異変の兆し
令徳四年も瞬く間に過ぎていった。
江戸も京都も新たな政の形を整える評議が続き、その成り行きを市井は固唾を飲んで見守る日々が続いていた。
江戸と大阪を江戸の国事公用掛と京都の国事参与掛の書簡が船便で数えきれぬほど行き来し、その数ほどではないが、参与も何度となく上洛・東帰を繰り返した。
容保も一月置かず、江戸と京都の往復する日々が続いていたが、ある日黒谷に帰りつくなり、真紀に告げた。
「なんとか形になったようだ」
真紀はいつもの微笑みで返す。
「ならばこれほどの行き来、しなくてよくなりますね」
「とは言え、わしの役目はまだ続くようだ」
小さく溜め息を落として、容保は呟くように愚痴る。
「一橋さまは、幕府どころか朝廷の形までを変える。国事参与掛を新たな政に組み込むおつもりだ。これでしばらくは国許には帰れぬが……」
「致し方ありますまい。ですが、国許の負担は随分と減りました。先日、頼母どのより書状が参りましたよ。今年は随分と米が豊作だったこともあり、藩士の俸禄買い上げを止めたどころか、借財の返す目処も幾分ついたとことです」
「それはよかった。国許も滞りないようだな」
「藩主代理のお勤め、これで終わりになるならそれに越したことはありませんね」
容保が何度となく京都を明けるので、会津の藩政がその都度滞る。それを憂えた容保が家老達に代理を預けようとすると家老達から異論が上がった。自分達が藩主代理を引き受けるには畏れ多い。本来ならば継嗣である穣太郎が為さねばならぬ役目だが、穣太郎君幼少にて叶わぬならば、穣太郎君の養母であり容保の御側室である真紀に委ねてはと家老格一致して容保に進言したのだ。よって容保が京都不在の折りは真紀が藩主代理を努めている。
そう言えばと、容保が切り出した。
「定敬は如何しておる? 黒谷に来ておるか?」
「桑名家は福井さまと協同して、よく勤めておられますよ。過日は帝よりお褒めの言葉を頂いたそうです。それはそれは嬉しそうに定敬どのが仰っていました」
定敬は容保が不在の時でも、黒谷によく訪うようになっていた。穣太郎の相手をして、真紀に助言を請う。定敬がそんな些細な事が楽しいのだと語ったと真紀が言えば、容保は幾分複雑な表情を浮かべた。
「容保どの?」
「なんとのう……妬けるな。定敬がわしよりも真紀や穣太郎といるような気がして」
答えようのない、八つ当たりのような容保の言葉に、真紀は笑み溢す。
「よいではありませぬか。これからは容保どのも黒谷にいらっしゃることが出来るでしょう? あまり妬いてはいけませぬ」
幾分拗ねるような容保の表情に、真紀は苦笑するしかなかった。
「寒いのう、京都の冬は何回経験してもかなわんのお」
軽く身震いする坂本に覚馬は苦笑する。
「やはり土佐よりは寒いでしょう? 会津に比べれば雪が重いけんじょも、寒さはそれほどでもねえ」
「ほうか? 雪に重い軽いがあるかよ」
どかりと座った坂本は、火鉢で手を炙りながら、
「一柳さんは元気かや?」
「はい。先頃までは殿が江戸との行き来が多かったので、嗣子の穣太郎君に代わって藩主代理をお役目にされておりやした」
「道理で。呼び出しても出て来んはずや」
気軽に言うが相手は御側室やぞ、と覚馬は内心苦笑する。
とは言え、覚馬が坂本と知遇を得たのも、真紀のお陰だった。初めて会ったのは真紀の伴をして訪れた薩摩藩邸。真紀に馴れ馴れしく話しかける坂本を最初は煙たく思えたが、真紀が西郷吉之助と話をしている間に、坂本の語る壮大な未来や夢の話に引き込まれた。それ以降、覚馬は坂本が京都に来る度、黒谷近くの自宅に招くようになった。
「ああ、うらさん。すまんのう、いっつも押し掛けて」
「いいえ。おいでになるとお聞きしてやしたから、軍鶏鍋にしやしたよ。熱燗でよろしいべか?」
「おうよ、まっこと悪いのう」
大らかな坂本の気質は山本家でもすぐに受け入れられ、物静かな妻のうらも楽しそうに膳の準備を整え、出ていった。
「川崎さんは?」
「先程まで角場におりやしたな。ああ、尚さん」
妹婿の川崎尚之助がうらから受け取ったのだろう、小さな火鉢と熱燗用の金盥を用意するのを待ちきれないように坂本が声を上げた。
「川崎さん、奥方はどうじゃ? そろそろ生まれる頃合やろう?」
「今日明日にも生まれるというのに、大きな腹で角場に来るのでひやひやしてますよ」
坂本は呵呵と笑って、
「まっこと奥方ははちきんよのう! うちの姉やんのようや」
八重の懐妊が分かったのは晩夏の頃。最初に気付いたのは同居しているうらだった。既に二人の娘に恵まれたうらは八重の食の好みが変わったと指摘したが、八重は違うと言い張り、その次の日真紀の目の前で立ち眩みを起こした。真紀が慌てて医者に見せて懐妊が分かったのだが、呼び出された夫の尚之助は八重共々、珍しく真紀の大目玉を食らったのだ。
「あの時の御方さまには驚きました。八重さんを声を荒げずに叱責されたのですから」
「ほう? その話は初めて聴くのう」
尚之助は苦笑しながら、坂本に酌をする。
「自分の成したいこと、思いが向かうことばかりを優先しては、大切なものを失うことがある。一途に自らの役目に捕らわれて、後悔するようなことがあっては、一生自分の中に治らぬ傷を作る。大切なものが目に見えることなら、尚更に大切になさいと。私にも奔放な妻の、時には手綱を引くのが夫の役目。その逆も然り。それが夫婦というものだと」
決して強い口調ではなく諭すように告げられて、八重は号泣しながら真紀に謝り、真紀は謝る相手が違うと、いつものように微笑んでいた。
「さすがは一柳さんやのう。そこまで言われては奥方もちったぁ大人しゅうなったやろ?」
「当面は大人しかったのですが、やはり闊達な性分ですから。先日は角場で試し撃ちをしようとして、姉上に怒鳴られました」
尚之助の妻である八重が実は銃の名手であることは、山本家と親交を深めるようになってから知った。しかし、大らかな坂本は、
『わしの姉やんはもっとはちきんやったき。おなごは強いもんや。男に出来んことをするばぁや。ちっとしたことじゃあ負けんき』
「まあ、無理はいかん。今日明日にも言うたらさすがに大人しゅう……しちゃあせんのお」
坂本の思わせ振りな言葉と幾分苦笑混じりの視線の先を辿り尚之助が振り返ると、ゆっくりと障子を開けていたのは八重だった。思わず声をあげる。
「八重さん!」
「さすけねえ。少しだけなら動いてもいいと、産婆が申しておりやした。挨拶だけで下がりやす」
はち切れそうな腹よりも反り返った腰を左手で押さえながら、八重は運んできた盆を尚之助に渡して、ゆっくりと座り頭だけを下げる。
「坂本さま、ようお越しくださいやした」
「ほんまにはち切れそうな腹やのう。それで角場とは恐れ入るちや。その子ぉは川崎さんに似いて賢い子ぉか、奥方に似ぃてやんちゃな子ぉか、どっちかの?」
「両方です、きっと。でも無事に生まれてくれれば何よりだけんじょ」
八重は言葉の通り挨拶だけで下がり、坂本と覚馬、尚之助の三人で鍋をつつきながらの酒宴が始まった。火鉢二つで広いとは言えない部屋は暖かくなった。
「江戸はどうですか? 坂本さん。やはり大政権御奉還の騒ぎが続いているのではないですか?」
「そうやのお、目に見える騒ぎはそれほどはないけんど、やっぱり人心が少ぉし荒れちゅうようには思うちや。御城の中が騒々しい」
「御城の中?」
「わしらぁは関係ないけんど、旗本の小競り合いが毎日ありゆうらしい。勝先生の話じゃ」
「……新たな政が朝廷主導で行われんことが江戸の不安を煽るようだな……だけんじょ、形は定まった」
覚馬の言葉に、坂本が頷いた。
「そうや。少なくとも、幕府は今までの幕府やない。公方さまがお認めになった以上は頭でっかちの幕閣どもはもう口出し出来んき」
なみなみと注がれた杯を頭上に掲げ、坂本は覚馬と尚之助を見る。
「ほれ、乾杯じゃ。おんしらぁも上げんかえ」
二人は思わず微笑みながら、杯を掲げる。
「ですけど、何について乾杯するのです? 異国の乾杯は何か理由をつけるでしょう?」
「うーん、そうやなぁ。何がえいかのう」
掲げたまま考え込む坂本に、覚馬は静かに言う。
「やはり新しき政の御代に、でしょう」
「おお、そうやな。ほれ、杯を合わすんじゃ」
カチンと杯がぶつかる音が三度。一様に杯を一気に明けて、坂本が呟いた。
「しもた」
「?」
「もう一回や。川崎さんとこの出産祝いじゃ」
「いや、まだですって」
「ほんじゃぁ、前祝いや」
令徳五年正月。
将軍家茂は自身四度目の上洛を果す。
一月晦日に参内し、上書を帝に奏上する。
その内容の骨子は、第一に我が国における主権者は帝であり、帝の元に新たな政権の体制を築くこと。第二に、それぞれの藩主から特に優れた者を集めて、合議機関を作り政を行う仕組みの統轄とすること。第三に帝の命により、国の礎とするべき定法を定めることと、これの連枝となるべき法を定める機関と、法に基づいて案件を審議する機関を新設することが記されていた。
その為には今年中に京都、あるいは相応しき場所を準備し、これらの機関を置く場所を早急に選定すべし。しかし新設機関を円滑に差配するために、改めて大政権奉還申し上げると、家茂は添えて奏上した。
形として帝は上書は容れたが、大政権奉還の儀は遷延した。しかし三日後、家茂の再びの参内の折り、大政権奉還を受諾した。
「けんど、これからじゃ。天地がひっくり返る騒動になるやも知れん。今度は京都ではなく、江戸で騒動がおこるやろう」
坂本は溜め息を落とす。
「新しいことを為すときには、大抵反対するもんがおる。利害がのうても、殺伐としちゅう雰囲気はみんなぁに分かる。巻き込まれるもんが惨いのお」
「しかしそれが解っていても為さねば為らぬことと、時がある。違いますか?」
尚之助の言葉に、坂本は杯を明けて、
「わかっちょったつもりやけんど、と言い訳になるきの。わしらぁは後の世になんと言われるやろな? 泰平の世を乱した奸物か、あるいは」
「乱れた世を革新に導いた、傑物と呼ばれたいとは思わねえけんじょも、少なくとも我が国危殆の事態に一致団結して動いた、そう評して貰いたいべ」
覚馬の言葉に、坂本は小さく頷いた。
「坂本どのが?」
「はい。気になると申しておりやした」
「そう……」
真紀は眉をひそめる。
容保が参内してしまえば、幾分本陣がひっそりするのはいつものこと。
昼下がり、穣太郎を昼寝に誘った真紀を呼び出したのは、秋月だった。部屋に入れば覚馬が控えていて、数日前の坂本が気になることを言ったと報告したのだ。
『土佐藩士に溝渕喬太郎と言うもんがおる。土佐勤皇党で攘夷の急先鋒の一人やった。腕も立つ。けんど容堂公の粛清に引っ掛かって、安田で永蟄居になったち、聞いちょった。ところがじゃ。ちくと前、わしは江戸で溝渕にそっくりな男を見たがじゃ。声かける前に見失うたがやけんど、妙に気になってのう。家老の後藤象二郎に溝渕の消息を聞いたら永蟄居は解かれて里に帰ったけんど、そこで死んだち、聞いたがや。けんど、江戸で見たのはわしは溝渕や、思うがじゃ。後藤に聞いたら、死んだ筈の溝渕が江戸やら京やらで見たち話が上がってきちゅうらしい』
それも溝渕一人やない。何人か死んじゅうに見た、言われゆう者がおるらしいと坂本は言った。そして苦笑しながら、
『わしらしゅうないち、みんなぁに言われたちや。こんまいことかも知れん。けんど分かるろうが、山本さん。蛤門の時のことがあるき、余計気になってのう。会津の人には耳に入れちょいた方がえいろうと思うたがじゃ』
「確かに蛤門の折り、長州以外は他藩の脱藩浪士が多かったと覚えておりやす。それも踏まえて思い起こさば、坂本さんの話は確かにひっかかりを感じやした」
覚馬の言葉を秋月が継いだ。
「今朝、山本からその話を聞いたのですが、それがしも気になるところがありやす。薩摩のさる藩士に、既に死したと届けられたはずの攘夷派に与した薩摩藩士に良く似た者を京にて見かけたと。気になり、国許に問い合わせたところ、死したと届けられてはいるものの、遺骸なく友人と名乗る者からの書簡にて葬式を出したという脱藩浪士が数名あるとのことで。とは言え、生きていたとしても探す術がないと、愚痴のような話でしたが」
「確かに妙な話ね。でも蛤門のことを思えば、笑い飛ばせない……」
蛤門の変も、脱藩浪士が関わっていた。あの頃長州藩は長崎での武器買収が許されていなかった。だからこそ、土佐をはじめとする脱藩浪士が一人の商人からは疑われない程度の少数の武器を買い付けて、しかしそれを多くの商人を回ることで百を遥かに超える銃を手にしていた。
あの時、会津の長崎組が偶然にしろ商人同士の会話を耳にしなければ、迎え撃つ準備など無きに等しかったかもしれぬと思えば、秋月や覚馬は思い返しても身が竦む。
真紀は眉をひそめたまま、
「同じ手かもしれない」
「同じ手、とは如何にございやすか?」
「蛤門の折りは、既に動き出した企みだった。こちらが把握した時には、向こうは既に決行日を定め、あとはその日に集合するのみ。彼らは全員での練兵も行わず、あくまで少数で動いた。御所襲撃が失敗すれば、町に火を放ち火消しに赴いた者の中で高位の者を銃撃する。さすれば効率的に混乱をきたして、再びの御所襲撃、あるいは二条城襲撃が叶う」
冷静に分析してみせる真紀の様子に、秋月と覚馬は息を飲んだ。何よりあの折り、銃撃された『高位の者』の一人が、真紀だったのだ。火消しに赴いた他藩の家老の中には、真紀が言うように銃撃され、落命した者が数名いると伝え聞いている。薩摩の西郷も軽症だったが、銃撃されたと言う。
「……だけんじょ、あれは失敗しやした」
「でも、有効な手であることには気づかれたと思うべきでしょう。こちらは参加した全員を把握したわけではない。企みを知っていて、両方が如何に動いたか分かっている者が潜伏していたら? そしてその者が、その企みに練度を上げたら?」
企みは気づけたけれども、結局は阻止できなかった。蛤門のことを阻止することは出来なかっただろうかと、仮定の話を秋月が真紀に問うた時、真紀は深く嘆息しながら応えた。
『矢は一本では折れるが三本では折れぬという。確かに人は集まれば強い。それが、体系化されればなおのこと。でも唯一無二の弱点は体系化されればされるほど、たった一人の予想外の動きには対応しきれない。矛盾した話だけれども』
「勿論可能性の話。違うことを祈るけれども、備えだけはしておきなさい」




