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foundation  作者: なみさや
禍乱
69/81

下された勅語




容保は、ただ座していた。

それは福井春嶽、島津久光、山内容堂も同じで、囚われの身とは言え縄をかけられることもないが、参与合議の場に留められて既にどれほど経ったのかすら、分からなくなっていた。白湯や茶菓子も申し訳程度に饗されるが、誰一人として手をつけず、とは言え厠を所望すれば許されるが、見張りがつく。会話は許されず、二人の見張りが抜き身の刀をこれ見よがしに持ったまま、五人を無言で見つめ続けている。

聞こえるのは、御簾の向こうで声高に勅命を望む首謀者らしき男の声と、それを留めようとする中山卿の声、時折応える帝の若い声だけだった。

「何ゆえお分かり頂けぬのか」

「忠如、これ以上の無体は許されぬ。このまま引き下がれ、帝の御前を汚すでない」

「父上、この場にいることで父上も我等と一蓮托生にござりますぞ、我等を責め立てるのではなく、帝の勅命を望まれよ。したらば我等は官軍、そこに控えし国賊を征討できるのですよ」

既に御簾に中山卿と首謀者らしき男が入り込んで数時間。中山卿の声には既に疲れが見え、応える帝の声も小さくなっていた。

「ならぬ。朕はそのような勅命は出さぬ」

「何ゆえでござりまするか。あれに控えし者共は国体を揺るがす愚かしい政を帝に強いてござるのですぞ、強き国を作るという御題目を振りかざしながら、下々の者に辛酸を舐めさせております。それがしは下野し、様々な声を聞き、様々なものを見ました。しかし、皆、声を揃えて申します、昔は良かったと」

朗々と自らの思いを語り上げる男の声は、自らの思いに酔っているようで、容保は内心だけで溜め息を落とす。ここ数時間、男の御簾越しの話を聞いてきた。男の話だけを聞けば、理路整然としていて、如何に自分達が正しく、勅命を下すに相応しいか解りやすく説いているように聞こえる。だがその話をすることは即ち、御所に乱入し、自分達を軟禁し、その軟禁の事実を帝に見せつけながらの脅迫の中で行われていることを無視していることを男は敢えて口にしない。

中山忠如。

そんな人間がいたことを軟禁されている全員が忘れていた。

中山卿の八男で、攘夷の理想に燃えた激派の公卿。兄の忠光と共に攘夷を唱えた長州に身を置き、しかし宥和を目指した長州で暗殺されたことまでは知っていた。だが彼までも『幽霊』であったとは。

容保は(ほぞ)を噛む思いで男の陶酔したような声を聞かざるを得なかった。

「ならぬ、叔父君と言えども勅命はならぬ。上皇さまが推し進めて来られた新たな政権を、朕の手で壊すわけにはいかぬ」

「帝、まだ御目が覚めませぬか。上皇様は間違われたのです、幕府やあの者たちに信頼を寄せられた為に、真が見えなかったのでござりますよ」

その時、御簾越しの中山忠如が呼ぶ。

「会津どの、此方へ」

帝ではなく、忠如の呼び出しに応えてよいか一瞬迷った容保だったが、見張りの男が首を振って横柄に促したので、作法に則り膝行し、御簾の前で平伏する。

「会津どの、嘘偽りなく帝の御前で御応えなされよ。上皇様の信頼篤いと聞く。どのような所業にて御寵愛を享けたので?」

平伏したまま、容保は一瞬言葉に迷い、しかし顔を上げて応えた。

「どのような所業かと問われる意味が判りかねますが、我等会津は先の公方様より一心に帝にお仕えし、都を安寧にせよと守護職を仰せつかり、そのお言葉のままにお仕えして参っただけにございます」

「手本のような応えよの。しからば蛤門の折りもそうと言い切れるのかや」

するすると御簾が上げられ、座する帝と中山卿、忠如の姿が見えた。容保は力強く頷く。

「したり」

「上皇様は元々攘夷を御望みであられた。しかしいつの頃からか、攘夷宿望を口にされなくなった。攘夷の妨碍(ぼうがい)であった将軍が大政権奉還を願い出た折りですら、攘夷を望まれなんだ。真、良き時宜であったにも関わらず。そなたら国事参与が何ぞ画策した故に、上皇様は御本意を曲げられたのではあるまいか」

直垂姿の忠如は容保よりもかなり若い。若い筈だが痩躯の所為か、その眼光は鋭く見える。容保はその眼光を臆することなく真っ直ぐに見つめ返して、

「それがしを始め、国事参与が上皇様の御意向を損ねるような振舞いをしたとは思いませぬ。上皇様は仰せでございました。この日の本が如何に異国に侮られぬ国にするか、それこそが朕にとっての攘夷であると」

『国を上げて異国の船を打掃することは容易(たやす)かろう。しかし、異国の(つよ)さに(おのの)く前に、我が日の本を勁くまとめ、異国に誇示することこそ、攘夷であると朕は望む』

上皇がそう言ったのは、先の将軍・家茂が大政権奉還を奏上した頃だ。国事参与達はその言葉を聞いて、上皇の意向が異国の国外退去ではなく日本の国力を上げ、それを世界に誇示するところにあると理解したのだ。

忠如は口の端に笑みを浮かべて、

「左様な言い様、如何様(いかよう)にも出来よう。そなたらが望むように解釈しただけであろうに。あれほど攘夷を望まれた上皇様であられたのに、惨いことであられる。それ故に、神の末裔であられるのに毒を饗されることになるとは、何ともお気の毒なことよ」

「毒やと!」

真っ先に声を上げたのは中山卿、帝も驚いた面持ちで忠如と容保を見つめている。次の間に控えさせられている三名も思わず腰を浮かす。容保も思わぬ言葉に動揺しかけるが、忠如を睨み付けることで(こら)えた。

「た、忠如、そは如何なることぞ」

「上皇様に神の荒御魂(あらみたま)が御下しになったのでは? 急に得られた病もその後の毒も、攘夷を成さぬ上皇様に対する神の荒御魂故にござりましょうの。判らぬか、会津どの。こはそなたらが招いたことぞ」

「畏れ多くも神の荒御魂が上皇様に毒を饗されるとは思えませぬ。上皇様は天照大神の(すえ)にあらせられます。ならば」

容保は真っ直ぐに忠如を見つめて、内心に沸き上がる激情を抑えながら言う。

「ならば、上皇様に毒を含ませたもうたのは荒御魂ではなく、人ではありませぬか。それも畏れ多くも上皇様の御命を奪わんとするほどの猛毒であったと聞き及びます。そして……何よりこの毒のこと、上皇様は秘して語るべからずと厳命されました。知るのは典薬寮の医師と、側仕えの女房どの、あと尹宮ともう一人とそれがしのみ。内々のお調べでも毒とは明かさず調べたとのこと。ならば毒が上皇様に差し上げられたことを知るのは」

「父上に毒を飲ませた者ということか、中将」

帝の震える声で問われて、容保は頷く。

「臣はそのように考えます、帝」

一瞬の沈黙を破ったのは、中山卿の声だった。帝以上に震える声で、小刻みに震える手にした(しゃく)で我が子を指しながら、

「た、忠如、忠如、そなた、上皇様にど、毒をふ、含ませたもうたのか」

「荒御魂にあらせられます」

一言応えた忠如の表情は、微笑みを浮かべて紡ぐ言葉とは裏腹に爽やかさすら感じさせた。

八百万(やおよろず)の神々の荒御魂が、攘夷を成さぬ上皇様に、天誅(てんちゅう)を現されたのですよ」

「なんと、なんと」

「そうは思わぬか、会津どの」

静寂の中で忠如の笑みを見据えながら、容保は応える。

「思いませぬ、神々は天に在りて我等を見守られたもう方々。地に在りて行うは人の所業。人が思い、成すことを神々に責を問うのは見当違いと言うもの」

「……ほう、(さか)しらに言う」

その時、どこからともなく何か喧騒を聞いて、忠如は眉をしかめた。

「何ごとや」

「中山様、中山様!」

駆け込んできた鎧姿の賊の一人が次の間から声を上げる。

「唐門、清所門、准后門にてこちらの家中の者たちが騒いでおります、いずれも声を揃えて院宣にて我等は賊に非ずと」

「構わぬ、捨て置け。こちらが答えねば騒ぐだけであろう」

慌ただしく使いの者が去っていく足音を聞きながら、帝が呟くように言った。

「やはり父上は院宣を出されたか……」

「帝、ですから申し上げたのです。上皇様はもう間違いからお気づきになることはありませぬ、帝だけでも荒御魂に触れることがないように」

「忠如、そなた、帝にまで毒を」

「ただ上皇様の引かれた(わだち)の先にはこの国の滅びしか無しということを御認め頂ければ、この国はまた新しく甦ることができまする」

忠如の微笑みは未だ続いていたが、中山卿は怯えたように我が子のそれを見て、肩を落として呟いた。

「狂うておる……」

「あれ、父上はそのように息子を評されるか。さもありなん、さもありなん、我は狂うているのやも知れませぬなぁ。目の前で兄上がただ斬り捨てられるのを見た時から、狂うているのやも知れませぬ」

「忠如」

「我のことはどうでもよい、会津どの。そなたらの(はかりごと)で上皇様を過たれた道に御導きしたことを認めぬか」

するりと最上段から降りてきた忠如は座る容保の右に片膝だけで座り、容保の顔を覗きこむ。容保は忠如を見上げて、たった一言、応えた。

「認めませぬ」

「……会津は神道の家と聞く。それ故に神々への敬畏の念篤かろうと思うていたが、我の心得違いであったか」

容保はもう一度平伏し、今度は帝に向かって言う。

「国防大臣の任を受けし者として奏上申し上げます。斯様な振舞い、いつまでも許されるものでは御座いませぬ。我等の身、如何なることになろうとも御所守備隊を動かすことをお許し下さいませ」

頭を下げれば、自分のすぐ横で小さく笑う気配に、容保は頭を下げたままで眉をしかめた。

「さてもさても、自らの身を擲ってまでも、か。ならば国事参与方には荒御魂に触れて頂こうか」

思わず振り返る。次の間の三名は何事かとこちらを見ているが、見張りの二人は動く気配もない。容保の視界に三名と自分の座っていた前に置かれた白湯と茶菓子が目に入った。思わず声を上げる。

「皆、口にされるでない! そは毒ぞ!」

(かしま)しいことよ」

呟くように聞こえた忠如の声。その直後、容保は自分の右手に激痛を覚えた。思わず出そうになった声を喉の奥で圧し殺せば、僅かに喉から苦悶の息が漏れた。

「何を!」

「会津どの!」

「騒がしいことよの、手ぇを畳に縫うたばかりで。しかしやはり手弱女(たおやめ)に見えて武家であったわ、声を上げんとは」

容保は痛みに堪えながら、痛みを絶え間なく生む右手を見た。手の甲に突き立てられた脇差しの刃が蝋燭の灯りを受けて鈍い光を放っている。畳がじわりと暗朱色に変わっていく。小さな悲鳴を上げたのは、中山卿だった。

「忠如ぃ!」

「父上、お見苦しゅうござりますよ」

忠如は力任せに脇差しを引き抜く。更なる激痛に容保は眉をしかめただけで、見る見る鮮血に染まっていく右手を袖に隠し、背中に回した。少しでも若い帝の動揺を招くまいと考えた末の行動だった。

「……叔父君、中将の手当てをさせよ」

「何、些末なことでござりますよ、お気に留めずに」

さらりと言って、忠如は脇差しを容保の頸元に当てる。

「荒御魂に依らずともよい、このまま果てられれば宜しかろう」

「お好きにされればよい」

静かな容保の言葉に、忠如は目を細めた。

「なんと」

「それがしを殺めたところで、この国の行く末は定まっております。上皇様が御望みになった通り、国を富ませる方策は既に始まりました。それがし一人の命奪うたところで、何も変わりませぬ。この国は変わるのです、より強く、より大きく」

「……それが遺言となろうとも、か」

「それがしには守ると定めた者たちがおります。その者たちが穏やかに暮らす為に、それがしはお役目を勤めて参った。道半ばではあるが、道を示すことは出来たと自負する。命を惜しむなど、言語道断」

「よう言うた」

忠如は満足そうな笑みを浮かべて、

「ではここで果てればよい」

「叔父君!」

「帝、会津が望むのです、ここで終わらせてやりましょうぞ」

その時。

障子が荒々しく開いた。

「御前を御無礼仕ります、会津家中の山川大蔵、仙洞御所より御書簡とみ印をお届けに参じ…殿!」

山川は一気に捲し立てたものの、目の前の光景に言葉を失う。

最奥に帝がいる、その横には震えている中山卿、しかしその手前には頸元に短刀を押し当てられた、容保がいた。その暗朱色に染まった右袖が不自然に背中に回されている。

「何奴!」

「御無礼!」

抜き身の刀を振りかざす男二人をあっという間に切り伏せ、山川は容保に駆け寄り、短刀を押し当てる男を突き飛ばす。その山川の動きに呼応するように参与たちが突き飛ばされた忠如から短刀を取り上げ、その体を畳に押し当てた。

「おのれ、何をする!」

「静まられよ、御前であることを(わきま)えんか!」

春嶽の怒声に、忠如の抵抗は幾分弱まった。山川は慌てながら、容保の右手を止血しようとするが、容保が止める。

「……大蔵、それよりも上皇様からの書簡とみ印は?」

「はい、御方様より預かりやした」

「帝に差し上げよ」

「は」

山川が懐から出した畳紙と小箱を近くにいた久光が受け取り、一瞬目を剥く。

「これは、山川とやら、おはんの血ぃか?」

「あ、いえ、それがしではございやせぬ」

『建白』と書かれた畳紙と、菊花紋が蒔絵が施された小箱には血の跡がべったりとついており、久光は迷いながら、しかし最奥の帝に差し出す。

「仙洞御所は、ご無事なのやな?」

帝の言葉に山川は頷く。

「御所異変在りと、使いの者を向かわせた折りに、警護の者も遣わしたと聞き及びやす」

帝は中の書簡を急ぎ開き、目を通した。そして目を閉じて、一つ深呼吸をして立ち上がる。

「勅語を下す、(すべから)く聞くがよい。当夜、御所に(とつ)る者たち、これら全てその暴状に依りて朕の意向を曲げる者たちである。依ってこれらの賊を許すべからず。治安を掻き乱し、騒擾を起こす者として処罰を望むこととする」

帝は畳に押し付けられたままの忠如を見て、未だに小刻みに震える中山卿を見た。

「位階血縁を問わず、という文言も忘れなく入れよ。すぐに勅命として下す」

中山卿が崩れ落ちるように項垂れた。忠如の声が響く。

「帝、帝もお分かりになられぬか、如何に我が国が過ちに向かいつつあるか、お分かりになりぬか!」

「叔父君、何ゆえ斯様な振舞いをなされた。力に頼らずとも、叔父君ならば我が前に出でて、奏上すればよいこと。数多(あまた)の者共を苦しめる方策を選ばずとも、我が耳に届く筈であろうに」

帝のようやく落ち着き始めた声に、しかし忠如は反論する。畳に押し付けられたまま、必死の形相で叫ぶ。

「ならばこの国の民全ての声を御聞きになられまするか! 力あってこその声です、この者たちもそうして上皇様に取り入ったのでござりますぞ、故に朝廷を、京を追われた我には、こうするしか帝に真をお届けすることが出来ませなんだ!」

「忠如、いい加減にせぬか」

消え入りそうな小さな声で中山卿が呟くように言った。

「そなたは国賊となったのだ、その責を追わねばならぬ……そなたを止められなかったこの父も、責を追うのだ。大人しゅう縛につけ」

「六年でござりまするぞ、六年! ただただ一心に帝に我が思い届けと、奸物どのを取り除かんと望み続けたのです、斯様な仕儀で終わらせる訳には参りませぬ!」

「だからと言うて毒を上皇様に含ませてよいという仕儀にはならぬ!」

初めて聞く帝の怒声だった。帝はひれ伏したままの忠如を睨み付け、

「叔父君は朕に血縁としての情を請うたではないか! だが忘るるな、上皇様は朕の父である! そなたにとって朕は何ぞ、甥という情を請うならば、人の道を外るる前に請われるべきであった。父に毒を盛った者の話など聞きとうない! 罪を贖え!」

「帝!」

「参与、勅語を速やかに行え、御所守備隊を御所内に入れる許しを与える。賊一党を速やかに平らげよ! これを打ち立てて、賊に見せるが良い」

帝が開けてもいない小箱を久光に差し戻し、久光は丁寧にその小箱を開けて、息を飲む。そこに納められたのは一枚の旗印。朱の絹地に金の絹糸で縫いとられた十六菊花紋様。それは正しく帝の紋であった。

「こいは」

「上皇様が御用意あったものと文にある。そなたらは国賊に非ず、国賊とは当夜御所に押し入りし者共であると天下(あまのした)に知ろ示すがよい」

帝の若い声がその場にいた多くの者の叩頭を誘った。

「それがしが唐門に参りもす」

久光が立ち上がろうとするのを容保が制する。

「それがしが参ります」

「しかし会津どの、その手では」

山川が止血しようとするのを容保が振り切ろうとするのを、帝の声が止めた。

「中将は手当てが先じゃ。誰ぞ中将の手当てを。典薬寮に使いを出せ」

忠如はまだ何かを喚いていたが誰もそれに耳を傾けず、久光と入れ替わりに飛び込んできた衛士たちに縄をかけられ、引きずり出された。

それを見送って帝は動けぬ中山卿を何とか引き起こして、部屋から出ていった。残りの参与たちもすぐに役目を見つけて出ていった。

間を置かず典薬寮の医師が現れ、容保の手当てを始めたので、山川は下がろうとしたがそれを止めるように容保の左手が山川の袖を握る。

「殿?」

「真紀は、どこだ」

低い声で容保は続ける。

「上皇様からの書簡なら、真紀が自ら持つ筈。況して腕に覚えがある真紀ならばなおのこと。真紀は、どこだ。凝華洞か」

「殿」

山川は容保の双眸を見つめて応えた。

「御方様には口止めされておりやしたが、申し上げやす。西側の三門で他家の方々が院宣故に主君を解放するよう騒ぐ時を合わせて我等七名、御方様に随って帝に上皇様の御書簡をお届けに参じやした。ですが途中で銃撃に会い、二名が死に、その、御方様も撃たれ……動かせぬ故に御方様が、それがしに御書簡を預けられ、置いていくようにと」

「傷は深い、のか」

「腹より出血されておりやした。ですが御方様は時知らずの身、しばらく休めば動けるようになるから、とにかく帝の元へと仰られ」

「真紀がそう申したのか」

「はい」

「嘘だ」

唸るような低い声に、山川は眉をひそめる。

「殿?」

「真紀は、しばらく前に時知らずの身を失うた。それはそなたをここに参らせる為の嘘だ」

容保は立ち上がろうとする。医師が慌てて制止するが、ゆらりと歩き始めるのを山川も必死に止める。

「殿、手当てが終わるまでは」

「真紀を探す。手当ては後でも良い、大蔵、場所はどこだ!」

「なりませぬ、それがしが探して参りやす! 場所は知っておりやす! お願いでございやす、それがしに行かせてくだせえ!」

容保は額に浮く冷や汗を左手で拭って、崩れるようにその場に座り込んだ。

「………分かった、大蔵、真紀を頼む」

「は、では御免」

駆けていく山川の足音を聞きながら、容保は項垂れる。

真紀が時知らずの身を失ったことに気づいたのは冬のこと。隠すつもりもなかったがあえて明らかにする必要もないと真紀が言うので、家中には何も言わずにきた。だが家中では真紀の時知らずの身のことはあえて口の端には乗せずとも誰もが知っていたことだ。だから置いていけという真紀の言葉を山川も鵜呑みにしたのだ。それは咎められない。

医師が恐る恐る手当てを始め、されるがままの容保は溜め息を落として、高くはない天井を見上げた。

真紀。

生きていて、くれ。





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