全員が言葉を失う。土地を持つ者から須く地税を取る。当たり前のことだ、だがその為には日本全ての土地が誰の所有か明らかにせねばならない。膨大な数だと誰かが指摘すれば、岩倉は肩を竦めて、

『簡単にできることやないことは、うちにも判る。けど、そんな時の為にも各々の家があるやろ。幕府にどこどこの家はこれこれの土地を与えるからこれだけの石高やって記したもんが残ってるんやないか? それを参考に境を正確に定めて、その中は各々の家の仕事や。誰がどれくらいの土地を所有してるんやて、判るやろ』

その話を容保から聞いて、まだ産褥の床にあった真紀が言った。

『税をとる為に土地の所有者を定めるのは二の次がよいのでは?』

『……それはつまり、何を一とするのだ?』

『今までは各家が幕府より与えられし領地を治めてきました。しかし幕府がなくなり、帝が唯一無二の統治者であると宣言された以上、各家が領地を治める権限が無くなったことは、混乱を招かぬように未だ明らかにされていないだけです。ですがいずれは明らかにされるでしょう。政権が京都を中心に展開されていくことになるなら、政権の手足となる番所のような機関が地方に必要になります。その機関に各家の統治権が委譲されるでしょう。ならば』

『先手を打つのか。そうすれば混乱は出来うる限り抑えられる』

容保の言葉に、臥せたままの真紀は頷いた。その枕元で、生まれたばかりの迪が手足をバタバタと動かすのを見ながら、しかし容保の表情は晴れない。

『だがそのまま委譲すれば、会津家中はどう考えても混乱する。会津二十三万石、全てがなくなれば家中の者達は先立つものがないまま、放り出すことになりはせぬか』

『ならば、打てる策は一つだけです。しかし、岩倉さまがそれでよいと仰るかどうかは判りませぬよ?』

『なんだ、その策とは』

真紀が迪をあやしながら語った策に、容保は瞠目する。

『いや、しかし……だがそれは一利ある』

『人によって見方は代わりましょうが、会津なら、容保どのならそうしてもおかしくはないでしょう?』

「さて、家中はどう思うかだが」

桜の蕾が綻び始めた頃に、内蔵助は旅立っていた。





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