御所占拠
しかし報せが飛び込んだのは翌々日に日付が変わろうとする夜更けだった。
観兵式が無事に帝の行幸の元で無事挙行されたことを、容保の帰宅前に知らされた真紀は安堵しながら容保を待った。夕刻、幾分疲れた面持ちで帰ってきた容保は、真紀を見るなり、
『無事に済んだ』
一言言って、満足げな表情を浮かべた。
着替えを済ませた頃に、御所から使いが訪れた。在京の国事参与四名に急ぎ参内を促すもので、これ自体は珍しいことではない。容保はすぐに参内の準備を調え、御所に向かったのだが。
「今日は殿のお帰りが遅うごぜえやすね」
右筆頭の登喜枝が細くなった蝋燭を代えながら、真紀に言う。真紀は洋書に目を通しながら、
「そうね。今何時かしら」
登喜枝は飾り棚に置かれた置時計に目をやり応える。
「亥三刻ですね」
暦法を改めた時に、時刻も定時法に変わった。それに合わせて時計も和時計から変えざるを得ず、置時計は会津の時計師に急ぎ作らせたものだが、和時計よりも遥かに構造が容易ということですぐに仕上がり、容保は本陣屋敷のあちらこちらに置時計を配置したのだが、盤面も簡素なもので長針と短針以外は一から十二の数字が並ぶのみ。和時計を見慣れた者は時計を見れば、古くからの呼び方で時を表すために、かつての時計の見方を思い出しつつある真紀にとっては、逆に考え込まなくてはならず、
「……十二時前ね。確かに遅いわ」
御所からの急な呼び出しはここ数年、常にあったことだった。だが遅くても容保は十時過ぎには帰ってくる。それは宴であってもそうだった。日を跨ぐことなど、今まで一度もない。
「表を見てきてくれる? 報せが来ているやも」
「はい」
登喜枝が姿を消して、しばらくして静まり返っていた本陣に何やら賑やかな気配を感じて、真紀は洋書から顔を上げた。常にない廊下を走る足音が部屋に近づくのを感じて、真紀は書見台を脇に寄せる。
「御方さま!」
駆け込んできたのは修理だった。懐に何かを差し込んだまま、真紀の前に進む。
「何事ですか?」
「これを」
懐のものを修理が差し出して、それが書状を包む畳紙と分かる。真紀は眉をひそめながら、中の書状を取り出した。一気に巻きを広げて読み進み、それから真紀は目を閉じた。
「御方さま、どういうことでごぜえやしょうか、先程、殿の供をして御所に参った者が駆け戻り、御所でこれを受け取ったと」
「その者を呼んで貰えますか? あと主だった者を広間へ集めなさい……ですがその前に、文を書きます。使いの者を用意させて下さい」
広間は騒然としていた。
それぞれが事態が読み込めず、ただ先程本陣の表玄関で容保の供をして御所に向かった者が血相を変えて飛び込んだことだけが、広間に集められた者達にとって判っていることだった。
御所で何かがあり、容保がそれに巻き込まれたのではないか。
もし変事があったなら、それは何か。
判じようと様々な憶測が飛び交うが、必ずしもそうだと断言できない歯痒感が広がっていた。
それは真紀が最近では小袖に打ち掛け姿で上座の容保の背後に座る筈が、一段下がった下座の一番上位に、羽織袴に総髪姿で座ったあとも、憶測を囁く声は静まらなかった。
「なにをしておる、御方さま御出座であるぞ」
修理の怒声に、広間は一気に静まった。
筆頭家老の神保内蔵助が身を乗り出しながら、
「御方さま、なんぞありやしたか?」
「今日、容保どのの側仕えは、永池どのと?」
「阿佐田真之輔にごぜえやす」
修理と言葉を交わして、真紀は広間を見渡す。
「夕刻六時頃、御所より使いが参り、容保どのは赴かれました。側仕えの永池どのの話によれば、常にはない控えの間に通されたとのこと。勿論、容保どのの帯刀は側仕えが預かり置いたようですが、夜半11時頃、控えの間に書状が配られ、退去と書状をそれぞれの藩屋敷に届けよと、下命されたそうです」
真紀が差し出した書状を田中土佐が受け取り広げる。やがて読み進む内に土佐の手がふるふると震え始め、やがて嗄れた声を上げた。
「こ、これは斬奸状!」
広間が響めいた。
真紀は静かに言う。
「書状の内容は、帝の周りに奸物ありにつき、有志一同を以てこれを廃し、世を革める。近しき内にこれらの奸物を国賊と定める故に、奸物の家中の者は即刻京から立ち退き、国許にて処分を待つべし。奸物どもを救い出さんと大挙する家中あらば、これも国賊として討つ。そう書いてあります。退去を命じられたものの、側仕えの一人は内講で様子を伺っていたけれど、これもすぐに閉じられ、許可無く開くことを禁じるとの声が聞こえたとのこと」
「御方さま、すぐにでも兵を出しましょう」
「なりませぬ」
真紀はやはり静かに言いながら、立ち上がる。
「黒谷の兵を動かさば忽ちに容保どのの命はないでしょう。賊は奸物として容保どのを斬ってしまえばよいのに、まだ生かしている。その意味をよくよく考えなさい」
「……我等への牽制、でごぜえやすか」
土佐の言葉に頷いて、真紀は続ける。
「加えて、賊の人質には畏れ多くも帝も入っている筈。ならば尚の事、慎重を期さねばならぬでしょう。それに」
広間を見渡して、真紀は続けた。
「もし兵を動かしたところで、如何程の兵を動かせる?」
焦燥感に満ちていた面々の表情が変わる。互いの顔を見合わせて、それぞれに声を上げる。合わせれば数にして千を超えるほど。しかし真紀は首を横に降った。
「会津の者が国防軍に在籍し、士官としてそれぞれ数百の兵卒を委ねているのは承知の上です。ですが、万が一国賊として勅命が下れば、士官はもとより、兵卒も動かせぬ。私が問うのは国防軍に所属せぬ兵の数ですよ」
再び一同の表情が変わる。
真紀が再び問えば、土佐が応える。
「会津の者で国防軍に所属せぬ者は、五十ほどしかおりやせぬ、その半数は過日、期限付きではありやすが、御所守備隊に配属されておりやす」
「ええ。ならば動かせるのは三十もないということ」
真紀の言葉に、広間は静まり返った。
「と、殿のお命の為ならば、国防軍を脱しても!」
誰かが叫んだ言葉に、真紀は再び首を横に振った。
「容保どのがどれほど苦心して国防省を整えたか、皆知っておられるでしょう? 一人として足並みが乱れれば、事無く終わったとしても、容保どのが国防省の統率を取らず、率いた者も私人として動いた責めを受けます」
再び静まり返った広間に、真紀は声を上げた。
「容保どのと同じく捕らわれたのは、福井さま、薩摩の国父さま、山内公と聞く。土佐どの、急ぎの書状を。主だった方々を凝華洞にお集まり頂くように。それから」
真紀は再び広間を見渡し、
「女子供、病人を出来るだけ急いで伏見に退去させなさい」
「伏見、にごぜえやすか」
「伏見からは用水が大阪に繋がる。会濤丸が大阪に停泊中の筈。津洋丸も長崎から帰港中でしょう。準備が整い次第、女子供、年寄り病人たちを乗せて相馬へ」
「御方さま、それは!」
真紀の言葉は、賊の記した斬奸状に従う内容で、修理ですら異論の声を上げた。
「だけんじょ、それは賊の思惑に」
「確かに賊の思惑に従うことになろう、しかし手勢がこちらにない以上、弱き者を巻き込むような戦いになってはならぬ。万が一、帝が我等を国賊である勅命を下した時、京都の騒乱は極まることになる。そんな時、女子供を見捨てる気ですか」
広間は一層静けさを増した。その静けさを破って、内蔵助が真紀に問う。
「ならば穣太郎さまも」
「穣太郎は」
真紀は言い出したが、思わず途切れた。だが再び声を上げる。
「穣太郎は伏見までは退去させる。しかし女子供が大阪に移ったのを確認して、一番最後に穣太郎を移します。大阪から船に乗せるのも同じくです」
「なして」
「容保どのが囚われの身なれば、会津松平家の血筋は穣太郎しか残らない。幼いとは言え、当主代理を勤めねばならぬ身です。幼さゆえに、他の子供と同じように遇するわけにはいきますまい?」
「……だけんじょ」
「時はありませぬ。さあ、急ぎ家に帰り準備を調えなさい。京都の民に問われれば松平家より火急に立ち退く準備をせよと言われたと応えればよい。さすれば民は何事かと、事態を注視するでしょうから」
真紀の言葉に重ねて内蔵助が声を張り上げた。
「皆の衆、取り急ぎは女子供と年寄病人を、伏見に動かすんべ。家族に国防省所属の是非はない、皆立ち退く準備が調い次第、伏見の蔵屋敷へ向かうのじゃ」
「母上」
やっと聞こえるほどの小さな声で、穣太郎は囁いて、真紀の袖を握った。
「穣太郎は、ここに残ることは出来ぬのですか」
「……残りたいのですか?」
真紀の言葉に、穣太郎はこくりと頷いた。
「だって、穣太郎もここで戦います。父上を助けに行きます」
周りは騒然としていた。突然の真紀の命に最低限のものだけを持っての退去にはなるが、それでも準備は騒々しくなる。それが穣太郎の不安を掻き立てているのを、真紀は理解していた。
「穣太郎」
真紀は跪き、穣太郎と目線を合わせた。幾分潤んだ穣太郎の双眸が真っ直ぐに真紀を見つめている。真紀は穣太郎の頬を撫でながら、
「優しい子ですね、穣太郎は。ですが穣太郎しか出来ぬことがあるのですよ」
「私にしか出来ないこと? 何ですか?」
「戦える者たちは黒谷に残ります。ですがその者たちにはそれぞれ守らねばならぬ家族があります、その者たちには伏見まで移動するように命じました。ですから穣太郎。皆を守って伏見に行ってくれませぬか?」
「……私の役目、ですか」
真紀は両手で穣太郎の右手を包み込んだ。何時もと変わらぬ笑顔で、何時もと変わらぬ声で言う。
「穣太郎にしか任せられませぬ」
「母上」
「母は父上を助ける役目があります。ですから、この役目はそなたにしか任せられませぬ。女子供、年寄病人を守ってやってください。次期当主として。何より父上とこの母の子として。穣太郎だから頼めるのです」
「……はい」
こくりと頷いた穣太郎の頬に触れ、真紀は続けて言った。
「待っていて。そなたを一人にはしない。父上か、母かは判らぬけれど、必ずそなたを迎えに行くから」
「きっとですよ、母上。お迎えあるまで、私のお役目、必ず果たします」
穣太郎の頬を一筋流れた涙を手で掬い取り、真紀は笑顔のまま頷いた。
「御方さま」
申し訳なさそうな修理の呼び掛けに振り返ると、修理は紫の風呂敷包みを持っていた。真紀は頷き、側に座る登喜枝に声をかける。
「登喜枝さん、あとは頼みます」
「はい、右筆うち揃って穣太郎ぎみをお守りしやす」
部屋を変えて、真紀は修理から風呂敷を受け取る。
「先程仙洞御所より届きやしたが、一体何でごぜえやすか?」
「これがなくては、此度のことは成せぬからよ」
広げられた風呂敷の中に見た紋に修理は思わず正座のまま後ずさる。
「お、御方さま、これは」
「丁度よい大きさね。これ以上嵩張ると持運びが辛くなる」
真紀はまず漆塗りの漆黒の小箱から中身を取りだし、広げて見せる。修理は既に言葉もない。
ただ漆黒の小箱の蓋に施された、金蒔絵の菊花紋に釘付けになっていた。
風呂敷には小箱だけでなく、書状が三通入っていた。一通には『院宣』、もう一通には『建白』、最後の一通には『一柳』と書かれており、真紀は『一柳』と書かれたそれだけを開き目を通す。
「院宣か……どれだけ力があるかは判らないわね……中山忠如? そうか、そこにも幽霊はいたか……」
一人呟いてから、小箱に再び中身を丁寧にしまい、開かなかった二通の書状と共に用意していた布にくるみ、背に斜にかけた。床の間に置いた大小に手をかけた時、修理が漸く声を上げる。
「御方さま、御方さまもいらっしゃるのでごぜえやすか」
「当たり前でしょう。誰かが行かねばならぬなら、私が行きます」
大小を腰に佩いて、真紀は一つ深呼吸をする。
その様子を見ていた修理が、
「それがしも参りやす」
「いいえ、修理どのは国防軍所属でしょう。況して容保どのの副官を勤める身。国防省で動きたくて仕方ない会津、福井、薩摩、土佐出身の面々を何としてでも抑えるように。それが修理どのの役目でしょう」
「しかし」
言い募ろうとする修理の胸に真紀は右手を添えて、
「修理どの。私に万が一の時は容保どのと穣太郎を頼みます」
静かな声。だが、常の真紀では決して口にすることのない言葉に、修理は声を失った。
「容保どのは必ず帰します。会津のため、引いては我が国のため、容保どのは生きてもらわなくてはいけません。その為に私は参ります。ですが本当のところ、成せるか成せぬか判りませぬ。相手が判らぬ故に、この策が上策ではなく下策である可能性も捨てきれぬから」
「お、御方さま」
「それでも行きます。行かねばならぬのです」
「ならば山川大蔵をお連れくだせえ。本人が是非にも参ると聞きやせぬ」
「山川どの? しかし、山川どのは」
修理は頷く。
「はい、夏過ぎには国費にてのプロシア留学が決まっておりやすが、今は無位無官の身故に何ぞ出来る事があるのではないかと。本人からの強い希望もありやす」
真紀は一瞬だけ目を閉じて、一つ深い溜め息を落としたが、
「分かりました、お願いしましょう。準備が整い次第、他の者と共に凝華洞に参るように伝えなさい」
部屋を出ていく真紀の後ろ姿を見送りながら、修理はふと思った。
常の真紀ならば、こんな事態の時、飄々(ひょうひょう)と出かけるだろう。時知らずの身を持つ故だろうと、修理は安易に思っていた。なのに先程の真紀と、京都守護職を拝命して、京都を枕に死に参ると心を定めていた容保の姿が重なったように見えた。
そう言えば、ここしばらく自虐のような真紀の口癖を聞いていない。
『私は、時知らずの身を持つ者ですから』
まさか。
修理は内心に浮かんだ考えを打ち消すように慌てて部屋を出て廊下に立つ。廊下を見渡せば、真紀が角を曲がろうとするところで、修理は思わず声を張り上げた。
「御方さま!」
真紀は足を止め、振り返る。
「どうぞ、生きてお戻りを!」
真紀は静かにいつもの微笑みを浮かべては小さく頷き、足を進めた。
修理は廊下に正座し、深々と平伏して囁くように再び言った。
「どうぞ、生きてお戻りを……」




