黒紅の小袖
なぜ自分がここにいるのか。
ずっと考え続けている。
眠りについたのは、自分の部屋で。
目覚めれば、浜に打ち上げられていた。
偶然に拾い上げた男が、『史実で知っている』織田信長であると気付いた時の驚愕。
自分の世界ではない、世界に放り出されたと理解した時の恐怖。
信長に気に入られ、真紀の世界なら普通の知識であるものを吐露すれば他人に神のように讃えられた。だが刀傷を受けてもすぐに治癒する身体は、否、何年経ようとも歳一つとることのない身体は、長居すればするほど常人に厭われることもすぐに理解した。
生きることに飽いていたのだろうか。
自分の世界に『帰る方法』を探して彷徨って。
おそらくはもっとも恐れていた応えを見つけた。
それは、ただ数百年の時を生きて、『自分の世界』が近づくのを待つ、という気が狂いそうな時間を過ごさなくてはならぬのだと、思い始めた頃に。
託された、赤子だった。
ほんの気まぐれで、引き受けて。
すぐに気付いた。
『保科正之』だと。
乳飲み子の頃はずっとつきっきりで。
保科家に養子として引き取られてからは少しずつ足を遠ざけた。そうすることが養家に早く馴染むだろうと思ったからだ。
だが、『保科正之』はその存在自体が真紀の心の拠り所になった。
訪れるたび、乳飲み子は幼子になり、青年になり。
将軍の弟として名乗りをあげて、会津二十三万石の領主となった頃、真紀は不意に恐怖に襲われた。
みんな、死ぬ。
人はすべからく、死ぬのだ。
自分だけが、なぜか時知らずの身を持つけれど、真紀の知己はみな、死んだ。
なぜ、正之だけがそうではないと思っていたのか。
あまりにも長く、共にありすぎたからなのか。
病床に臥せる正之に、今までの知己とは違うと告げた。
それが恋と呼べるものではないと、真紀は思う。
近い言葉があるならば、執着。
おそらく、正之はそれを知っていた。
まるで渡り鳥のように彷徨う真紀の心の拠り所が、自分であることを知っていた。
真紀が時知らずの身であることを告白した時、数刻黙然と長考し続けたのは、きっと。
自分が逝ったあとの、真紀の拠り所をここ『会津』に定めてやろうと思っていたのかもしれない。
自分の思いが醸されて、会津には厳しい道を選ぶことになると告げた時。
正之は、それでも会津は守護者たるべしと、その会津を見守ることで真紀の拠り所を与えてくれたのだと思う。
満月の下、そぼ降る雪を見ながら、正之は逝った。
その痩躯を、小さくなった身体を抱きしめて、真紀は泣いた。
だが、正之の思いだけは受け止めたい。
そう思った。
振り返って見る満月は、正之が逝ったあの日、もう七十年以上経ても同じく会津の空にある。
「諸国を放浪なされているとはまことでごぜえましたか」
田中玄随の言葉に、真紀は頷いた。
「西国はなかなか海産物を特産物として江戸に送ることに長けてきている。会津も米ばかりに頼るのではなく、土津公由来の御禁制を発展させてみてはどうですか」
「ふ~む、なかなか冬が長い土地柄したがら、厳しいとは思えっけど」
「日新館ではそういった研究をするものはおらぬので?」
会津藩校である日新館は、藩士の教育を一手に引き受けているため、研究者がいるならばそこだろう。田中はうむうむと数回首肯して、
「確かに。何か出来ることがねぇか、日新館に問うてみっぺ」
「ええ。それはそうと、容貞どのは御達者か? 先ごろ、流行り病に倒れたという風聞をお聞きしたけれど」
「お聞きおよびでしたか。性質の悪い風邪の御様子で、熱は引かれたものの、喘鳴が発作のように起こると、気を失われるとか」
「なるほど……蒲柳の質は未だ持ってしてですか」
正之も成人するまでは蒲柳の質だった。
正之の息子たちも加冠まで生き延びたのはたったの四人。
もっとも長生きした二代藩主・正経ですら三十代半ばで逝去し、末弟の正容が養嗣子となって跡を襲ったが、これも二十代半ばで逝去している。現在は四代当主容貞が江戸にいるが、決して病状は好転しないようだ。
「お世継ぎは?」
「亀之助さまと申し上げ、しかし御健勝に御育ちの由」
「それはよかった」
心底安堵のため息を吐いて、真紀は笑んだ。
「では明日、土津神社へ参詣がすめば、私はその足でお暇しましょう」
「そったらこつ! もう少し、お出でてくんなんしょ」
「いいえ。またいずれ参りましょう。その時は」
真紀は欄間の桜枝丸紋を見上げて言った。
「ここは必要ありません。手入れに時間と費用がかかるでしょう。城内にどこぞ部屋を間借りしてもかまいませぬゆえに」
「いえ」
田中は勢いよく平伏して言う。
「恐れながら! 土津公におかれましては、万喜御殿を常に手入れし、万喜の御方がいつ訪なわれてもええように準備怠りなきようと遺訓されております!」
「……遺訓、ですか」
「はい!」
「わかりました。ですが、用意いただけるものは、もっと質素に。こちらが面映ゆく使いこなせませぬ。それだけは留意いただきたい」
「かしこまりました」
翌朝、参詣用にと用意された小袖に真紀は満面の笑みを浮かべた。
「素敵な、小袖ね」
「ありがとなんし」
千世が真紀に平伏する。
「前回、せっかくのお言葉をいただきながら、こたびに活かすことできねがったこと、申し訳なんし」
「いいのですよ。次の訪ないがいつになるかはわかりませんが、心に留めておいてください」
「はい」
用意された小袖は黒紅に染められた会津木綿。意匠の刺繍として桜が二枝。
真紀にはそれで十分だった。
騎乗すれば、供も少なく、真紀は満足そうに見送りの田中に頭を下げた。
「では、田中どの。またいずれ」
「はい。お待ちしてがんす」
「あん御方は、時知らずの身なんだよ」
真咲の言葉の意を理解できず、千世と伊都は顔を見合わせた。
「時知らず、とは」
「その名の通りでがんす。前回の訪ないの時と、お姿は何一つ変わっておられぬ」
「え」
「十五年になるかの」
「え……」
真咲は微笑んで。
「土津公五十年祭の折にお立ちよりになられた時も、あの御姿であったと先の祐筆頭さまにお聞きしたが。もとは土津公の育ての母御のような御方と聞いておりやす」
少なくとも百年という時を、生きていることになる。
千世は言葉を失った。
「ずっと、会津を気にかけてくれていらっしゃる。会津の、現人神やもしれぬの」
畏れ多いことだけんじょ。
真咲の言葉を、千世は茫然と聞いていた。




