過酷な道
「何をしている」
不意に声をかけられて、真紀は我に返った。
振り返れば怪訝そうな容保が部屋の入り口から覗いている。真紀は数回瞬いて、
「……今何時ですか?」
「もう夜明けだ。何をしていた? 帰ったのは知っていたが」
容保は眉をしかめる。
「真紀、なにがあった? 異国の知己から手紙を貰えなかったのか?」
「もらいましたよ。もらったから、困っているのです」
真紀は溜め息を落とした。
「何だか、途方もないなと思って」
真紀は自嘲するように、
「私は時知らずの身と、後の世の知識だけを持つ常人です。なのに会津を導き守護する役目を、正之どのから授けられた。それを全うする内に、私の知る『歴史』とは違うものになり始めています」
「……どれほど違うのだ?」
いつの間にか容保が傍らに座り、自らの羽織を真紀にかけた。羽織の温かさを感じながら、真紀は呟く。
「参与合議はすぐに瓦解し、一橋さまは容保どのと、もうお一方と二条城で江戸と対立することになっていたのですが……参与合議は続いているし、お子がないまま薨去されるはずの公方様には雅千代さまがお生まれになった……そして英国は攻めこむも辞さぬ姿勢を取ることなどなかったはずなのです」
容保は真紀の膝を軽く叩く。
「そなたの様々な憂いは、わしも知っているつもりだ。だが、そなたの言葉はわしにとっては嬉しく聞こえる」
「……え?」
真紀が不思議そうに容保を見れば、容保は穏やかに笑んで見せて。
「後の世のこと、そなたが知る『史実』のことなど、わしには何一つわからぬ。今を、今の会津を、今のこの国をよりよくすることしか考え付かぬ。ずっと迷い、戸惑い、それでも進まねばならぬのだ。先程のそなたの言葉は、わしにとってはようやく真紀が私の隣に降りてきてくれた、そんな風に聞こえた」
「容保どの……」
「そなたの迷いは、当然のものだ。恥じることなど、自分を蔑むことなど何もない。人ならば迷い、途方に暮れる。だが」
容保はもう一度真紀の膝を軽く叩いて。
「それでも前に進まねばならぬ。そう教えてくれたのは、真紀、そなたであったぞ?」
「ええ、そうでした」
「初めて会うた時、真紀は孤高の存在たれと言ったが、わしは今、そうではないと応える。そなたと共に、わしは進む。迷い、途方に暮れても、互いがいれば、それでよい」
「……はい」
サー・ジェームス・ハリスの手紙は、真紀の近況を尋ね、自身の息子・クリストファーが中国・上海を経由して日本に向かう予定があるため、息子への手紙に同封したことから書き出していた。そして、日本という国が今、西欧列強の中でどのように認識されているか、詳細に記されていた。
ほとんどの国は日本を通商の相手国として捉え、今まで触れることの少なかった文化に目を向け始めているという。
だがその中で、英国だけが違う認識を持っていること。
第一に先んじて日本との交渉を始めたアメリカへの牽制。
第二に英国内で急激に進んだ工業化で、需要が高まった鯨油を獲得するため。
『アメリカでは太平洋近海での捕鯨が激減したのは十年ほど前の話です。その海域に棲息する鯨を採り尽くしたか、あるいは鯨が避けるようになったか分からないのですが、実は大西洋でも数年前から同じような現象がおきています』
『鯨が採れないということですか?』
『かなり北に行かないと鯨の群れに行き合わないとか。そのために氷の海で遭難する捕鯨船が急増していると聞きます』
『……』
考え込んでしまった真紀を見て、クリストファーが肩を竦める。
『とは言え、捕鯨船が大型化していますから航続距離も伸びているし、耐用力も上がってはいますが』
『待ってください、ですが英国にはインドの海があるではないですか? あそこでも確か鯨は採れるはず』
『勿論採れますが』
『ということは、英国は時間をかけて我が国を捕鯨の一大拠点に育てるつもりなのですね。勿論、アメリカへの抑制拠点として軍の駐屯も兼ねて。香港を割譲できたとはいえ、租借地を整備するのに時間がかかる可能性が出てきたから』
クリストファーは再び瞠目するが、今度の回復は早かった。
『……本国政府は、日本に割譲あるいは租借を要求するつもりのようです。そのために我々を派遣した』
それがクリストファーの持つ『機密情報』だった。
ジェームスの手紙は、真紀に語りかける。
英国は今、繁栄の極みにある。
産業化が進み、貴族階級に限定されていた『富』が、中産階級でも享受できるようになり、多くの者が豊かさを求めて国の外に目を向け始めた。
英国を始め西欧の目は清国に向けられているが、いずれ隣国の日本に向けられることは必定であり、その先手を打って英国が日本に租借を求める、あるいは属州とするのは容易いが、アメリカへの牽制を第一義にするならば、日本が主権を維持したまま、条約などで国を守ることは充分できるばずだと。
真紀は小さく溜め息を落とした。
「国の舵取りを過たず……が、もっとも難しいことなんだけど……私に出来ることをするしかない、でしょうね……」
「上洛の許しと言うか?」
その日、参与合議の場に届けられた将軍・家茂の書状を読んだ帝が首を傾げた。
参与たちも聞かされていない話に互いの顔を見合わせる。遥か下段に平伏する老中・板倉勝静が直答を許され声を上げた。
「至急御奏上申し上げたき儀、これありとのことでございます。仔細につきましてはそれがしにも伝わりおりませぬ。既に開陽丸にて向かっておりますので、お許し頂ければすぐにでも大阪に入るとのことにて」
「なんと、なれば既に向かっていることと言うことか」
将軍の上洛と言えば、許しを受けて準備を整え、急いでも一月はかかるもの。なのに既に江戸を出ているというのなら、その尋常ならざる早さにその場の誰もが首を傾げた。
御簾の向こうで、帝が呟く。
「何事や。勿論、上洛の許しは与えるが」
「は」
「後見職はいかがされた」
春嶽の問いに板倉が公方さまにと共に上洛の予定と告げれば、やはり合点がいかず、容保は首を傾げるしかない。
英国との交渉は結局頓挫した。本国政府に再び意向を確認すると領事が宣言し、五隻の艦船は領事からの書簡を持って退去していったのが先月のこと。
幾分平穏な日々が続くなか、参与合議の議題は英国からもたらされた事実上の侵掠予告に如何に抗するか、その一点に絞られていたけれど、結論が出るはずもなく、参与合議の場は幾分倦んだ趣を見せ始めていた頃だった。
「何事であろうか?」
帝が退出されて、参与だけが残った場で声を上げたのは伊達宗城だった。
「後見職が随伴されているということは、後見職が急ぎ上府されたことと関わりがあるのではないか?」
「ではやはり、先の英国との話についてか」
「しかあるまい。しかし板倉どのの話では、幕閣にも明かさず、公方様自ら帝に奏上申し上げるとしか聞かされておらぬというではないか」
容堂が思い至ったように顔を上げた。
「御一同、もしや公方様におかれては御攘夷なされる気ぃではあるまいか」
一瞬にしてその場が冷えたように感じられた。普段表情に乏しい久光も憮然とした表情を浮かべている。
「有り得ぬとは言い難し。公方様におかれては和宮御降嫁の折、攘夷急度行うべしと帝に約され、その後も何度となく約定を求められてきたではないか」
「うむ……」
「いや、待たれよ待たれよ」
声を上げたのは、春嶽だった。一同を見回して言う。だがその声も幾分頼りなげだった。
「攘夷奏上とはまだ決まっておらぬ。それがしは二条城に詰める。公方様と後見職に真意を確認せねばなるまい。まず何よりそれが先決であろう?」
将軍・家茂が上洛したのは板倉が上洛の許しを願い出て四日後。慶喜から急ぎの書状を受けて容保は春嶽と二条城に入った。通されたのはいつも謁見を行う大広間ではなく、家茂が上洛の際、私室として使っている部屋で幾分顔色の悪い家茂と、慶喜が座して二人を待っていた。
作法問わずと家茂に開口一番告げられたものの、春嶽も容保もただ黙って頭を下げるだけに止めたのだが。
続く慶喜の言葉に、二人は思わず顔を上げ、家茂を、そして慶喜を、最後に互いの顔を見合わせた。
「た、大政権を朝廷に御奉還申し上げる?」
「うむ」
数度咳いて、家茂は頷いた。
「そ、それは、如何なる仕儀にございますか?」
「今すぐのことにはあらず。しかし国の内外の騒擾を鑑みれば、これも已む無しと、わしは思うのだ。本来ならば、わし自ら幕府の匡正を諮らねばならぬのだが、わしにはその力がない。故に奉還の儀と、数年の内に一大転換を朝廷と共に成しては如何かと、奏上しようと思う」
春嶽がちらりと慶喜を見れば、慶喜が家茂の言葉を継いだ。
「英国よりの嚇し故ではない。しばし前よりそれがしの胸の内にあったこと。この国は変えねばならぬ、いや」
慶喜は小さく溜め息を吐いて。
「変わらねばならぬ。お分かりか。幕府、朝廷、それぞれが其々に柵を抱えている。福井どの、会津どの。そなたたちが認めたではないか。この危殆の時、幕府の威光とは無きに等しいと。その通りであった。遠く離れた異国に、それを見抜かれたのだ。それがしは英国政府よりの達しを嚇しではなく、見抜かれたことに恐怖を感じた。嘗てのような神風など吹かぬ。我が国は神に頼らず、我らで変わらねばならぬ。例え、望まぬ地位に下ることになろうとも、だ」
「………」
慶喜は自嘲のように呟いた。
「今までのやり方が間違っていたとは思わぬ。東照大権現さまが江戸を開かれ、三代将軍・家光公が耶蘇教から我が国を守るために国を閉じたことは過ちではなかったと信じたい。だが、永らくの安寧の微睡みに我らは間違えたのだ。国を閉じたからこそ、国を守る手立てを思索し続けねばならなかった。それこそが我らの過ちであろう。ならば息長く国を変えることは過ちを繰り返すことになりかねぬ。故に喫緊の嚆矢が必要となる。すべての民に、国が変わるのだと、知らしめる衝戟が必要なのだ」
「……それでよろしいのですか、公方様」
思わず容保が声を上げれば、家茂は常にあらざるほど力強く頷いた。
「よい。和宮とも何度も話し合ったが、宮はわしの事を思えば、同意できぬと何度も言ったが、最後は納得してくれた。この国の行く末を思えば、将軍の恥として後世に曝すことで済むならば、大したことではない」
家茂はまた咳いて、しばしの間息を整える。
「一橋どのから話を聞かされた時、本音を言えば、反対したのだ。だが、よくよく考えればわしの考えもただただ先祖伝来のこの地位に固執しているのだ。ただ諾々と将軍職を受け継ぎ、雅千代に繋ぐだけだと言われればそれまでなのだ。国のために出来ることを、わしもしたいと思う。だからこそ、謗りを甘んじて受けようと、思うのだ。わしにはそれしか出来ぬ」
「公方様……」
容保は思わず平伏する。
家茂が将軍に就いたのは僅か十二歳の時。家茂自身の才覚も勿論考慮されたが、何より水戸血統の慶喜が将軍に就くことを嫌った一派が担ぎ上げた御輿だった。何も分からぬまま千代田の城に入り、公武合体の名の元に妻を迎え、上洛を命じられれば、人質同然で二条城に座し続ける。そんな日日が四年を超えていた。
暗愚ではない。だが英邁な様子も見えぬ。家茂の性を判じかねていた容保は、あえて自らの過酷な道を選ぶ決断をした主君に、ただただ頭が下がるのみだった。
「尹宮には書状にてお知らせしておいた。追っ付け帝の耳に届こう」
「そうですね。しかし、一橋さまも思い切った献策をなさること。何より公方様にはお辛い決断になられました」
真紀が容保に羽織を着せかけながら、溜め息を落とす。
「本当ならば、公方様はこのような断決をせずとも良かったやも知れぬのに」
「真紀、それはそなたにしか分からぬが、悪い癖だぞ? そなたが選んできた道の為に公方様が苦難の道を選ばざるを得なかったというわけではない。寧ろそのような考えは公方様に失礼にあたる。真紀は公方様にお会いしたこともないのだから」
「……そうですね」
幾分悲しげな真紀の額をこつんと人差し指を当てて、容保は笑う。
「時の流れは変わったのだろう? ならばそなた一人が負い目を感じる必要はない。そなただけの断決で時の流れが定まるのではないであろうが」
「……謁見は明日ですか?」
「うむ。参内には後見職が随伴する。わしは参与の席にて控えることになるな」




