そぞろ歩き
久方ぶりの、真紀の箏の音だった。
斉敬に促されて釣殿に招き入れた真紀は、突然の無礼を詫びたが、斉敬は鷹揚に笑い飛ばしたどころか、どうせなら一曲所望すると言われれば、真紀は大人しく箏を奏でた。
ゆっくりとした旋律は時折響く蓮花の開花音とも相まって、夕陽が落ち、薄暗い行灯が醸し出す柔らかな雰囲気を助長させた。
弾き終えると静かに聞いていた岩倉が声を上げた。
「見事なお手並みやなあ。しかし、これは箏の曲ではないな?なんや聞いたことはあるけれど」
真紀が穏やかに微笑みながら、曲名を告げれば岩倉が数回瞬いて、
「なんと。笛の曲ではないか」
「はい、晶歌から拾いました。お耳汚しでした、失礼をお許しくださいますよう」
深々と頭を下げる真紀に今度は斉敬が声をかけた。
「いやあ、良いものを聞かせてくれた。中将どの、良い家臣をお持ちじゃ」
「は、ありがとうございます」
「そう言えば、御方さまは笛も箏もおやりになるんやったか。確か敏姫さまが相伴されたことがあったの」
宴の顛末を修理から聞かされた内蔵助が腕組みしながら唸る。
「見識高い上に、芸事にも、武道にも、とは非の打ち所がないとはこの事じゃの」
うむうむと頷く内蔵助の横で、修理は微妙な表情を浮かべる。
帰途、馬を進める容保の隣で修理は同じ言葉を口にした。満悦なのか、褒美にと斉敬に飲まされた僅かな酒に酔ったのか、いつになく上機嫌だった真紀がふと呟くように言ったのだ。
『これであとは、字が上手ければ文句なしなんだけど』
吹き出したのは、馬上の容保だった。
『容保どの!』
『いや、相済まぬ』
ひとしきり笑いを堪えるのに時間を要した容保は、咳払いを一つ落として。
『まあ、あれだ。非の打ち所ではないし、珠に傷というわけでもないから。真紀どのの書状は充分読めるし、趣のある手だがな』
『貶しているやら誉めているやら、それ』
修理も真紀の筆蹟は見たことがある。ただ、見事な筆蹟というより、癖が強いとは思った。つまりそれは字が上手いとは言い難いもので。
『何故か字だけは時をかけても上手くならないのですよ。私が聞きたいですよ、容保どのにとうすれば字が上手くなるのか』
幾分むくれながら、真紀はじろりと馬上の容保を睨む。真紀よりも酒量の多い容保も常にない気軽さで、
『それは書くしかあるまい?』
『だから、書くのが苦手なんですって』
端から見れば酩酊状態の二人だ。
「で、あれか?」
「はあ、珍しいことなので、父上、お見逃しを」
「そりゃあ吝かではねえけんじょ。御方さまのあのようなお姿、見たことねえなあ」
父の言葉に、修理は深く大きく溜め息を落とした。
記憶がない。
なぜ、夜が明けているのか?
真紀は辺りを見回して、数回瞬いて。
「?」
首を傾ぐ。
夕べは確か、二条邸からの帰途、修理があんまり誉めるので、酒の酔いか誉められたせいか、常にない上機嫌で黒谷に帰りつき、夜も遅かったけれど容保がすすめるので、容保の酒に付き合った。
何とはなしに会話を交わした。
で、そこから?
しっかり夜着に着替えている自分の姿。
陽はいつも起きる時間より遥かに高い位置にある。
「……酒が過ぎたか」
元々あまり飲まない質だ。飲めないのではなく、若い頃酒の勢いでところ構わず寝てしまう酒癖を知ったので、あまり飲まないようにしてきた。
「御方さま、起きておいでか」
障子越しの修理の呼び掛けがあった頃には、真紀は起き出し、身嗜みを整え終わった頃だった。
「どうぞ」
障子を開けた修理は、幾分ほっとした表情を浮かべる。
「起きておいでやしたか?」
その表情で、自分が何か失態をやらかしたのではないかと一瞬想像したが、
「夕べはお疲れでしたか?殿の御前で突然熟睡されたには驚きやした」
「ああ、やっぱり。他は?何も仕出かさなかった?」
「殿とお二人で飲まれていたので、子細は分かりませぬが、殿がお呼びになるのでお伺いしたら、御方さまはぐっすりで」
宿酔があるなら、薬湯をと言う修理に軽く手を振って、
「容保どのは?」
「少し前にお目覚めに。今日は参与合議もありやせぬので、昼餉の後にでも黒谷を散策しようかと、仰せでやした。御方さまの具合が良ければ、御一緒されては?殿も仰せでやしたが」
「そうね、そうしようかしら」
「間もなく夏の盛りになりますね。今年は暑いかしら」
「京の暑さは、身体に堪える。じっとりと蒸されているような気になる」
広大な黒谷金戒寺の敷地に幾つもの塔頭が立ち並ぶ。練兵場を抜けると、喧騒は一気に遠退き、幾分暑さを伝えていた空気が木立の中で冷やされていくのが分かる。
「この辺りは夏でも涼しそうですね。こんな近場にいいところがあったなんて、去年は気づかなかった」
「まことに。この辺りの塔頭も藩士のために借り上げたと聞くが、随分減ったので、静かな趣で、これはこれでよい」
容保は穏やかに微笑んだ。
ゆっくりとした足取りだったが、漫ろ歩きではなく、何処かに向かう容保に真紀は声をかけた。
「容保どの、どちらへ?」
「墓参はいかがか?」
短い応えと、覚えのある道中に真紀は同じく微笑んだ。
「喜んで」
立ち並ぶ墓石を抜ければ、小さな木柱が離れてあるのが見えた。その側に座り込んでいた珀が立ち上がり、一声吠えた。
「珀」
木柱には『玄之墓』と書かれ、花差し用の竹筒には野菊が数輪差してあった。
「作兵衛でしょう。時折墓参してくれているようです」
真紀はゆっくりと座り、手を合わせたが、木柱を優しく撫でつつ、
「玄、来たよ」
身体が動くようになってから、真紀が真っ先に作兵衛に支えられながら訪れたのが玄の墓だった。今のように墓柱を撫でながら、ありがとう、ごめんねと繰り返した。
今も墓柱をまるで玄を撫でるようにしながら、真紀は微笑む。
「おかしなことをするとお思いですか、容保どの」
背を向けたままに真紀に告げられて、容保は数回瞬いて。
「なぜだ?おかしなことなど何もない。真紀どのは玄と珀の命を救い育てた。此度の事も、二匹が賊に飛び込んだから、助けに走ったのではないのか?」
足元に擦り寄る珀の背を撫でながら、真紀は言う。
「玄と珀は、撃たれた私を助ける為に飛び込んだやも知れませぬ。私も飛び込む玄と珀を見て思わず身体が動きました……ですが、結局玄を死なせてしまった」
「………」
さわさわと木立を揺らす風が心地よい。
「右足に当たった弾は、恐らく玄に当たって勢いが殺されて、私に当たったのではないかと思うのです」
容保は知らなかった事実に瞠目する。
「それは」
「湯灌をした作兵衛に確認しました。玄に残った銃痕は腹と背。貫通してます。私を守ろうと跳んだ時に、撃たれたようです。だからなおのこと、哀れで」
「真紀どの」
「私は、死なないのに」
告げられた言葉は、重い。
「時知らずの身を持つのだから、よほどの事でない限り死ぬことはないと思うのです。でも」
「だが、玄は自分の命の恩人を救おうとした。そこに真紀どのの時知らずの身のことなど知っているか、畜生かは関係ない。ただ助けたくて飛び込んだのだ」
「………」
背を向けたまま、珀の背を撫でる真紀の手は止まらない。
「それがしも、真紀どのが危なければ、迷いなく盾になろうと飛び込むだろうな」
独白のような容保の言葉に、真紀が振り返る。
幾分涙で潤んだ双眸を見つめて、容保は穏やかに微笑み。
「それがしにも参らせてくれるか?」
真紀が譲ったため、容保は玄の墓前に立ち、手を合わせた。墓柱を真紀がやったように撫でて、
「玄よ。よくぞ真紀どのを守ってくれた。そなたのことは忘れぬ……真紀どのはこれからはそれがしが守る」
「容保どの……?」
容保は振り返り、真紀をまっすぐに見つめて。
「真紀。そなたはそれがしの所に嫁に来るのだ」
突然の言葉に、真紀は何度も瞬いた。
「よ、め?」
「それがしの立場ゆえに正室とはしてやれぬが、側室はそなただけだ。随分前から決めていた」
穏やかに微笑む容保と、さわさわと風に揺れる木立と、幾分雲のかかる空を、真紀は代わる代わる見て。
「でも」
「そなたがそれがしを拒む理由は、修理から聞いている。子は望まぬ、わしのように相応しい家格から養子を迎えれば良い」
「………」
驚きから立ち直れない真紀の右手を持ち上げて、容保はからかうように言う。
「さて、嫁に来ぬ理由を上げてみよ。何を言おうと、わしは退く気はないから、心して申せよ」
真紀は自分の右手を見て、深く長い溜め息を落とす。
「容保どの」
「うむ」
「お気持ちは有りがたいのですが」
「ということは、まだ何か言うか?」
「私の真を知れば、容保どのは私を許さぬやも知れませぬ」
「なに?」
「私は、土津公より会津の守護を望まれました。ですが、会津を滅ぼす者になるやも知れませぬ」
容保の手の力が緩んだことに気づき、真紀はそっと右手を外す。
「どういう、ことだ」
「長い、話です。でも、聞いていただきたいのです。私のために。何より、容保どののために」




