病と毒
令徳五年四月、帝は勅許を発令。
帝こそが日本の統治者であり、唯一無二の存在と宣した。
また政の形として、帝の統治権を政治権、司法権、立法権の三つに大別し、それぞれを政治府、司法府、評議府に代行させると定めた。
また政治府の首班として首席宰相を置き、これに二条斉敬を任じ、政治府の多岐に渡る役目を内務省、外務省、財務省、教育省、民務省、国防省に振り分け、それぞれの総帥を大臣と呼称し、首席宰相の輔弼とすることが続いた勅命で表明され、容保は二条斉敬から国防大臣に任じられた。
この政治体制はその勅命の最後に令徳六年正月元日を以て発足すると明記された。しかし国防大臣に内定した容保は発足に向けての準備が山積されることとなった。
今年も蓮見の宴を催すので如何と、二条関白に誘われたのは五日ほど前。しかし当日になって二条関白から、今年の宴は当方で病ありにつき、中止にしたいと書状が届いた。
「届けてまいった用人の話では、女房の中に疱瘡が流行っているとか」
修理が言えば、容保は眉をひそめた。
「京ではまだ種痘が広がっていなかったか」
「会津の者は種痘のお陰で、罹ることはありやせぬが……」
先代・容敬の頃、国許では疱瘡の種痘が大々的に行われた。とは言え容保や正室の敏姫に万が一のことがあってはならぬと、種痘は藩士とその家族に限定されていた。しかし文久二年、敏姫が疱瘡により死亡、続いた京都守護職拝命を受けて、容保は上洛する全員に種痘を受けることを厳命したのだ。勿論、容保と修理もその折に受けている。
ここ数年、京都市中で散発的に疱瘡の流行が続いている。ほとんどの場合三十人ほどの患者が出れば、新たな患者が出ず、半年ほどすればまた違う地域で繰り返す。その度に公用局に命じて蘭方医の協力を受け、種痘を市中に広めようとしたが大して成功せず、感染流行を食い止められないのが現状だった。
「……二条さまがかからねばよいが」
「それももちろんでごぜえやすが、御所に広がらぬか、心配で」
「うむ……帝に警戒を奏上申し上げた方がよいやも知れぬ」
容保たちの心配は現実のものとなる。二条関白は十日後、急な発熱に倒れ、疱瘡と判った。その翌日から御所の者達に疱瘡を発症する者が現れ始めた。容保の奏上を入れて帝は病得た者は癒えるまで御所から出るべしと全ての者に命を下していたが、それが逆に誤解を招いた。疱瘡を得れば二度と御所には戻れぬものと風聞が広がった結果、疱瘡を患いながらも地下者たちは隠し続け、結果として疱瘡が爆発的に拡がり始めた。
「帝に二条城に御移りになられてはと奏上申し上げたが、参議方が帝が御所を離れるは前例に非ずと」
容保は嘆息しながら真紀に言う。真紀は眉をひそめながら、
「軽い疱瘡なれば罹っておいた方がよいでしょう。二度と罹ることがないですが。ですが病の軽重は解らぬもの」
「疱瘡避けの祈祷を参議方の発案で始めるそうだ……どれほど効くか眉唾ものだがな」
そして最も怖れた事態となった。
帝が発熱で倒れ、典医によって疱瘡と見立てられたのだ。御所は帝の本復を祈る場と化した。
疱瘡は高熱と全身に広がった膿疱が主な症状だが、膿疱が破れ、熱が下がれば回復の兆しとなる。数日間熱に魘された帝は熱が下がり膿疱も破れたと典医が見立てた為、皆安堵の溜息を漏らしたある夜のこと。
「御方さま、市元屋から使いの者が」
修理から書状を受け取り、いつもと変わらぬ様子で目を通した真紀の顔色が変わった。
「修理どの、使いの者は?」
「は、すぐに返事が欲しいとのことで待っておりやすが」
「急いで通して下さい。通したあと、藩医の友野どののところへ使いを出して。以前頼んだ調合の薬を持ってくるようにと。とにかく大急ぎで」
常にあらざる真紀の様子に修理も慌てて走った。穣太郎の手習いの成果を見ていた容保が怪訝そうに見ているのを、真紀は視線だけで呼び寄せれば密やかに問われた。
「如何した」
「確かではありませぬが、帝に何ぞ起きたやも知れませぬ。詳しく説明する間はありませぬが、毒を盛られたやも」
「何だと」
「声が大きゅうございます。確たる証拠はありませぬ。ですから誰にも漏らさぬように。しかし万が一のことがあれば、取り返しが付きませぬ」
「………そうだな」
「これよりしばらくの間、御所に詰めねばならぬやも」
「判った。では穣太郎や家老達には江戸に向かったと言っておこう。しかし何かあらば」
「いいえ」
真紀が低く、強い口調で言う。
「万が一のことなど、起こさせませぬ」
「真紀」
「私の知る『後の世』では帝の御逝去が会津の行く末を定めたとされてきました。だから考えうる限りで、準備を調えてきたのです。帝には生きて、新たな政を見て頂かなければなりませぬ。今この時は私の知る『後の世』と既に変わった動きになりつつあります。その動きを止めぬ為にも、帝の御命、必ず留めてみせます」
「だが」
「容保どの、話はまた。とにかく参ります」
慌ただしく廊下を走り出した真紀の後ろ姿を見送って、容保は口に出来なかった言葉を反芻する。
だが真紀、人の生き死にをその手に引き受けては、そなたが辛い思いをするだけだぞ。
御所には、帝の本復を信じる空気が流れていた。容保は幾分重い心持ちで、少し浮かれた雰囲気の御所の奥へと進む。真紀が慌ただしく御所に向かってから三日。此度のこと、暫く口外無用に願候と短い書状が届いたが、それきり真紀からの便りはなかった。
「……帝は如何でしょう」
容保が恐る恐る切り出せば、未だ本復しない二条関白の代理を勤める三条実美が能面のような無表情で応えた。
「ゆるゆると御回復の由。近き内に床上げも叶いましょう」
参与達からは安堵の溜息が漏れたが、その用意されたかのような三条の言葉に容保は内心だけで怪訝に感じた。
だが真紀に口外無用と言われている以上、追及も出来ず、凝華洞に向かおうと御所の廊下を渡り始めた時、容保は密やかな呼び掛けに気付いた。
通されたのは小さな部屋。しっかりと板戸が閉まっているのを確認して、呼び掛けの主は振り返った。
「御呼び立てして、申し訳ござりませぬ」
「いや。そなたは確か、帝の御差の」
「はい、尹宮大夫・矢田部雅頼の妹、伊織と申します。一柳さんから帝の病状を御伝えするようにと言付かって参りました」
容保には何度か見かけたことがあった女官だった。真紀の誘いで夜の御所に訪れた時、帝が御座する部屋の板戸の明け閉めをしてくれる女官で、真紀によると高位女官ではないが、帝の信任篤いと聞いた。
初老の女官が深々と頭を下げるのを留めて、
「帝の病状は、如何なることで」
「実は今朝まで、一柳さんが仰るには予断を許さぬ事態とのことでした。今日中に帝の御目が開かねば、玉体が保たぬとのことでした」
静かな言葉に容保は眉をひそめた。
「ですが先程御目が開きました。一先ず、御命は安堵とのことですが……」
伊織は目を伏せたまま、
「帝には、両の脚が御動かしなされぬとのことです。一柳さんが仰るには、帝は一時心の臓が動かぬ時があられたので、その時両の足を動かすための御頭の中の糸とやらが切れたのではないか、しかしその糸が繋がることもあるが、繋がらないことも有り得ると」
脚が動かぬ。
容保は茫然と伊織の言葉を小さな声で繰り返す。
沈痛な面持ちで伊織は頷き、
「帝にあらせられては、このような玉体では政の旗幟となるには難しい。譲位も致し方無い、とのことでございます」
譲位。
静かに告げられた言葉に、容保は自分の体が小さく震え始めるのを感じていた。
三日前、真紀は決然と言った。帝の御逝去が会津の行く末を定めたと。それは真紀しか知らない『事実』だろう。だからこそ生きて、新たな政の行く末を見届けてもらわなくてはならぬと。
だが、疱瘡の為か、服された毒の所為か判じることは叶わぬが、帝は退位を考えている。それは真紀しか知らぬ『事実』の中では、何を意味するのか。
「未だ判りませぬ。一柳さんは望みはないとは仰りませなんだ。ですが帝は譲位の意有りということです。一柳さんは妾に仰いました。如何なことがあろうとも、会津は動じてはならぬと。そのように御伝え申し上げよと聞き及びます」
「……忝ない」
真紀が黒谷に帰ってきたのはそれから五日ほどしてからだった。容保が御所に参内中に密やかに帰参したらしく、夕刻容保が真紀の部屋を覗けば寝床でぐっすりと熟睡していた。
修理によれば、
『昼頃お帰りになりやした。昼餉を召し上がったらそのまま床を召されたようにごぜえやす。右筆頭の話では八日ほどほとんど御眠りになってねえとかで』
八日と言えば真紀が御所にいた日にちと一致する。ほとんど寝ずに帝の側にいたのだろう。安らかに眠っている真紀の顔には、しかし疲労の色が濃かった。
容保は右筆たちに真紀を起こさぬこと、しばらくは穣太郎も遠ざけることを命じて、広間に向かう。
御所の奥で秘されていた帝の病変は、しかし人の口に戸板は立てられず、真しやかに拡がり始めていた。公用局がそれを察して容保に進言してきたのだ。容保は主だった者を広間に集め、他言無用と前置きして、
「帝が御崩御されたとは全くの流言である。しかし、疱瘡が思いの外重大で快復に時がかかるのは事実である」
「しかしながら疱瘡で十日を越えても不調とは」
田中土佐の言葉に容保は頷いて、
「確かに。しかし数日前に回復の兆しありと典薬寮は判じたとのことだが……帝にあらせられては玉体の衰え甚だしく、譲位もお考えとのこと」
広間が一瞬の静寂の後、響動めく。
「譲位、でごぜえやすか?」
「うむ。しかしこれはあくまで数日前に聞き知った風聞にて、帝の思いは違うやも知れぬ。よって他言無用ぞ。とは言え、譲位の見込みを捨ててはならぬ故に、起こりうる事態に備える支度は内々に調えよ」
広間の全員が深々と頭を下げるのを、容保は静かに見つめていた。
容保の私室に内蔵助と土佐、修理と秋月と公用局詰めの数人が集まる。譲位に備えた支度の話が一通り済めば、話題は必然と帝の病状となった。疱瘡は会津にとっても種痘が浸透するまで身近な病だった。命を落とす者も少くない恐ろしい病だ。とは言え、その場の全員が種痘を施されているので罹患の怖さは未経験だ。
「それほど帝は重かったんだべ。とすれば十日前に本復の兆しと言うのは見立て違いであったんだべが?」
「内蔵助さま、疱瘡は二度高熱を発することがあると聞きやす。帝はそれだったのではありやせんか?」
「なるほど」
「……広間では言わなんだが、何度か心の臓が止まられたとか。それ故か両の脚が動かすこと能わずと」
容保の言葉に一同言葉を失う。
「そ、そのようなことがあるのでごぜえやすか」
「解らぬ。しかしおみ足の回復せねば御譲位ということになろう」
「毒のことを知らせなかったのは賢明な御判断でした」
二晩眠り続けた真紀は、三日目の昼過ぎに目を覚ました。御所から帰った容保が見たのは薬椀を飲む真紀だった。先日広間と私室で語ったことを容保が言うと、真紀から帰ってきた応えだった。容保は眉をひそめて言う。
「ならば毒ではなかったのか?」
「いいえ。毒には間違いございませぬ。典薬寮の医師達に確認したところ、確かに回復の兆しが見られたにも関わらず、昼餉の粥を召し上がられてしばらく後に腹が痛いと苦しまれ、私が駆けつけた時には心の臓が止まっておりました。二日ほどは心の臓が止まっては蘇生……心の臓が動くように胸に按摩を施し、しばらくすればまた止まるの繰り返しで」
真紀は深い深い溜め息を落とす。
「伊織どのに容保どのへ言付けを頼んだのは、心の臓が止まることがなくなった頃ですが、帝はお若くていらっしゃるから体が御強い。心の臓が止まっても回復するとは思っていたのですが……まさか、麻痺が残るとは」
「麻痺とはおみ足が動かぬことか」
「ええ。お目覚めになられてからは女官達に足の按摩と、帝にはおみ足を動かそうとするよう心がけて頂くようにお願いしましたが……」
「おみ足が動かねば、帝はまことに退位される御趣意なのだな」
「恐らく。帝自ら仰せになるのも聞きましたし、私が下がる前日、御簾越しに祐宮さまと外祖父の中山忠能どのをお呼びになり、即位の準備怠りなきように進めよとご下命されました」
となればもう確定でしょう、帝の御退位は。
真紀の寂しそうな表情がしかし、一瞬にして変わる。
「しかし、毒が供されたのは間違いないのです。このようなことがあってはならぬと、私は過日、帝に銀器揃えを差し上げたのです」
聞き慣れぬ言葉に容保は数度瞬きする。
「銀器揃えとは」
「西欧のみならず、清や朝鮮においても貴人の食器は銀と習わします。その理由は銀が毒に反応して忽ちに変色するためと言われています」
そのために長崎で清渡来の銀器揃えを長崎組に仕入れて貰い、帝に献上したのだと言う。真紀の献上品を帝は常日頃使っていたのだ。
だが疱瘡から回復し始めた帝の食事を見た伊織は、その食事が真紀からの銀器に盛られていないことに気付き、すぐに止めようとした。しかし、御差という位は高位女官の中であっても下位女官に過ぎないことから、止めることは叶わず、代わりに御膳所の長櫃の奥に隠すように仕舞われた銀器を見つけたのだ。見るに無惨に変色していたそれを見つけて、伊織は知己の市元屋を通じて真紀に至急の報せを送った。
ただ一言、銀器変色せりと。
「つまり……その銀器が変色していたということは」
「容保どのが銀器が毒で変色することを御存じないのも無理はありませぬ、それを知る者は僅かでしょう。ですから当然毒を供した者も知らなかったはずなのです。だからこそ忽ちに変色した銀器をしまいこみ、常にあらざる設え方で帝に供した。ですが銀器献上の折、伊織どのにも銀器が何故に必要なのかお知らせしていたので、伊織どのは異変を知ることが出来たのです」
真紀は思い出す。
銀器献上の場にいたのは、帝と尹宮、そして伊織のみ。献上の銀器揃えを受け取った帝に銀器を使う真意を伝えた。尹宮はそのようなことはあるまいと眉をひそめたが、万一があってはならぬと、帝は銀器を使うことを承知したのだ。事前に察すればそれに越したことはあるまいと苦笑しながら。
容保は眉間の皺を深くしながら、
「ならば、毒を供した者は分からなかったのか」
「内々に伊織どのが調べてくれましたが、御膳所の者、膳を運んだ女官、帝の膳に関わる者全てに常にあらざる様子はなかったとのことで」
真紀は深く嘆息しながら、容保を見つめる。
「尹宮も動いて下さりましたが、判ぜぬままです。ですから宮と当面、帝が毒を供されたことは秘した方が良かろうとの話でまとまりました。無論、捜索は続けますが……」
「真紀、そなたは見つからぬと思っているのだな」
容保の言葉に真紀は頷く。
疑わしきは数限りなく存在している。だが、疑わしい人物を内々に調べていくには、御所は小さな世界だ。いくら秘した捜索でも、人の口に戸板は立てられない。そうなれば真の犯人を、そしてその後ろにいるであろう黒幕を取り逃がすことになる。
『無理であろう、朕を害したい者は朕に覚えがのうてもいくらでもおるやろ。表沙汰にするだけ、会津の損や。朕の寵を笠に着て泣言を唱えると一蹴されるだけや。明らかなる裏付けがない限りは蜥蜴の尻尾切りとやらになるだけやからなぁ』
脚が動かず、顔に赤い痘痕が残る以外は平素と変わりない帝が苦笑しながら言った。
真紀が一度黒谷に帰ると決めた朝、帝がしばらく来るには及ばぬ、しかし再びのことと祐宮に何ぞがあってはならぬ故、新しい銀器揃えを二揃え献上するように言った後、呟いた言葉を真紀は忘れられない。
『朕はそなたの銀器と医術に救われた。だが、朕の命など取っても、新たな政は止まらぬというにのう』
「……犯人探しは御所の中でも悟られぬ程にゆるゆると進めるしかありますまい。ですが、それでは恐らく何も判ずることが出来ぬままに終わるでしょう。帝もそうなるであろうとは仰いました。ですから、先ずは今後のことを考えねばなりません。帝は仙洞御所の修繕が終わり次第御移りになり、祐宮さまが登極されます。帝は新たな政に最初から組み入れた形で祐宮さま即位を進めよとのことでした。恐らくそのことで、参議たちから苦言が出ましょう。尹宮が摂政を勤めることが内定していますから、宮さまと連繋を密にして、参与も動かねば」
容保は力強く頷いて、部屋の外に控える修理を呼び寄せた。
「何事でごぜえやすか?」
「福井さま、伊達どの、島津どのに急ぎの文を送る。明朝、凝華洞へお集まり頂きたいと書くので、必ずや返事を得て帰参せよ」
「は、すぐに手配いたしやす」
修理に続いて容保も部屋を出ようとして振り返る。床から立ち上がろうとする真紀に、
「真紀、そなたはまだ休め」
「いえ、私も」
「無理はするな。今そなたがせねばならぬのはもう少し休むことだ」
強い口調で言われて真紀は渋々床に入り直した。それを確認して、容保は頷いて部屋を出ていった。
床に入ったもののなかなか眠気に誘われず、真紀はため息混じりに寝返りを打つ。
御所に駆け込んで帝の看病をしたここ数日のことを思い返していれば、障子の向こうの陽光が夕焼けのそれに変化し始めたことに気付いた頃、ようやく眠気に誘われた。そうなって初めて真紀は自分の体が重く感じ、疲労感に襲われた。
ああ、疲れているのね。
なんだか前より疲れやすくなったのかしら。
でも、眠れば大丈夫。
真紀の瞼がゆっくりと閉じた。
その考えが、実は常にあらざることだったことに気づくことなく、真紀は再び眠りについた。




