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foundation  作者: なみさや
真誠
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残された償い





だが、事態は違うところで動いた。

二月半ばの厳しい寒さが未だ残る頃。白い息を吐きながら帰ってきた容保は幾分憔悴していた。真紀は怪訝けげんに感じながらあえて問わず、いつものように容保の身なりを整え、穣太郎を加えて夕餉ゆうげを取った。穣太郎が今日あった出来事を容保に語るのもいつもと変わらなかったが、容保の様子は常ならば穏やかに微笑みながら穣太郎の他愛もない話に耳を傾けるのに、今日に限って生返事で、穣太郎ですら今日の父上は変ですと言われても、そうかと上の空で返すばかり。見かねた真紀が父上はお疲れなのですよと幾分不貞腐れた穣太郎を下がらせたほどだった。

早めの就寝を進めた真紀に、しかし容保は酒を所望し、真紀はなおのこと怪訝に感じながらも幾分少な目の酒を用意させ、側仕えを下がらせた。

静まり返った部屋で、真紀は切り出す。

「今日は二条城で、公方さまをお見送りされたのでしょう? 何かありましたか?」

「うむ……」

大政権奉還なったのが半月前。

帝は将軍職の返上までは求めず、寧ろ将軍・家茂の東帰を認めた。正室・和宮が第二子出産を控えており、それを理由に東帰を許したのだ。勿論、参議からはこの時期に東帰を許しては騒擾の種になると反対も上がったが、帝が押し切る形で東帰が実現した。

容保は見送りに二条城に参じたのだが、常ならば慶喜か春嶽、どちらかと共に謁見するにも関わらず、今日に限ってたった一人で謁見することになった。そのこと自体異例なのだが、家茂に切り出された言葉に、容保は戸惑う。

『会津には藩祖から受け継ぎし家訓があると聞いている。徳川宗家に一心に仕えよと伝わるとか』

『藩祖・土津公が三代将軍家光公より直々に宗家を頼むと遺言されたことから始まると聞き及びまする』

『そうか、ならばその役目、将軍のすえであるわしならば解くこと叶うか』

『……は?』

『大政権奉還の今となっては、徳川宗家の守護者という名目、会津のしがらみにしかならぬであろう。よって、わしが命ずる。宗家の守護者なる役目は今この時をもって解く。長きに渡り苦労をかけた。かたじけない』

上座ではあるが、深々と頭を下げた家茂に言葉を失った容保は慌てて言葉を紡ぐ。

『お止めください、公方さま!』

『いいや、これからは将軍とは言えどもそなたたちの上に立つ存在ではない。長きに渡る会津の役目に、心から感謝する』

「なかなか頭を上げてくださらなんだ……しかし、公方さまに役目を解くと言われても、如何にすべきか……」

「公方さまが仰った通りでしょう。公方さまは会津を気にかけて下さったのです。もし宗家の守護者の役目を持ち続けたならば、新しい政の御代に柵、疑念を持たれてはならぬと」

真紀は小さく溜め息を吐いて。

「容保どのは如何にお思いですか?」

「分からぬ。しかし、ただただ如何に判じてよいか、分からぬのだ」

容保は考えあぐねていた。

懐に入れていた書状を目の前にしても、動揺は続いていた。真紀は容保の前に広げていた書状に目を落とす。

その書状は謁見の終わり際、家茂が容保に渡したものだった。内容は容保が家茂に告げられたものと同じ、宗家の守護者なる役目を解くというもの。家茂が穏やかに微笑みながら、家臣たちに見せるがよかろう、これならば御家訓に背くわけではないことを家臣も納得しようと言ったという。

「公方さまとは、何とも心配りができる御方だったのですね」

家茂の口から告げられても、書状を目の前にしても、容保はまだ考えあぐねていた。

「……真紀、わしはどうすればよいのだ」

真紀はまっすぐに容保を見た。

良人おっとの動揺は、理解できる。

幼くして養子として会津に来て、初めての入国前に養父の手ずから渡された時、告げられた言葉。

会津の者ならばそれをそらんじ、心に刻んで生きねばならぬ。そこに、土津公の全ての思いが籠っておる。そなたは、土津公の血を引いてはおらぬが志を継ぐことはできようぞ。

それから一心に御家訓を心に刻み、生きてきた。

御家訓故に、京都守護職を拝命した。

真紀が『心の痛み』と言った容保の辛苦は御家訓が理由であり、その一方で御家訓を支えに耐えてきたというのに。

未来永劫続くものなどない。

真紀が伝えた、土津公の言葉が今更ながらずっしりと臓腑の上にのし掛かるかのような錯覚を覚えた。

「………わしは、変わらぬと思っていた」

「容保どの?」

「そなたは言ったな。未来永劫続くものなどない、と。だがそれであっても御家訓こそは未来永劫続くものであって、これを固く固く守っておれば、それこそがわしが会津藩主の証となろうと、信じていたのだ」

先程呷あおるように飲んだ酒は一向に酔いが回らない。真紀が容保の常にあらざる様子を見て、幾分少な目に供したせいもあるのだが、酒の酔いに任せたい心持ちだった容保には、酒量は少なかった。しかし容保はそれを愚痴る人間ではない。ただ、心底の吐露を続けていた。

「だが、土津公の御言葉が正しかった。未来永劫続くものなどないのだな」

「容保どの」

家茂の書状に目を落とす。そして目を閉じた。

「宗家の守護者を自認しても宗家がそれに及ばずと断ぜられたら、そこまでだったのだな……」

「容保どの」

しばしお待ちを。

真紀の言葉が聞こえ、衣擦れが遠退とおのく。それもわずかな時で、目を閉じたままの容保の耳に再び衣擦れが聞こえて、真紀の声が聞こえた。

「容保どの。お見せしたいものがあります」

目を開ければ、見慣れぬ銅箱を手にした真紀が容保の前に座っていた。真紀が家茂の書状を丁寧に片付けた後、持ってきた箱から書状らしきものを取り出した。

「どうぞ」

「これは?」

「もうどれほどの時が流れたのでしょうね。これは正之どのから託された書状にございます。末の藩主が迷いし折りに渡して欲しいと預かりました。今の容保どのにこそ、必要なものと思います」

さらりと告げられた名前に一瞬理解が追い付かない。しかしすぐに容保は瞠目する。

「土津公が?」

「はい。亡くなる少し前でした。私の時知らずの身のことをお伝えしたのち、正之どのから後の世で渡して欲しいと渡されました。私が相応しき者と定めた者が、相応しき時を迎えし時に渡して欲しいと預かったのです」

思わず震える手で置かれた書状を持ち上げる。畳紙(たとうし)を開けば、二つ同じような畳紙に包まれた書状が現れた。一通の表書きは真紀にとっては見覚えのある筆跡で『後の者へ』、もう一通には『万喜どのへ』。

「私に?」

容保から手渡された書状を真紀は凝視していたが、すぐには開かず容保に『後の者へ』と表書きのある書状を読むように促した。容保はゆっくりと畳紙を開く。

広げた書状には、今や神と崇められる人の、僅かに癖のある筆跡が数百年前に書かれたと思えぬほどの墨痕鮮やかに並んでいる。





後の者へ。

これを読むということは、真紀がそなたこそが会津藩主として相応しい者であり、また御家訓第一条に我が記せし宗家の守護たると背馳はいちの事態に陥り、苦難の時を迎えしことと存ずる。

我は庶子であるが故あって兄より信賴にたると認められ、会津宰相の誇称をけるまでに至った。故に、兄たる将軍に宗家の行く末を頼むと遺言され、これをもって御家訓なるものを会津に遺すものとする。

したが民あってこその会津、会津が泰らかであってこその、保科家である。これを忘れて御家訓のみに心囚われては、自滅の道を辿ることとなろう。それ故に我が育ての親、共にありし一柳真紀に我が遺言をもって会津に留まらせた。会津を、会津の民草の暮らしあってこそ、保科家があるということを忘れぬ為に会津に留め置き、代々真紀の教えこそ我が遺志とする。

しかし、後の者よ。

汝は御家訓と真紀の教えたる会津の志の背馳はいちで心揺れるか。

ならば、我は真紀がこの書状を渡すに相応しき者と見定めたこと故に、ここに認め置く。

汝が心に定めし御家訓は、会津の志がその底にあってこそ成り立つもの。故に、背馳となりし時は御家訓よりも、会津の志を先とせよ。

よって、御家訓一条、宗家の守護者の役目を解く。しかし今爾こんじも宗家の行く末を見守り、困窮の折りは手を差し伸べよ。





どれほどの時が経ったのだろう。

容保は真紀の静かな呼びかけに我に返った。

「正之どのは何と?」

「……」

無言のまま、容保は書状を真紀に差し出す。真紀はゆっくりと読んで、それから穏やかに微笑んだ。

「正之どのらしい、文ですこと」

「真紀」

「私は正之どのに、時知らずの身であることをお伝えした折り、後の世に会津の者が数千、新たな御代の贄になるとお伝えしました。それは容保どのにお伝えしたものと同じです。正之どのはずっと考えこまれた様子でしたが、その折りの答えは私に会津とこの書状を託すというものでした」

「……ならば、土津公はわしがこのように思い悩む事態が来ると分かっておられたのか」

幾分恨めしい容保の口調に、真紀は苦笑する。

弟と認め、世に引き上げてくれた長兄との末期の約束を、正之は守りたかった。だから藩是はんぜとして御家訓を定めた。だが真紀に後の世に悲劇が起こることを告げられて、思い悩んだ。そして、真紀に託すことにしたのだ。自らが定めた御家訓を、『後の者』の柵にならぬようにと。

「分かっていたのでしょう。私はただ『後の者』にこの書状を届けるように託されただけ。無論、読んでもおりませぬよ。正之どののせめてもの償いと思うことは出来ませぬか?」

「償い、か」

危篤を知り、駆けつけた真紀に、正之は静かに言った。

世話をかける……揺らがぬものが、なくてはならぬ。

だが……真紀、すまぬ。先に、逝く。許せ。

今際いまわの際の言葉が鮮やかに脳裡に浮かぶ。

庶子として、父の正室に認められぬまま市井に埋もれて生涯を送るはずだった正之を、異母兄が引き上げてくれたこと、重用してくれたことに正之はどこまでも恩義を感じていたからこそ、残した御家訓だった。

だが、その重荷がいずれ会津の贄を招くと聞かされて、後に続く者たちの苦難に思い至り、しかし宗家の守護者たる役目を解くわけにもいかず、全てを真紀と、『後の者』に託したのだ。

それが、正之の遺された償いだった。

「真紀……なぜ泣く?」

困惑した容保の声に、真紀は自分の頬を涙が伝うのに気づいた。慌てて拭うが、涙は止まらない。容保が溜め息を落としながら、真紀の頬を拭う。

「なぜ泣く? 何か思い出したのか?」

「……すみませぬ、遥か昔のことを思い出しました。詮なきことは分かっているのですが」

ほろりほろりと溢れる涙を拭っていた容保だったが、不意に手を伸ばし、真紀の身体を抱き寄せた。真紀愛用の香り袋の、薄荷の匂いが容保の鼻をくすぐった。

抱きしめながら容保は真紀の背中をゆっくり軽く叩く。少し前まで穣太郎が夜泣きをすれば抱えあげ、背中を拍子を取るように叩いてやれば穣太郎の夜泣きが治まることを知っていた。同じことをすれば、自分の胸の中に収まった真紀が幾分、くぐもった声をあげた。

「私は穣太郎より子供ですか」

「穣太郎の夜泣きはもう治まったではないか」

「……これは夜泣きではありませんよ」

「……まあ、そうだが」

容保の胸の中におさまった真紀が容保を見上げる。顔を見ればもう涙は止まったようで、容保は手を離した。

「土津公のことを思い出したか」

「ええ。小さな赤子の時から、その死まで看取りました。私にとっては穣太郎と同じです。元服してからは側にいることも少なくなりました……とても思慮深い、けれど常に幕閣を束ねる者として考える人でした」

最近、特に思うのだ。黒船来航以降の幕府の迷走を見るにつけ、もし『会津宰相』と呼ばれた正之がいたならば、どんな舵取りをしたのだろうと思う。だが思ったところで、叶わぬことに気づいて自分の愚かな思いつきに苦笑するしかないのだが。

「私は正之どのに数百年の安寧の後に、としかお伝えしませんでした。ですが、私と私の言葉のみを信じてくれた。それが嬉しいのです」

微笑む真紀から差し出されたのは、先程『後の者へ』の書状と共に現れた真紀への書状。

「先程、容保どのが書状を読まれている間に読みました。よろしければ」

「……よいのか?」

真紀は微笑みながら頷いた。容保は書状を受け取り、目を通す。

そこには、正之の真紀に対する感謝の意、『後の者へ』の書状の内容と、それに続いて思わず瞠目する言葉が認められていた。

「真紀、これは」

「はい。正之どのは会津が宗家の守護者の役目を降りたのであれば、私に与えた守護の役目を解く、と」

しかしと、真紀は先を読むように促した。

保科家が、宗家の守護者たる役目を終えたのであれば、そなたにいつまでも会津の守護を願うのは酷いこと。よって、守護の役目を解く。そなたにはおそらく長きに渡り、辛い役目であったと思う。どれほど言葉を尽くしても、そなたに感謝をしきれぬ。

ただ、もしそなたがこの書状を読んでもなお、会津と共に歩み、そなたが本来いるべき時まで会津にありたいと願うならばそのようにせよ。それが我を育て、長年の役目を果たしたそなたに、我から与えることのできる唯一のものである。

そなたの、これからの幸いを祈っている。

「無論、私の心は定まっております」

容保が読み終わった頃合いを見計らって、真紀は静かにしかし強い口調で言った。容保が弾かれたように顔を上げた。真紀の穏やかな視線と、容保の動揺した視線が絡む。

真紀はいつものように穏やかに微笑むながら、同じ言葉を繰り返す。

「私の心は、定まっておりますよ。容保どの」

「……真紀」

「正之どのが役目を解こうと、私が会津を離れることは話が違います。確かに有り難いと思います。会津に私の拠り所を与えてくれたこと。正之どのがそうしてくれなければ、私は容保どのに出会うことも、穣太郎に母と呼ばれることもなかったのですから。でも、役目を終えたとは言え、それが会津を離れる所以ゆえんにはなりませぬ。私が会津を離れるのは、容保どのの最期を看取り、穣太郎の行く末が定まってからのこと。今ではありませぬ」

微笑みながら告げられた言葉に、容保は思わず言葉に詰まる。喉が塞がれるような感覚に襲われながら、容保は言葉を絞り出す。

「よい、のか」

「容保どのが私をめとると仰ったあの日から、そう定めて参りました。共に死ぬことは出来ませぬが、容保どのの最期まで共にあることはできます。だから、最期までお側におります。これは正之どのではなく、私が定めたことです」

静かな声。しかし、その言葉は峻烈に容保の心をえぐった。

忘れていた。忘れていたと言うよりは寧ろその事実に容保は目を背けたかった。真紀が時知らずの身を持つ者で、自分の方が先に逝き、時知らずの身を持つ真紀を一人残してしまうのだと、認めたくなかったのかも知れない。だが、真紀はそれを分かっていた。分かっていても、死すまで側にいると微笑む。

「すまぬ……」

容保は一言、絞り出すのが限界だった。

次から次に溢れる涙を抑えきれず、俯きながら右手で両目を押さえるが、熱い涙はポロポロと溢れ、手指の間から、ポタリポタリと畳に落ちる。

衣擦れの音がすれば、容保の身体はふわりと真紀の香りと、仄かな暖かさに包まれた。

「よいのです。私が定めたことです。その時まで、お側におります」

「真紀、すまぬ……」

「謝らないでくださいな。まるで容保どのが悪しきことをしているようではありませぬか」

真紀は静かに告げながら、容保の背中に回した手で、容保の背中を柔らかく叩いた。

「本当に、我が家には穣太郎の下にまだ子どもがいるようですね」

「……夜泣きではないぞ」

「はいはい、わかっておりますよ」

揶揄やゆするような真紀の答えに容保は思わず苦笑する。

「まったく。よほどわしらは子どもということか」

「……そうですね」







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