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foundation  作者: なみさや
禍乱
65/81

失ったもの





令徳五年八月十五日。

今上帝は病による後遺症を理由に退位を宣言。即日、東宮である祐宮睦仁親王が即位した。これにより帝は、元号から令徳上皇と称されることとなった。しかし即位の儀は令徳上皇の意向により新たな体制が始まる正月を避け、三月に執り行われることとなった。

また令徳六年正月から元号が芳和(ほうわ)あらたまること、新たな帝が帝位にある間はこの元号は変わらぬこと、西欧にならい暦を西洋暦に改める旨が政治府から正式に交付された。

「西洋暦を用いるとなると、年越しは十一月の末となる。三月あまりしかないではないか」

容保を始め、政権の重役に任じられる予定の者たちは顔色を変えた。それぞれの省で最低限必要なことを調えねばならず、とはいえ今のままでは日にちも全く足りず、慶喜の計らいで急遽江戸に新設された国事公用掛直轄の国事公用局所属の者を全て上洛させ、参与直轄の評定局と合わせて、新たな職制形成を進めることになった。そのおかげか、職制形成はなんとか年が変わる頃には間に合いそうだと、算段がつけることができた。

しかしそれでもこの頃の容保の繁忙は極まっていて、黒谷に帰るのも十日に一度ほど、それ以外は凝華洞で寝泊まりを繰り返し、ただ一心不乱に三月を過ごした。真紀や穣太郎の顔を見ることすら、希な日々を送っていたのだ。

そんな折り、凝華洞に真紀が現れた。最近では珍しくなった羽織袴姿で、珀だけを連れてまるで散策にでも来たかのように現れたのだ。

「いかがした、黒谷で何かあったか?」

迎え入れた容保は、真紀の様子に眉をひそめる。

痩せた、と思った。だがおそらく僅かな違い。ずっと真紀を見てきた容保だから分かるであろう、僅かなもの。だが真紀の身体の変化など、容保の記憶にはついぞなかったものだ。

「夜が冷えて参りましたから、綿入れをこしらえてみました。家老方にお渡しいただけるように手配しようとしたのですが、ご自分で持っていかれてはいかがかと言われたので」

風呂敷包みを受け取りながら、差し出された真紀の右手を見れば巻かれた包帯が見えて、そのような真紀の様子を見たことがないと考えながら容保はなおさらに問う。

「無理をしたのではないか? 少しやつれて見えるぞ」

真紀が驚いたように顔を上げた。

「そう見えますか?」

幾年(いくとせ)、そなたと共にあると思っている?」

真紀の様子に、容保は異変を感じた。

「いかがした? そなたが窶れるなぞ、ついぞ見たことがない」

「容保どの」

真紀の何かを決意したような表情に、容保は眦を上げる。真紀は脇差しを抜き、黙ったまま自らの左掌に押し当てた。薄く血の筋が溢れ、真紀はすぐに懐紙を当てる。

「御覧ください」

当てた懐紙を外せば、掌に薄く赤い筋が見えた。だがすぐに血が溢れ、真紀は再び懐紙を当てる。

懐紙を当てるのを数回繰り返しても、血は止まらない。

「それは……」

「お分かりいただけましたか」

真紀はいつものように微笑んだ。だが、その微笑みは幾つもの感情を含んだ、微笑みで。

「どうやら時知らずの身ではなくなったようなのです。少し前から身体が疲れやすいとは思ったのです。ですが、あり得ぬと思っておりました。その綿入れを拵えている時、針を指に刺す粗相をして、はっきり分かりました」

「……なぜだ」

容保の声も、複雑に絡んだ思いを押し殺すように低い。

「判ずることは出来ますまい。ですが……」

チリチリと小さな痛みを溢す左掌を見つめて、真紀は呟くように言う。

「良かった、のでしょうか。私は分かりませぬ。戸惑うばかりで、どれほど時を得て考えても、何も思い至らないのです。容保どの、私はどうしたら良いのでしょう?」

真紀は項垂れる。

御所から辞して、数日身体の回復に勤めた。さすがに時知らずの身であっても、不眠不休は堪えることは経験済みだった。だが何日休んでも、今までのように回復したと実感出来なかった。

そうしている内に、容保の綿入れを仕上がる最中、縫い針を指に刺した。

かなり深く刺したらしく、口に含めば舌に血の味が広がった。いつもならあっという間に消えてなくなる血の味。なのに、それがいつまでもなくならない。指を見れば、やはりまたプツリと血の珠が浮く。

思わず呟いた。

どうして?

右掌に、脇差しの刃をあてた。僅かな出血は、今までだったらたちまちに止まるのに、いつまでもいつまでも滲み出ている。

なぜ、どうして。

繰り返した自問自答に答えられる者などなく、真紀は事実を見ない振り、気づかぬ振りをしようとした。綿入れを仕上げることに没頭し、仕上がったそれを家老の田中土佐に委ねようとしたが、

『御方さまがお届けになってはいかがでやすか?』

しばらく会ってないから、お顔をお目にかければ、殿もお慶びになりやしょう。

土佐の満面の善意にしか見えない笑みで言われてはそうするしかなく、とは言え、自分の身に起きていることをいずれは言わなくてはならないことに思いが捕らわれた所為で、グズグズと時間を重ね、結局翌日の訪いとなった。

言わずに帰ろうと思っていた。五日後には新暦と名付けられた西洋暦で元日を迎える。真紀が言わずに帰ろうとしたのは、そんな繁忙な時に容保の心を乱すことを怖れたからこそだったのか、真紀自身が目の前の現実から目を背けたかったのか。

だが、容保は真紀の異変を感じた。容保の問う言葉に、真紀の心は定まった。言わなくてはいけない。だが、なぜ起きたのかは分からない。

「……そなたが時知らずの身を持つから、そばにいて欲しいと願った訳ではない」

容保の言葉に、真紀は弾かれたように顔を上げた。

「それは何度となく言ったつもりだ。そなただから、そばにいて欲しいと望んだと。良かったのだ、そなたが時知らずの身を失ったことは。わしのそばにおれ。共に老いて、共白髪となるまでそばにいてくれ。それがわしの望みだ」

「容保どの」

「良かった、のだ」

強く言われて、真紀は笑む。双眸に涙を湛えて。小さく頷けば膝の上に涙が二粒落ちた。容保はからかうように言う。

「夜泣きする子がまだいたか?」

「ええ、そのようです……」

震える声は、しかし幾分嬉しそうで。容保は真紀の左手を握る。

「手当てをしなくては。それから身体をいとうことを覚えなくてはな」





明けて芳和元年一月。新年の挨拶が飛び交う市井の主だった辻に、掲示が立った。

一つ、新たな帝が登極され、三月に即位式典を行うこと。

一つ、征夷大将軍職を排し、帝が日本の統治者であること。

一つ、新たな職制を以て、日本の統治が始まるため、この新たな職制に津々浦々の民は従うこと。

新しく設置された国防省はかつての京都守護職屋敷の敷地をそのまま使うこととなり、容保は凝華洞に代わって急造された国防省に日参するようになった。

国防省の中には陸軍局と海軍局が置かれ、それぞれの長として、弟の松平定敬と、旧幕臣の勝海舟が任じられた。

「この西洋服はなんとも着心地がよろしくないな。慣れねばならんが……」

容保の西洋服を手際よく脱がせる真紀を、されるがまま見つめていた容保が溜め息を落とす。

「やはり真紀の方が慣れたものだな」

「そうですね、洋行したのは大分前ですが、身体が覚えているようで」

芳和政権となって、要職を占める者に欧化令おうかれいが出た。西洋の国々と直接接する立場である以上、早々に西洋の文物を生活に取り入れるよう促したもので、大臣をはじめとした役吏は制服として西洋服が支給された。それに合わせて西洋風の髪型を定められたので、容保も京都に来てから一髻(ひとつもとどり)にしていた髪をばっさり切り、後ろに椿油で撫で付けた。

思わず髪に手をやる容保を見て、真紀が苦笑する。

「慣れませぬか、髻がないと」

「仕方あるまい、物心ついた頃には頭の右にあったものだ。そうは慣れぬ」

京都守護職拝命までは月代さかやきを剃りあげ髻を結っていたが、京都に来てから公家にならって一髻にした。その時も月代がないのに慣れるのにしばらくかかったものだが、髻自体がないのはなんとも言えない違和感がある。一体この違和感をどうしたものかと、容保は頭を掻く。真紀は苦笑しながら応えた。

「容保どのはお顔が小さいから、後撫で付けよりも少し前髪を下ろした方がお似合いやも。うなじはすっきり出した方がよいでしょうけれど」

「西洋風の髪型など、誰が切れる?」

一髻の元結を切れば肩より少し長い容保の髪を切って整えたのは真紀だった。期待して真紀を見れば、真紀は苦笑しながら、

「こういう私のことを器用貧乏というのでしょうね。人前に出ても恥ずかしくない程度には整えて差し上げますよ」

それよりもと、真紀は言う。

「来月の観兵式、概ね決まったのでしょう?」

話の腰を折られたことに少しむくれながら、容保が応えた。

「今日、決まった。かつて上皇さまに御見せした馬揃えを土台に洋式調練を組み込んだものだが、何せ時間と場所に限りがある。何度か手直しが必要だが……見てくれるか」

政権が発足し、容保が国防大臣に就任した時、多くの会津家臣もそのまま国防省に官吏として召し抱えられた。家老格であった神保修理は容保の副官を務めているが、それぞれの適性に応じた部署に任官することを容保が重んじた為に、例えば秋月悌次郎は内務省大臣の一橋慶喜の輔佐官吏を勤めている。国防省にも会津家臣のみならず、薩摩、土佐、長州出身の藩士が数多くいるが、常に人員不足の態が否めない。

しかし会津藩の運営も疎かに出来ず、西郷頼母、田中土佐は本人たちの希望もあって家老のままに留め置いた。大多数の藩が最低限の人数の藩士を残して、そのほとんどが新政権に仕官したという。家老格から真紀の仕官も示唆されたが、真紀本人がそれを退けた。

だから、真紀はあくまで容保の私的な輔弼という役目を担っている。

広げられた観兵式の詳細に一通り目を通して、真紀は一言呟いた。

「観兵式自体はこれでよろしいと思いますが……」

「何だ、何かあるのか」

「二つ気になることが。まずは異国の領事たちの場所ですが」

三月の即位の礼と、今月行われる大嘗祭は元々国内に於いても公開される儀式ではないため、日時と場所だけを異国政府に外務省から知らせたのだが、思わぬ横槍がいくつかの国から上がった。西洋にあっては戴冠式は新たな君主の姿を内外に知らしめるもの、日本は君主の姿も見せぬのかというもので、外務大臣の松平春嶽は頭を抱えた。そんな横槍が入ったことを知った公卿たちも一斉にそのような異人の脅しに屈する必要はない、なおのこと即位の礼と大嘗祭を公にすべきではないと唱えたから、春嶽の懊悩は深くなる一方だったが、それを知った容保が救いの手を差し伸べたのだ。

元々、即位の礼と大嘗祭は臣下うち揃って参列するものではない。この二つは神事であって、公開出来るものではないのだ。だから、五月に予定されている観兵式に異国の領事たちを招くことは元々決まっていたのだが、観兵式に帝の行幸を仰ぐことは出来ないか、そう疑問に思ったのだ。

首席宰相の二条斉敬に諮ったところ、忽ちに観兵式に対して帝の行幸が決定した。懸案がはかどった春嶽にしてみれば喜ばしいことだろうが、容保にとっては観兵式の重大さが増したことになる。

財務大臣の岩倉具視からは最大限の協力は惜しまぬが、財源は限りがあると小さな嫌味を頂戴している。観兵式の準備も勿論だが、整えねばならぬことは山積していた。

「異国の領事たちの場所は、この辺り。外務と協議の後に決めることになるが、足らぬか」

容保が広げた図面を示せば、真紀は首を横に振る。

「いいえ。恐らく彼らだけではないでしょう。随伴に加えて、新聞記者が来るはずです」

聞き慣れない言葉に容保は首を傾げた。

「新聞記者、とはなんだ? 新聞とは最近市井で出始めた瓦版のようなものであろう?それに関わる者か」

「そうですね、西洋にも新聞はあります。新聞に載せる話題を探すのが記者ですが、彼らの中には写真機を持つ者もいる筈です。余すことなく、観兵式を評価するでしょうね」

真紀の説明も、容保は納得しない。

「分からぬ。新聞記者というものがいることは分かったが、何故観兵式にその者たちの場所を設ける?」

「西洋にあっては国王の発言も、市井が知る術を持っています。それが新聞なのです。新聞により国王や政府の動向を知り、自らの思いを口にする。一人一人の思いは小さなものですが、まとまれば国を揺るがす鳴動になりかねませぬ。分かりますか、容保どの。数年前、日本を野蛮な国であり、対等な条約を結ぶ国に値するか、これから見定めると言った英国領事の言葉を」

神戸で行われた英国との交渉で伝えられた、言葉。あの場で髭面の軍人が吐いた暴言は、通詞の中濱と真紀の胸に留めてあるが、それでも真紀が『侵掠予告』と評した英国政府の宣言は、容保にとって味わったことのない屈辱だった。神戸以降、賠償交渉は頓挫し、今も英国政府からそれ以上の追及もない。だからこそ、なおのこと、受けた屈辱は容保の中で熾火おきびのように燻り続けている。それに思い至って、容保の眉間の皺が深くなる。低い声で帰ってきた答えに真紀は小さく頷いた。

「忘れぬものか、蛮族と呼ばれたこと、あれほどの侮辱があってなるものか。それ故にこの観兵式、必ずや成功させねば」

「ええ。だからこそ、我が国がそうではないと知らしめるためにも、新聞を利用するのです。記者が来ればできるだけ拒まず受け入れることです。ここ何年も異国では日本の文物に対する人気が高いとか。これを利用せぬ手はありませぬ。しかし」

真紀は容保を見つめて、

「しかし、容保どの。それ故になんぞあったら、大きな憂いとなりましょう。私が気になる二つ目はそこなのです。言うまでもないでしょうが、警備のことなのです」

「警備、か」

観兵式の会場は国防省の敷地内。数千坪という広い敷地だが、いずれ軍制が整備されればここだけでは足らぬやもという予測はあったが、当面は建物も疎らであり、御所からも近いので容保は迷いなく観兵式会場に選んだのだが、新設された軍隊では、観兵式で手一杯で、万全な警備とは言いがたい。わかっていてものの、真紀に指摘されるまでは追っ付け手配しようと考えていただけに、容保は渋面になる。

「わかってはいるのだ。だが人手が足りぬ。何とか妙案はないか」

「警備は厳重を期さねば。蛤門のこともあります。京都所司代のお役目、軍制整備が落ち着くまで、復活させてはいかがですか? 喫緊なので設置期間を定めて、警備部隊を組むのです。見廻組や新撰組から相当数が軍に編入したのでしょう?」

真紀の穏やかな物言いに、容保の渋面が和らいだ。

「そうか、あの者たちならば警護を得意とする」

「編隊はその中でも主だった者にお委せすれば、速く出来るでしょう。但し数を求めることだけは却下されるように。少数精鋭が大事です」

「だが数が」

「容保どの。観兵式に動員する兵の数は?」

「二千だ」

「全てを会場に収まりますか?」

真紀の言葉に容保は瞠目する。

「そうか、待機の兵がいる」

「しかし、これには相当難しいですが。連繋を密にしなくては穴が生まれます」

「いや」

容保が満面の笑みで答える。

「ここが腕の見せどころ、何としてでも内外に日本の軍の強さ、見せてやろうぞ」







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