真紀のまこと
「キリスト暦、というものをごぞんじですか?」
突然の言葉に、容保は首を傾げる。
「キリスト暦?」
「耶蘇教を信じる者たちが、教祖であるイエス・キリストの誕生した年から蜿蜒と数え続けてきた暦です。それによるならば、今年は千八百六十四年になります。ならば容保どのがお生まれになったのは?」
なぜ耶蘇教やキリスト暦が出てくるのか分からなかったけれど、容保は頭の中で計算して答えを返す。
「差し引くならば……一八三六年生まれということか」
「そうです。キリスト暦ならば、私の生まれは」
真紀は言葉を切り、容保を真っ直ぐに見つめて言った。
「一九八五年になります」
「………!」
言葉の意味を理解しかねて、容保は問い返す。
「今が一八六四年であると言ったのに、一九八五年生まれだと?ならばそなたは一体……」
「私は今でも、遥か昔に生まれたわけでもなく、後の世に生まれた者です」
信じられない真紀の言葉に、容保は言葉を失う。
「それは、つまり」
「理由は分かりませぬ。私自身にも分からぬのです。ただ分かっているのは、ある夜、何時ものように眠り、目覚めた時には海に投げ出されておりました。命からがら浜に流れ着き、助けてくれたのが、織田信長公です。そこから私はずっと時知らずの身として生きて参りました。キリスト暦で言う二〇一三年から、一五四九年の三河に世界が変わり、そこからずっと生きていたのです」
ここまではっきりと自分の世界が変わったことを、真紀は正之にも伝えていない。だが、容保に全てを話したい、そんな衝動に駈られた。
一度語り始めれば、もう止まらない。
時代ゆえか、信長公に救われたおかげか、ともかく真紀は本能寺の変のあとも、豊臣秀吉に知遇を得ていたために優遇された。秀吉公亡きあとは、徳川家康にも。
そして、二代将軍・秀忠にも優遇を受けた。
我が子を託されるほどの、優遇を。
「あとは、容保どのも御存じの通りです。正之どのには赤子の時から、最期まで看取りました。だから、聡い正之どのは私が時知らずの身を持つことを気づかれたのです。私は正直にお話申し上げました。私が知る、会津の行く末を」
「会津の、行く末とは」
「……新しい御世が来る。その時、会津は新しい御世の贄として、会津の命、数千を差し出さなくてはならないと」
「数千!」
容保が愕然とした表情を浮かべる。
「数千、とは」
「会津は朝敵の汚名を着せられ、鶴ヶ城で籠城。女子供を含めて多くの戦死者を出すことになるのです。それがたった四年後に起きるのです」
「今からか」
「ええ。私は自分の世界にいた頃、歴史の教授の見習いをしていました。私の師匠であった方の専門は……会津でしたから」
もう三百年も昔のことだ。自分が大学院生で自分のゼミの助教の専門が幕末の会津だったことは覚えているが、助教の名前や顔はとうの昔に忘れてしまった。ただ、覚えている言葉がある。
『会津は、朝敵とされるまでそれを回避できるチャンスは何度となくあったはずなのに、なぜそれをしなかったのか?会津という気質だけでも、時世が許さなかったとも違うはずだ』
「正之どのに数千の贄の話をした時に、会津の守護者となって、会津を導いて欲しいと頼まれました。彼のとき、私は成せるかどうかなど思いも至らず、ただ会津の悲劇を『知る』ゆえに、お引き受けしたのです」
病み衰えて細くなった正之の指に、頬を伝わる涙を拭われた時から、真紀の心は定まった。
会津を導くと。
忘れかけていた『学んだ』記憶を引っ張り出し、何度も何度も考えた。
会津を幕末の悲劇から、遠退けさせるためには何が必要なのか。
鶴ヶ城の真紀御殿を訪う度に、諸国の情報を代々の藩主や家老たちに渡し、会津という小さな世界に閉じ籠ることのないように気を配った。
経済的な困窮には殖産興業に力を入れるように、さりげなく促した。
そして、一人でも出来るだけのことをして、『幕末』を迎えたのだ。
「ですが、ずっと心の隅に残ることがあるのです」
短い溜め息を落としながら、真紀が呟く。
「反撥、です」
「反撥、とは?」
「弓弦を勢い引けば、それだけ矢はよく飛びます。浅く引けば、近く。深く引けば、遠くへ。もし、歴史が最初から定まったものならば、私がしてきたことは無駄になるやも。いや、もしかしたら会津の道のりは、一層険しくなるやも知れぬのです」
かつて、『史実』に抗したことがある。
戦国の争乱を織田信長で終わらせることを願った。何より、織田信長という逸材の末を本能寺で終わらされるのが惜しくなり、本能寺の変を回避できぬかと、画策した。
『史実』では本能寺に信長が果てる日、真紀は意図的に信長を大阪に招いた。その遥か前から信長と弑逆者の明智光秀の関係を取り持ち、その関係は良好なはずだった。
なのに、『史実』通りに、本能寺の変は起きた。
詳細は真紀の知る本能寺の変とは違うけれど、真紀はそこで思ったのだ。
「時間の流れには、最初から定まった、敢えて言うなら宿命のような道があって。そこから外れたとしても、いずれそこに戻るのではないかと、そう思うのです」
「ならば、その反撥とやらが会津でも起きると、真紀は言うのか」
容保はようやく我を取り戻し、問う。真紀は力なく頷いて、
「はい」
「つまり反撥が起きれば、そなたがより良くと思い、会津を導いた全てが灰塵に帰すと?」
「……場合によっては、『史実』よりも酷いかも知れませぬ。それに思い至る度に、私は後悔します。正之どのから会津の守護者を引き受けず、市井に埋もれ、時を過ごした方が会津のためになったのでは、と」
真紀の声が震えた。
ふと容保が顔を覗き込めば、真紀の頬を伝わる涙の筋が見えた。思わず手を伸ばし、涙を拭う。
「どこかで過ちを犯していないか、反撥はいつ来るのか、京都に参ってからは、ずっとそんなことを考えておりました」
「真紀」
「おかしいでしょう、容保どの。容保どのが幼い折に、藩主は孤高の存在たれと、貴方を突き放した私が、怖がっているのです。だから、駄目なのです。容保どの」
真紀は涙で濡れた双眸を上げ、容保を真っ直ぐに見つめる。
「いつか貴方は、私を許さぬかも知れませぬ。だから」
「真紀」
容保は真紀の右頬に左手を当てて、
「先程のわしの言葉に、偽りはない。何を言おうと、わしは退く気はないから、心して申せと言うたであろう?」
「しかし」
「ここ何年もずっと考え続けて出した答えぞ。まして、そなたが背負う重荷を垣間見たからにはなおのこと退けぬ。だからそなたの重荷、わしも引き受ける」
「容保どの」
「よいな。そなたは、わしの妻になるのだ」
容保の言葉に、真紀は目を閉じた。
「このような私を」
「そなただからこそだ。一柳真紀だから、ずっと側にいてくれたから。ありのままの、そなたでよい」
真紀は小さく頷いた。
「……こんな私でよければ」
右頬に添えられた容保の手が、暖かくて。
真紀はただ溢れる涙を堪えきれなかった。




