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foundation  作者: なみさや
真誠
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クリストファー・ハリス




「そなたか。会津の隠し珠とか」

容保が真紀を紹介した時の、慶喜の言葉だ。ただそれだけを告げて、慶喜は席を外した。言い募ろうとする容保を視線だけで制して、真紀は笑んだ。

「何がおかしい。あまりにも無礼であろう?」

「一橋様にとって、会津の一家老補佐に過ぎぬということですよ。お気になさらず」

慶喜の真紀に対する態度は一貫していて、決して広いとは言えない隠し部屋に春嶽、容保に続いて真紀がするりと入り込んだ時も不満そうに声をあげた。

「なにゆえ家老風情が」

「一柳は異国の言葉が分かるようですよ。ならば同席してもらえばよいではないですか」

春嶽の言葉に無精無精の体で頷く慶喜を見遣って、容保は釈然としない何かを感じていた。

薩摩の西郷から知らされた下関に置ける暴挙は、すぐに真紀から容保、参与合議に伝えられ、合議の場に同じ頃に島津久光からの詳細を知らせる書状が届いた。二ヶ月前の風聞は、幕府以外は調べるだけに留めたが、今度の幕府の暴挙は放置できず、真っ先に慶喜が東帰して幕閣に子細を確認する一方で、参与合議は帝の勅命を以て、同じく国許にあった伊予藩・伊達宗城に詳細を調べる権限を与えて、下関に急行させた。

結果、下関封鎖は事実であり、加えて食糧補給の為の下船を認めなかったので、やむを得ず調達に下船した英国商人と警護の者といさかいがあり、先に発砲したのは商人の方であったが、それでも双方ともに数人の死傷者が出ていたことが分かった。

慶喜の指示は早かった。

英国領事館のみならず、足止めされた商船の国籍領事館に通達を出して、謝罪の意を表明したのだ。加えて英国領事と幕閣を促し、死傷者を出した商船に対する損害賠償交渉を行わせた。

そこまでは迅速に行われたのだが。

英国領事が、突如交渉に現れなくなった。

病気など理由をつけるが、どうやら違う理由で交渉を中断したい様子が見受けられると、幕閣から二条城に帰ってきた慶喜に報告が届いた。

それから一月。

急な知らせが下関から入った。

英国旗を掲げた蒸気船五隻と、帆船が三隻下関を攻撃。これは空砲だったようだったが、警護が混乱する間に英国船団は下関を通過。瀬戸内海に停泊しているという。

慶喜はこれにも即座に反応する。

横浜と神戸に在留する英国領事に将軍・家茂の名でこれら艦船の即時退去要求の書状を出すように指示、参与合議にもかけ、勅命でも退去要求を英国領事館に伝えた。加えて将軍後見職の名で、瀬戸内海全域の藩に最大限の警備を命じた。

騒然とした雰囲気の中で、神戸の英国領事から慶喜宛に書状が届いたのは八月初め。

ほとんど終わっていた損害賠償の交渉を白紙に戻したい。瀬戸内海に碇泊している艦船から本国からの意向として手渡されたと伝えてきたのだ。

白紙撤回などあり得ない。しかし交渉は続けなくてはならず、神戸の英国領事館と二条城とあいだで数回の書状の遣り取りが行われ、神戸に老中・牧野忠恭(まきのただゆき)が出向き、交渉の場が設けられることとなったが、その場に慶喜が参加したいと言い出したのだ。

牧野にすれば、領事ごときに後見職に御出座し頂くわけには参らぬと丁重に断ったのだが、慶喜は単純に異国人との交渉を見たいだけだと分かり、決して異国人の目に触れぬことを約されて、慶喜に随伴する形で春嶽と容保も、交渉場所となった広間の隅、御簾で仕切ることで設えた隠し部屋に潜むことになったのだ。

「通詞は誰ですか?」

真紀が問えば、真紀の隣に座した牧野家公用人の河井継之助(かわいつぎのすけ)が応えた。

「軍艦操練所教授方の中濱万次郎と申す者にて。通詞に長けているとのことで、幕府に願い出、連れて参りました」

「ああ、アメリカより帰ってきたという土佐の御仁ですね」

やがて入ってきた英国領事とその連れに真紀は目を細める。

「あれは……瀬戸内に碇泊する船から来たのですか」

「そう聞いておりますが」

少し前、ロンドンで見かけたことのある服装の、幾分恰幅のいい壮年の男性。癖なのか、何度も何度も長く伸ばした髭を触る。だがかなり居丈高に、椅子に腰かけた。

「軍人ですね。あの出で立ち、英国の都で見たことがあります」

真紀の言葉に、春嶽が囁くように言う。

「つまり瀬戸内の船は、英国の軍船(いくさぶね)ということか」

「そうですね、それに交渉に同席すると言うことは、あの軍船が交渉に使われるということではないでしょうか」

異国人用に用意された足の長い卓子を囲むように、英国代表と牧野たちが座れば、すぐに交渉が始まった。

神戸英国領事は淡々と説明を始め、通詞の中濱は淀みなくそれを日本語に訳していく。

領事の説明はまず、幕府が謝罪を表明したことと、下関封鎖を解いたあとの商船の便宜を迅速に図ったことへの感謝の意を本国政府から伝えるように言付かっていることから始まった。

続いたのが、本国政府からと前置きされた抗議の言葉。牧野は先に横浜で行われた交渉にも同席している。同じ話なのだろう、渋面で中濱の淀みない約話を聞いている。

最後に、領事は書簡を取り出し読み上げ始めた。

その内容に真紀は眉をしかめる。

一度条約を対等に結んだ以上、これを遵守するのは国家として当然の摂理である。これを遵守できぬのであれば、対等な国家としては呼び難く、我が国を宗主国として、キリストの御名において法の秩序について学ぶことを勧める。即ち、法に則る国であると横浜・神戸の英国領事が認めた時に、損害賠償交渉を始めるとする。

通詞の中濱の声が震えている。

領事の言葉を訳し終えて、中濱は英語で何かを叫ぶように言った。領事は淡々と言葉を返すが、居丈高に座っていた軍人がサーベルを鳴らしながら何かを告げる。

中濱は唇を噛み締めながら、しかし一つ深呼吸を落として、牧野に一礼した。牧野は鷹揚に頷いて、取り敢えず持ち帰り検討すると告げ、次回の交渉を定めて、神戸での最初の交渉は僅かな時間で終了した。





「あれでは交渉再開ではなく、侵掠(しんりゃく)の予告です」

真紀の言葉に、その場にいた全員が弾かれたように真紀を見た。

「侵掠、だと」

幾分かすれた慶喜の言葉に、真紀は頷く。

「異国における条約とは国と国が守るべき取り決めを決めたものですが、これには絶対というべき根底があります。国と国は対等なのです」

真紀の言葉を理解できず、容保が問う。

「それは当然ではないか?」

「お忘れですか。古来、我が国は中華と交易してまいりましたが、その際対等な国家として認められてきましたか? 我が国は通称の相手である朝鮮・琉球を対等な国家として扱ってきましたか?」

言われる意味が分からず、慶喜に至っては怪訝な表情を浮かべている。

「我が国は古来、他国を上位と見るか、下位に見るか。どちらかだったということです」

「それがどうした。我が国よりも領地も民も多い中華を上位とするのも、領地も民も少ない朝鮮・琉球を下位に見るのも当然ではないか」

「では英国は? 治める領地も民も、遥かに多い。加えてたった五隻で我が国を翻弄できる力もある。それはアメリカや他国も同じこと。それらが何故に我が国を対等な国家としてみなしているか、です」

「それは」

そこまで言われて、全員が気づく。

威光、権威。そんな目に見えぬものを異国が尊重するのか? たった五隻で混乱している国を、尊重する意味を、彼らは持っているのか?

「これは最低限の規範だからです。通商を求めるならば、初手から侵掠を目的に乗り込めば、予想外の事態が起きかねない。だからこそ対等な国家として通商のための条約を結ぶ。ですがその内に、様々なことが分かってくる。少なくとも我が国の場合は幕府の統率力を図ることが出来たでしょう。地理も重要です。攻めこむならばどこをどのように攻めればよいか。通商の合間に見聞を広げればよいのですから」

「だが、ならば何故に交渉を再開した? 通詞の過ちか?」

「中濱どのの通詞は正確でした。少なくとも英国は我が国を対等な国家としては認めるには、猶予を置く。その猶予の間に、国家としての統率力を確認できなければ侵掠すると伝えてきたのですよ。私はそう捉えました」

中濱は最後の領事と軍人の言葉を通訳しなかった。だから真紀も伝えねばならぬほどの強い意味を持つ言葉であっても、あえて慶喜たちに伝えなかった。

中濱がこの国を滅ぼすつもりかと叫べば、領事は淡々とあとは日本次第と応え、軍人は出来る筈がない、黄色い猿どもだからと、侮辱したのだ。

差別的な言葉に中濱は通訳しなかったのだが、公の場で公人として赴いた者が傲然と侮辱を口にする。それが英国の現状を意図していると、真紀は思った。

「それはつまり……」

慶喜の言葉に、真紀は真っ直ぐに慶喜を見つめて、応えた。

「今のこの国のやり方では、対等な国家としては扱わぬ、未開の地として占領すると宣言したのも同じです」





翌週、神戸で行われた交渉に慶喜は姿を表さなかった。最初の交渉のあと、京都に帰るとだけ一同に告げて、神戸を離れたが、三日後には江戸に向かう許可を帝に奏上し、認められたその足で大阪に向かい、船で江戸に向かったと、修理から書状を受け取っていたが、春嶽と容保は神戸での交渉を見守ることにした。

交渉の場に前回現れた髭面の軍人は現れず、幾分若い軍人が領事に付き添っていた。

しかし、真紀はその若い軍人に見覚えがあるような気がしていたが、あえてその思いを心の奥底に沈めて、容保の後ろで交渉を見守ることにした。

領事は淡々とやはり交渉は本国政府の許可がないと進められないと繰返し、牧野は被害者が商船である以上、領事や軍ではなく、商船の責任者と交渉を行いたいと告げたが、領事の答えはやはり本国政府の返事を待ってからにする、の一点張りだった。

しかし交渉が終わり領事たちが切り上げる際、若い軍人が中濱に声をかけたのは、常にあらざることだった。中濱が顔色を変えて、姿を消したことに隠し部屋の一同は首をかしげる。

「なにごとだ?」

真紀も同じように首を傾げたが、呼び出す河井に促されて部屋を出ると、先ほど姿を消したはずの中濱が立っていた。

「会津の御方で?」

「はい。何か?」

「会津の御仁に、一柳真紀と仰るおなごはおられるやろうか? あの軍人が言うには父親から文を預かってきた言いゆうがですが」

「……一柳真紀は、私の母ですが」

「おお、これはよかった。話をしたい言いゆうがですが、かまんですろうか? わしが通詞に入りましょうか?」

「いいえ」

真紀が穏やかに言う。

「昔ですが、御用で母は単身、洋行しています。その折、英語も学んだようで母から教わって私も話すことは出来ますが。その御仁の父親なる人に洋行の際、会うたのやも知れませぬな」

「左様でしたか」

ほっと溜め息を吐いて、中濱は言う。

「いや、てっきり密航か何かかと」

「そうですね。ですが、ご内密に願いますか。やはりご法度に触れることですから。帰国にご苦労された中濱どのならばお分かりでしょう?」

「もちろんです」

中濱万次郎は十四歳で漂流して、日本に帰国が為るまで十年を要し、帰国してもすぐには土佐に帰ることが許されず、繰返し取り調べを受けた。軟禁状態の下、場所を変え、人を変えても詮議は続き、何度も隠れキリシタンか、異国の密偵ではないかと問われ続けた。

あの時の不条理な苦しみ、悔しさは忘れられない。

だから、中濱は言う。

「安心してくだせえ。この胸にしまいます。しかし、あの者とはどこで会いますか?」

真紀はしばし考えて。

「では、今宵領事館に赴くとお伝えください」





「サー・ジェームス・ハリス……ああ、聞いています」

流暢な英語で返せば、サー・クリストファー・ジェームス・ハリスは数回瞬いて。

「サー・クリストファー?」

「あ、いや、失礼。これほど英語がお上手とは。それに……」

クリストファーはまじまじと真紀を見つめて、

「お母様にそっくりですね。私はまだ幼かったのですが、お母様のことはよく覚えています」

「そうですか」

この類いの会話は今まで数知れず交わしてきた。

時知らずの身を持てば、常人の数十年の変化の中であって真紀には何一つ変化がない。だが長年の経験で真紀は会津以外で知遇を得た人物には、余程でない限り会うことはない。数十年ぶりに再会しても何一つ変化のない真紀に疑問を持つことは充分予想できるからだ。それが真紀が放浪を続けていた理由の一つでもあった。

哀しいかな、口から溢れる嘘も馴れたもので。

「ええ、母に瓜二つとよく言われます。やはり似ていますか?」

「……本当に、良く似ています。お母様は?」

「先年、会津にて亡くなりました。父を早くに亡くしたので母一人に育てられたのですが、英語も母から教わったのです」

真紀が微笑めば、クリストファーは納得したように頷く。

「そうですね。見事なクイーンズ・イングリッシュです。父が良く見習いなさいと言っていましたから」

忘れる筈もない。幼いクリストファーも、その父であるジェームス・ハリスも覚えている。十年という長い洋行で、真紀は何人もの異国人と知り合った。それでも真紀の風貌が幾分中国人に近い所為か、差別の対象とする者が多かった中でも、そうではなく真紀自身を認め、対等な存在として尊重してくれたのは数少ない。そしてそんな中でもジェームスは真紀の高い教養と知性を評価し、ヨーロッパを回る間、ハリス伯爵家の次男という自らの地位を無条件で使うことを許してくれた、知己であった。

もう二十年以上が流れた。

ロンドンで会った幼子が壮年となり今、自分の顔をまじまじと見つめていることに、真紀は思わず苦笑する。

「ところで、お手紙をお持ちとか。どうしましょうか。母は亡くなっておりますからお受け取り出来ませぬが、私で宜しければ」

「あ、ああそうですね。父からお身内か、あるいは会津の方にと言付かっておりますから。どうぞ」

差し出された手紙を受け取ると、真紀が問う。

「ところで、幾つか質問しても?」

「勿論、答えられることならば」

「サー・クリストファーは瀬戸内に碇泊している艦船からお出でになったのですか?」

「ええ」

「……前回交渉にいらしていた髭の御仁は今回はいらっしゃらなかったのですね」

「ああ、ジェファーソンですね。私の部下ですが、領事が次は同行しないと拒否されまして。大変な暴言を吐いたようですね。失礼しました」

「……あれはいただけません。公の場で、まして公人である通訳にあの暴言は、許されませんよ。だからこそ通訳は堪えて通訳しませんでしたが、次はありません」

「はい、承知しております」

クリストファーは嘆息して、自分の部下が如何に粗野かを説明するが、真紀は遮って、

「サー・クリストファー。本国政府は本当にこの国を第二のインドに考えているのですか?」

ぎょっとした表情を浮かべているクリストファーに真紀は言い募る。

「キリスト教国でないなら、国家ではなく未開の地として、条約破棄も自在であると断じたいのでしょうが、ここはインドの東、英国が未だに抑えきれぬ清国のまだ東です。地理的にも通商のためにも、英国にとってメリットは少ないのでは?」

「そ、それは私の口からは言えません」

真紀は笑んだ。

「軍人として守るべき国家機密、ですか?」

「……そうです」

「……では、私の独り言として聞いてください。潤沢な東インド会社の支援があるとは言え、我が国の占領を諮るのならば、たった五隻で威嚇行為で交渉を留めるのは、明らかに奇妙です。寧ろ一個艦隊を押し寄せさせ、一気に占領すればよいのですから。艦砲射撃で街は壊滅するでしょう。ですがあえてそれをしないのは、違う形で我が国を利用したいと、本国政府が考えているからではないですか? 例えば、ある国への牽制」

クリストファーが瞠目する。思わず何か言おうと口を開いたが、そこで止まる。しかし真紀は笑んで、

「あの国は英国から独立して急速に国力と、国土も伸ばしてますね。今や戦争から立ち直り、大西洋から太平洋まで領土が繋がりました。そしてその太平洋には鯨が多く棲息し、捕鯨も盛んになりつつある。工業用の鯨油も採れますね。そしてあの国の反対側には、我が国がある」

「……忘れるところでした」

深く嘆息しながら、クリストファーが言う。真紀は微笑みながら小首を傾げた。

「何をです?」

「手紙を預かった時、父から言われました。真紀に会ったら、必ずお前はその博識さ聡明さに、読みの深さに驚かされる。お前が持つ機密情報など、すぐに見透かされる、と」

「それは母の話でしょう」

「ええ、だから忘れていたのです。ですがあなたはあの人の娘です。お母様と、そっくりなのでしょう?」

クリストファーは苦笑して、

「もう一つ父に言われたことがあります。真紀が相変わらず博識な聡明さを持っているなら、お前は迷うことなく、真紀の国の窮地に手を差し伸べるだろう。昔、清国での戦いに真紀が巻き込まれた時、自分が手を差し伸べた時のように、と。その通りのようです」

そしてクリストファーは、語り始めた。


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