役に立つもの
「ととたま」
「ん? どうした穣太郎」
「ととたま、はく」
穣太郎は近くでしどけなく眠る珀の白い巻尾を、小さな手でペチペチと叩く。
「そうだな、珀だ。珀、すまぬ」
容保の謝りに応えるように、珀は大きな大きな欠伸を一つ落として、交差した前足の間に頭を置いた。だが巻尾は右へ左へと激しく動く。穣太郎が歓声を上げながら珀の巻尾に飛びついた。
「穣太郎、ならぬ。珀は嫌がっておるではないか」
「大丈夫ですよ。最近、ああやって珀が遊んでくれているのです」
右筆の友恵と奈緒を伴って現れた真紀が、容保の隣に座る。
「見ててくださいな」
しどけなく眠っているように見えた珀は、巻尾を大きく振っている。穣太郎は歓声を上げながらその巻尾に飛びかかるが、幼い穣太郎には捕まえることができない。珀はしばらく巻尾を振ってそれから不意に立ち上がり、少し離れた場所まで移動して、同じように転がり巻尾を振る。穣太郎にすれば目の前の玩具が少し移動しただけなので、やはり歓声を上げながら拙い走りで近寄り珀の巻尾に飛びつく。その繰返しなのだ。その間、珀には嫌がる様子がついも見えない。どころか穣太郎の声が聞こえないと、顔を上げて穣太郎の様子を確認している。
「珀は玄に比べて大人しいですが、子供の面倒を見るような犬には見えなかったのですが……やはり雌だからでしょう。母猫が自分の尾で子猫を遊ばせるのを見たことがありますから。穣太郎、着替えましょうか」
真紀に促されて、穣太郎は友恵と奈緒に手早く衣を代えて貰う。確認だけを真紀がして、
「さあ、穣太郎。ととさまと行ってらっしゃい」
「かかたまは?」
小首を傾ぐ我が子の様子に微笑みながら、真紀は言う。
「今日はととさまと行ってらっしゃい。帰ってきたら珀と遊んでいいですよ」
珍しく帝が、我儘を言った。
会津中将の猶子に謁を望むと言い出した為に、前例がないと渋る参議たちを二条関白が説得し、謁見が実現した。とはいえ容保から望んだことではなく、帝が単純に穣太郎を見てみたいという好奇心から始まった謁見だったが、参議以上に渋ったのは実は容保だった。二歳の幼子に大人しく受け答えするよう言い含めたところで、理解など出来ぬので無理だと渋る容保を、真紀は帝の好奇心から始まった謁見なのだから、帝にあっては粗相は百も承知、ごくごく短い対面時間に留めて下がれるように尹宮に願い出ては如何と説得すれば、渋々ながらも容保は承知した。
穣太郎を伴うために珍しく駕篭で御所に赴く容保を見送って、真紀は背後に控える秋月に声をかけた。
「約束の刻限は?」
「昼九つにて。ゆっくり出ても間に合うようでごぜえやす」
「では準備が出来次第に。そうそう、梶原どのもお願いしましょう」
「はい、すぐに」
真紀に書状が届いたのは昨日の夕刻。
以前のように八木道悦の名ではなく、西郷吉之助の名で届けられた書状には無視できぬ内容と、早急にお会いしたいので薩摩藩邸まで来て欲しいと書かれていた。真紀はすぐに書状を秋月に見せ、翌日に赴くように算段をつけたのだった。
「御側室に入られても、一柳さぁの身軽さは変わりもはんな。会津さまはお心広きお方でありもすな」
座るなり西郷が穏やかに言う。真紀は微笑みながら、
「殿はそれぞれが果たせる役目をよくご存知なのですよ。秋月どのは御存じですね。それから公用局詰の梶原平馬どのです」
「梶原でごぜえやす。以後、お見知り置きを」
平馬が頭を下げれば、西郷はいつものように気軽な様子で頷いた。
「さて、文はお読みくだされたか」
「もちろん。確かに下関は憂慮すべき事態のようですね」
ちょうど二年前になる。長州藩が攘夷期限とされた五月十日に外国船舶が往き来する下関の馬関海峡を封鎖、砲撃した。当然ながら反撃を受け、下関は壊滅状態になったという。
長州藩は異国に対し、攘夷という幕命があってこその攻撃であると主張した。そうすることで朝廷における攘夷主張と長州の勢力郭大を示唆したものだったが、攘夷の実力行使を疑問視する趨勢の高まりで、結果として長州の躓きの端緒となった。
幕府は結局体面を重んじて賠償責任を果たすことになるのだが、この事件以降、暴走的な長州藩の行動に常に疑心を持つことになる。馬関海峡は幕府直轄となり、警護は長州藩を除いた周辺の藩に依頼する形を取っていた。
だが数ヵ月前、ある風聞がもたらされた。公用局も長崎組から早い段階でその風聞を知らされた。
「英国艦隊が下関を通り、大阪と江戸を攻撃すると言う風聞ですね。六月頃でしたか、長崎より報せを聞いたのは?」
真紀の問いに、秋月が頷いた。
「単なる風聞と思いきや、日時が詳しいことに驚きやしたな」
「それは如何なる伝でごわすか?」
「長崎では異国商人と繋がりがありやす。特に武器を扱う商人はそのような風聞に鋭うて、単なる風聞でもあるまいとは思いやした」
西郷は小さく頷いて、
「ですから会津さまは参与合議でその風聞、御披露されたのでごわすな」
二月ほど前になる。容保は参与合議の場で風聞であると前置き、長崎でこのような話があると告げた。参与それぞれが調べさせたのだが、確かに風聞は存在したけれどもそれ以上は分からなかった。
だが、幕府はその風聞ありとだけを根拠に内々に動いていたのだと、西郷は言う。
「ここ一月ほど、薩摩を回る英国船が増えもした。英国船だけではごわさん。沖で座礁しかけた船もありもしての。話を聞けば、外国船と知れれば下関を通れぬとのことで。話を聞いた船も一月あまり、下関に留め置かれたそうでごわす。ならば危険を犯してでも、遠回りになろうとも九州四国と回った方が早いと」
「その船は商船ですか?」
「国許よりの文に依れば、大砲も乗せておらぬ船であったとか」
真紀は眉をしかめる。話が事実ならば異国籍と知れれば片端から留め置いているということになる。
「その船は気になる話もしていたと。食糧補給もままならず、飢えて船を降りれば刀で切り殺されると」
「……それは風聞ではなく?」
「長崎に入港するつもりが、船が一杯と入港を断られたようでごわす」
元々オランダと清国限定に開かれていた長崎故に、今や完全開港となってはいるものの、長い付き合いからだろうかオランダを優先していると他国商船から苦情のような陳情があった話を真紀は思い出していた。
「しかし風聞やも知れませぬが、人死にがあったのなら、幕府の責をまた問われることになりますね……」
「だけならばともかく。おいが心配なことはそれではごわはん」
秋月が怪訝な顔をするが、真紀の言葉に顔色を失った。
「口実、か。まこと攻めこむ為に」
「自国の民の安泰の為にと攻めこまれては、どげんもありもはん」
「……いえ。もっと酷い話も考えられます」
真紀が険しい顔で、西郷を見つめる。
「酷い話、でごわすか」
「条約破棄です。条約とは国と国が対等な立場で結ぶ法度です。ですが、これは異国が相手国に秩序があるとの前提での話です」
西郷の顔色が変わった。
「秩序がない国であるとされた場合は、どけんなりもすか?」
「かつてインドが蹂躙されたのは、正しくその方法でした。インドは我が国のように藩が点在していますが、それぞれが王国を成しています。その一つの藩で開国条約に抗議した集会で英国籍船が燃やされました。死傷者は僅かだったにも関わらず、英国はこの事件を以てその藩を攻撃。殲滅させ、自国の領土としました。秩序無き国は国に非ず、未開の土地として占領したのです」
「……殲滅、とは如何に」
「劫掠の限りを尽くし、焼け野原に成り果てたと聞きます」
ちょうどその頃、真紀はロンドンにいた。殲滅戦は英国政府による過剰な攻撃ではなかったのかと新聞は書き立てたが、英国政府はその地方が如何に未開の地であり、無秩序であり、キリスト教を受け入れるつもりもなかったことを誇張して表明し、やがて新聞は書き立てることを止めた。
真紀は情報操作の恐ろしさを実感したことを思い出す。
「………でごわすなら、過日の風聞がまことになりかねぬと?」
真紀は眉をしかめたまま、頷く。
「対処が必要なようです。参与合議どころか国を上げての対処が。国父どのは国許ですね?」
「追っ付け、二条関白さまに国父さまから書状が参りもそうが」
とくとくと注がれた酒を容保は一献、明ける。
「……伏見の酒は甘いと土佐どのは仰有った。したが、わしにはまだ甘味が足らぬと思うのだが、真紀はどうだ?」
容保が注いだ盃を一口飲んで、真紀は苦笑する。
「さて、私には判じかねますが。容保どのは利き酒が出来るようになられたのですか?」
元々それほど呑む質ではない。だが、参与の面々から酒宴に誘われることが増えたので、酒を嗜むことも多くなった。
「容保どの、酒は百薬の長とは言いますが、適した量と言うものが必要ですが……今言うことではありませぬな」
容保の膝の上で、穣太郎が訳も分からず真紀の盃を欲しがるが、真紀は簡単に穣太郎をあしらって、
仲秋の満月は申し分なく見えていて、容保と真紀は穣太郎を伴って縁側で月見酒と洒落こんだが、何にでも興味を示し始めた穣太郎の手をかいくぐって、盃を交わす。
その時。幾分離れた所で、何かが割れる音が響き、叱責と謝罪の声が響いた。
「なにごとだ」
「申し訳ござえやせん、右筆見習の一人が粗相をしやして」
右筆頭の登喜枝が頭を下げる。真紀は微笑みながら、
「もしかしなくても八重さん?」
「はい」
「そうだ、登喜枝さん。八重さんをこちらに」
夏始め、常駐藩士の交替が行われ、修理率いる五十人の藩士とその家族が上洛した。
その折、真紀は藩士の妻の何人かを日帰り奉公の右筆見習として穣太郎の世話にあてることにした。容保に理由を問われて、真紀は穏やかに応えた。
『こんな小さい頃から会津の女性に接することが、容保どのはありましたか?』
そう言われればないのだ。容保の回りにいたのは男ばかり、女性はいても会津の女性に会った記憶はない。国許に行って初めて会ったのではないか?
真紀はその事実に驚く容保に言ったのだ。
『会津のことを穣太郎に学んで貰う為には、右筆見習いに藩士の奥方に入ってもらうのは良い機会ではないかしら?』
「か、川崎八重にごぜえやす」
平伏したまま、八重は名乗った。
「ほら、公用局詰に入った川崎尚之助どのの御妻女どので、山本覚馬どのの妹御ですよ」
「覚馬の妹か。なれば女だてらに銃手を担うと兄から聞いておるが」
真紀が促せば、おそるおそる八重は顔をあげた。真紀が言う。
「穣太郎の遊び相手も上手ですよ。年の離れた弟御がいらっしゃるとか。あら」
容保に膝の中で眠そうな穣太郎を見て、真紀はそっと穣太郎を抱えあげた。
「八重さん、穣太郎を寝かせてやって?」
「は、はい」
粗相を叱責されると思っていた八重は、穣太郎を抱きかかえながら、誰にも分からぬように小さく安堵の溜息を落とした。
穣太郎を抱えた八重を見送って、容保は穏やかに笑んだ。
「女の銃手とは、山本家は思い切ったことを。しかし、覚馬の妹ならば納得もする」
「八重さん本人が銃を習いたくて、覚馬どのに直訴したそうですよ。覚馬どのも成すならば退くことは許さぬと、強く申したとか」
「……そうか」
「女の家老補佐もいるくらいですから、銃手もいてもよいのでは?」
「む……」
煮え切らない容保の返事に、容保が真紀の家老補佐を未だに納得していないことに気づいた。だがあえてそれには触れず、
「明日は大阪にお泊まりに?」
「一橋さまと福井どので参る。そなたも、来るか?」
容保の言葉に、真紀は数回瞬いた。
盃を明けて、返事がないことに疑問を感じ、容保がちらりと真紀を見れば立ち直った真紀が苦笑する。
「なんだ?」
「いいえ。なにゆえ私を伴われます?」
「真紀に知っておいて欲しいのだ。英国領事が何を要求するのか。それに通詞を案ずるわけではないが、やはり英国の言葉が分かる者が側にいた方が良い」
僅かばかり苦々しさを伴う容保の言葉に、真紀は堪えきれず小さく笑った。容保が憮然とした表情で真紀が注いだ盃を呷る。
「可笑しいか」
「少し違います。容保どのは相変わらず私が家老補佐として出ることがお気に召さぬけれども、藩主の判断としては伴った方が良いとお思いなのでしょう?」
「……それが可笑しいのか」
「いいえ。可笑しいのではなく、嬉しいのですよ」
容保が差し出す盃になみなみと酒を注ぎ、真紀は笑顔で応えた。
「余所に出したくないと大事にしてくださる思いと、私と言う者が役に立つと判断してくれたことが、ですよ」
真紀は淡黄色に輝く満月を見上げて、呟くように言った。
「領事が無理難題を言わねば良いのですが」




