つながる恐怖
「真紀!」
強い呼び掛けに、真紀はゆっくりと目を開いた。
目に飛び込んで来たのは、濡れた双眸の容保の顔。真紀は微笑もうとして、不意に沸き上がった激痛に顔を歪める。声を出そうとすれば、嗄れた声が僅かに出た。
「かた、もりどの」
「良かった、本当に良かった……」
ポロリポロリと涙を溢しながら、容保は真紀の頬を撫でる。その常にない感触に真紀が目をやれば、分厚い包帯に覆われた容保の右手が見えた。容保がいそいそと真紀の身体を起こし、水椀を差し出し、真紀はそれを一気に飲んで一息ついて、
「……容保どの、お手をどうされました?」
喜色満面だった容保の顔が曇る。
「真紀、そなたの方が遥かに深手だったのだぞ、わしの手の心配など、後でもよかろうが」
「……どれほど眠っていたのですか?」
「騒ぎがあってから、今日で四日だ。傷も深いがそれよりもそなたが目覚めぬことの方が問題だ、今日までに起きずば覚悟せよと医師に言われた」
ムスリと応える容保に、真紀は素直に謝って、
「長年身に付いた性ですね、あれほど容保どのに身体をいとえと言われておりましたのに」
苦い薬を飲まされ、促されて真紀が横になった時、ドタバタと足音が響き、穣太郎が駆け込んで来る。
「母上、母上!」
「穣太郎、無事でしたか」
「母上ぇ……」
その先は涙の所為か、言葉にならない。真紀が伸ばした手を握り、穣太郎はしゃくりあげながら滂沱と涙にくれる。
「それほど泣いては目が溶けますよ、穣太郎。それよりもそなたを迎えに行けなんだことを謝らねば」
「え?」
「迎えに行くと約束したでしょう?」
「母上」
ちらりと見上げた容保の表情に真紀はもう一度謝る。容保は溜め息を落とし、
「まったく、そなたはいつまで経ってもそなただな」
真紀が目覚めた知らせを受けた医師の診立てはとりあえずの峠を越した、脇腹の傷も塞がり始めている、後はとにかく養生だと告げられて、容保は心底からの溜め息を吐いた。
しかしもう少し休ませたかった真紀に促されて、御所での騒ぎの仔細を語ることになった。
「そうですか、帝が御決意下されたのですね。」
「昨夜遅くに尹宮が御出になり、上皇様が御所に参られた折の話を聞かせて下された。あの折、届けられた菊花紋の御旗印は、そなたが嘗て上皇様に乞うたものだったのだな」
上皇によって出された院宣は、騒ぎが起きてからでも出せるものだ。だが菊花紋の御旗印はすぐに用意できるものではない。帝も不思議に感じていたらしく、御所を訪うた上皇に仔細を問えば、上皇は何一つ隠すことなく全てを帝に教えたのだという。御旗印についての一件は尹宮も承知のことだったから、『そなたの側室の成せることぞ』と前置いて、容保に全て語った。
「一度は返上申し上げたものです、まことはお願いすべきではないと思ったのですが、火急の事態でしたから」
『会津どのは無論、右近の桜について存知ておろうな?』
宮の問いに容保は数度瞬いて、勿論知っていると応えたが、ニヤリと笑った宮の言葉に小首を傾げた。
『ならば嘗て一柳が右近の桜に自らの名を刻んだことは?』
『真紀が? 如何なる仕儀で』
『そうか、語っておらぬか。遥か昔、後陽成帝の御代と聞き及ぶが、帝の病篤く、これを本復成らしめた者が、帝に褒美を望めと言われても何も望まず、いずれの時か望みを言うと言って姿を消したそうじゃ。右近の桜の陰に真の一字を刻んでな。代々の帝はそれを口伝されてきたと聞く』
想像もつかぬほど昔の話に、容保は呆気に取られる。しかし何か重要な点を見落としていることに気づいて、どう言えば良いか言葉を選ぶために、宮を見つめてそれから近くの畳縁を見て、
『それは』
『上皇様と我は、一柳が長き時を生きて参ったことを知っておるんや。それに今やその力を失のうたこともや』
宮の答えが、容保の危惧を言い当てる。
会津家中以外で、真紀の身体の秘密を知る者はいないと、思っていた。瞠目する容保に宮が重ねて言う。
『一柳を責めるな、会津どの。一柳は長き時を老いもせず生きて参ったことを明かさん限りは、帝は右近の桜に刻まれた薬師であったことを信じることは叶わんかったやろうし、一柳も望みのものを願い出ることも叶わんかったやろ?』
『………その通りでございますな』
『元々知己であった我に、一柳は帝に謁見を申し出た。それが如何なる理由であるか、我はその時聞いたんや。魂消たことよ、まこと不老不死なる者がおるやとは思いも至らなんだ。帝に、つまり上皇様に奏上申し上げたら、すぐにお許しが出た。その時、一柳は嘗ての褒美の品として菊花紋の御旗印を望んだんや。それも自分へやない、会津に、松平容保に下賜あれかし、とな』
突然出た自分の名前に容保は再び瞠目する。宮は言葉を続けた。
『何故かと上皇様が問えば、一柳は理路整然と応えたわ。京都守護職拝命の折、会津に下された拝命書には権能並びに任限が記されていた。なのに拝命書の読み上げの時、意図的に任限が読まれなかった。これが単なる杞憂ならば良いが、幕閣を初めとした者達によって会津難儀につきとされ、帝に対する賊物とされることを何より怖れる。その為に任限が必要であった。それが幕府によって示されないのであらば、帝によって形あるもので示して欲しい。それが菊花紋の御旗印であったんや』
だが菊花紋の御旗印は使われることはなく、会津も国賊とされることもなかった。新たな政が始まることが定まった頃、真紀は御旗印を帝に返した。だが帝はそれを捨てずに自分が持つと真紀に言った。
『これは既にそなたに与えたものや。どうするかは余の決めることやない、一柳が決めることや。必要な折あらば、いつでも言うて来るがよい。そなたに言われずとも今まで余を支えてくれた会津を見捨てる気ぃなど、余には無い』
御旗印は漆塗りの小箱に納められ、御常御殿に、譲位されてからは仙洞御所で眠り続けた。此度の騒ぎで真紀が望むまでは。
「それと、今朝のことだが中山忠如が自害した」
「自害、ですか」
「牢屋の梁に帯を巻いて、縊死したそうだ。連日の詮議には素直に応えていたというから、本人は全てを語った故の自死であろうが」
遺体は近い内に中山家に還されるという。真紀は小さく溜め息をついて、
「事成らずば、死あるのみという結論でしょうか。最期まで身勝手な御仁でしたね」
真紀の言葉に容保は苦笑するしかない。だが息子の死を伝えた中山卿の憔悴した様子には憐れを感じたことを言えば、真紀は小さく頷いて、
「中山卿はご子息が斯様なことを画策していたことなど露も知らなかったでしょうね」
騒ぎの三日前、忠如はふらりと中山邸に姿を見せたという。死んだはずの息子の帰還に父は喜んだが、忠如に口止めされ誰にも言わずに、ただ面窶れ、言動の怪しい息子に不審を感じながら騒ぎの日を迎えた。参内していた中山卿は物々しく御所に押し掛けた一団の先鋒に息子の姿を見つけて止めようとしたが、結果的に中山卿がそばにいることで誰何されることもなく小御所まで辿り着いてしまったのだという。帝に勅命を迫る忠如の横で力弱くではあったが、止めようと声を上げる中山卿の姿は容保も見ている。しかし歌舞音曲を道として生きてきた穏和な初老の男には、止めるだけの胆力も、その術も持ち合わせていなかった。
中山卿の大逆を問う声も上がったが、中山卿が謹慎・蟄居を自らに科したため、なし崩しに声は鎮まった。父に続いて典侍の中山慶子も仙洞御所を下がろうとしたが、上皇が及ばずと留めたと聞く。
「しかし、内部抗争で既に瓦解間近であったとはな」
「私が名前を上げていた三名は如何なったのですか?」
「溝渕喬太郎、薩摩藩士・真井昭行、福井藩士・松添勘兵衛は内部抗争で粛清されたそうだ。土佐藩士・溝渕喬太郎は同じく粛清の対象だったが、中山忠如が留めたようだ。長州での命の恩人とやららしいが……右手を切り落とされて、傷も治らぬうちの騒ぎで参加も出来なんだ。結局隠れ家で自害しておるのを京都守備隊が見つけたとのことだ」
多数の穏健派を粛清し、幽霊の首領的存在となった中山忠如は恐らく幽霊達にとっては畏怖すべき存在だったのだろう。狂気にも似たその主張は、しかし反意を示すにも命を賭さねばならず、自ら望んで全てを擲った幽霊達は、只管に隠遁し続けたその時の間に当初の意気を萎えさせて、狂気に満ちた高圧的な首領に唯々諾々と随うことを選んだ。
中山忠如は、恐らくその状況に気づいていたのだ。詮議で言ったという。
『我に皆随えども、自ら動くことはなかった。当初の予定では即位の礼が行われし夜に帝に奏上申し上げる筈であったが、それも叶わず。よって観兵式の夜と定めて、これ必至と粉骨して、時に挑んだのや』
違う幽霊は語っている。
『中山どのは何がなんでも観兵式の夜に、御所に奏上申し上げる。これ叶わざる時は、一同うち揃って腹を召されよ。これを以て帝に奏上とする故に、お覚悟以て事に当たれと言われた。我等元より朝廷が示された攘夷行うべしと参集せし者共なれど、叶わず腹を召せとは不本意故に取り急ぎ形を整え、御所に参った次第』
「……会津は君臣一体とよく言われました。それは容保どのがよく家臣の声を聞き、家臣たちも容保どのの為ならばと喜んで働く上下関係が出来上がっていたからです。ですが、中山どのは最もならぬ上下関係を築いたのですね」
真紀の言葉に、容保は小首を傾げた。
「最もならぬ、とは?」
「恐怖に基づいた上下関係は時に強いものですが、ほとんどの場合脆く、簡単に崩れ去ります。二月保ったのは、賊一党が名も身分も全て棄てた幽霊という閉じられた中にいたからでしょうね」
憐れだ、という真紀の僅かに漏れた呟きを、容保はあえて問わなかった。
その呟きが誰に対しての呟きだったのか、聞かぬ方がよい気がしたからだ。真紀は一つ溜め息を落として、目を閉じた。
「少し、眠ります」
「ああ」
布団を肩までかけてやると、目を閉じたままで真紀が言う。
「容保どの」
「ん?」
「此のようなこと、もう起きねば良いのですが」
「うむ。その為に、早く国をまとめねばならぬな」




