幕府の威光
「そうですか、それは失礼なことをしましたね」
玄の埋葬と珀の様子を聞いた真紀に深々と頭を下げられて、容保は苦笑する。
「何を。珀はたった一人の身内を亡くしたのだから、仕方あるまい。傷が残るような噛み方をしたわけではない。真紀どのが気にすることではない。それはそうと、真紀どのの怪我は」
「銃痕は残ります、仕方ありません。左肩の骨折も上手く繋がったようで、今のところは支障なく。歩けるようになるにはあと何日かは必要でしょうが」
真紀が苦い薬湯を何とか飲み干した時、目覚めた報せを聞いた容保が駆け込んで来たのだ。自分の怪我よりも、玄の埋葬と珀の様子を聞いた真紀に相変わらずだと思いながら、容保は苦笑混じりの溜め息を落とす。
「残党狩りはいかがなりましたか?」
「十数名、見廻組と新撰組で捕らえた。しかし、困ったことになった」
「というと?」
「どうやら画策したのが、久留米の真木保臣なる者のようで」
真紀が瞠目したので、容保は思わず表情を変える。
「まさか知己であるのか?」
「いいえ。確か去年まで学習院御用掛であった御仁では?」
確か久留米の神官の家柄と聞きましたが。
真紀の言葉に幾分安堵しながら、容保は話を続けた。
「その真木某は昨日、市中で自害して果てた様で、住処で発見されたのだが……」
問題は住処の片隅で発見されたものだった。
「重要と思える書状を焼いたようだが、幾分焼け残った。それによれば、長州とのやりとりが見えた。名前も分かっているが、家老格のようだ」
「それは……どれほどの御仁が御存知なのです?」
真紀の返した応えに予想がついていた容保は小さな溜め息を落としながら、答えた。
「参与と、帝、あとは参議の一部と関白どのか」
「帝は如何に?」
「最初、長州が関わっているならば、藩主・毛利公を上洛させて申し開きをさせよと、随分とお怒りの様子であったが、参与合議を御覧になられる内に参与合議に任せると」
「……容保どのは如何に思われますか?」
「……正直申せば、長州どのに申し開きをさせてもあまり意味はないと思う。家老格の独断専横と断じられかねぬ。断罪せねばせぬで、なにゆえに断罪せぬと、宗家が世に非難されよう」
「なるほど。まことに藩命を以て動いたという証拠はなかったのですね?」
容保は黙ったまま頷いた。真紀は小さく溜め息を落として、
「長州藩を断罪することは簡単です。ですが、それでは各地の激派が勢いづき、長州藩士も死に物狂いで戦うことになりましょう。ここで舵取りを誤れば、国が分裂しかねませぬ」
「そうだ。それは容堂公が仰せになった。兎も角、名の上がった家老格のみの断罪で収めてはと奏上されたが、一橋さまが長州征討を奏上されたのだ。帝のみならず、大政権を預かる幕府への反逆でもあると」
帝の御前でありながら、強い口調で長州を今取り除かなければ後顧の憂いを残す。嘗て長崎島原で騒擾ありし時のように、幕府がこれを鎮める。ついては西国鎮撫使を定め、この元で幕府が征討を行いたいと捲し立てたのだ。
「……それは随分と合議の場が白けたことでしょうね」
言い得て妙な真紀の言葉に、容保は思わず苦笑する。確かに真紀の言った通り、一瞬にして合議は静まり返った。というより、返す言葉が見つからない状況に、まるで自分の言葉が罷り通ると胸を張る慶喜の息の荒らさだけが目立っていた。
「まあ、先年の西国鎮撫の時も、その前の将軍視察も、節刀授与せずも何となく馴れ合いで納めた、張本人である自覚は……ないでしょうね」
「真紀どのは一橋さまに手厳しい」
「手厳しい、でしょうか?なんというか、私には一橋さまの思い描くものというか、芯が見えぬのです。この国を善きところに導きたいとも違うというか」
「福井さまのお話では、渡来ものに興味深いとか。しかし、後見職である以上は幕閣との兼ね合いもあろうて」
真紀は小さく頷く。
「分かります。ですが、幕府の威光ばかりを気にしては事は成せぬ時もありましょう?少なくとも今般はそういう時です」
令徳元年三月一日に京都市中で起こった一連の騒擾は、端緒となった蛤門への攻撃を指して、蛤門の変と呼ばれるようになった。首謀者とされた真木保臣は市中の隠宅で自害して果て、残された書状から長州藩の家老の名前が上がる。
責を問われた長州藩は三月半ばには件の家老の切腹と、藩主・毛利慶親の蟄居を以て帝、並びに幕府に恭順した。幕閣の中にはそれでも長州征討を強く支持する意見もあったが、恭順を認めるとの勅命が下った以上、長州征討の声は一月もせず、立ち消えになった。
「やはり納得いかぬ」
背中を向けて立つ慶喜の、呟くというより、怒声に近い独白に春嶽と容保は内心だけで溜め息をつくしかない。互いに顔を見合せ、お互い同じ思いであることに気づいて苦笑しそうになるが、春嶽が咳払いでごまかすのを見て、容保は表情を引き締めた。
「一橋どの。されど勅命が下った以上、長州征討、西国鎮撫使は叶いますまい」
「……ならば幕府の威光はどうなる?」
「威光とは何に依るものか」
春嶽の言葉に、背を向けていた慶喜が振り返った。
「何にとは?」
「条約を勅許なしに結んだことから始まり、朝廷は幕府に不信を募らせておりますぞ。だからこそ勅命を以て各藩主たちに上洛を促し、我らに国事参与を命じられた。この意味をお考えになられたことはおありか?」
「……」
沈黙した慶喜ではなく、春嶽は容保に問う。
「会津どのは如何にお考えか」
「それがしは、幕府だけでなく広く所論を求め、国難に立ち向かうという、帝の叡慮と理解しております」
容保は言葉を選んだ。慶喜は眦を上げたまま、聞いている。
「幕府は如何にすべきと?」
「朝廷より大政権を与えられていることは、幕府の威光ではなく、慣例であると理解しております。つまり、朝廷が国事参与を新設したからには、参与合議も帝の叡慮とされるべきです。帝の御前にて合議はされるのですから。そして後見職である一橋さまも参与であられる。ならば参与合議の場にあっては一橋さまが幕府を背負っておいでになると、それがしは考えます」
「後見職が参与に任じられた真意もそこにあろうと、それがしも考えます」
「……大政権とは、まこといかなるものか」
「徳川幕府開闢より二百有余年、鎖国の安寧の元に我等はいたのです。異国の前に、幕府の威光、前例無しやなど、理由になりましょうや」
春嶽の言葉に慶喜は眉をしかめ、しかし暫しの沈黙の後、深い溜め息を落とす。
「………したらば、我等はどうなる。我等は宗家の元、御三家、親藩と立場は違えど、幕府の柱であろう。前例無しや、幕府の威光を否定されては、我等の立場も揺らぐ。福井どの、会津どの。そなたらはそれを否定するが、ならば我等の拠り所は如何にする。帝の親政になれば、幕府は大政権をお返しすることになろう。ならば、一橋も、福井も、会津も、薩摩や土佐、伊予と同格となるのだぞ?嘗て、一介の民であったナポレオンがフランス国王になったように、日本の総てが転覆することにならぬか」
慶喜のある意味飛び越えた話の内容に、しかし意図だけは理解して、春嶽は眉をひそめる。容保はただ黙って聞いていた。
「慶喜どの」
「わしの話は、荒唐無稽か?全く有り得ぬ話か?」
「そのためにも、国事参与は必要なのでは?」
口を開いたのは容保だった。
「なんだと?」
「幕府は学ばねばならぬのです。譜代・外様のやりようを学ぶことで、幕府が目指す道が見えて来るのではありませぬか?会津はそうしてきたつもりです。会津は……我等は、京都守護職をお受けした時、京都を枕に死ぬつもりでおりました。ですが、上洛して思いが変わりました。御所を御守りし、京都を鎮撫することが世の安寧に繋がるのであれば、なりふり構わず今まで会津のやり方でない方法を試してみたのです。大変な努力が必要でしたが、会津の為には良かったと思うのです」
京都のことも何も分からぬまま上洛した。
帝より心賴に値すると評されればなおのこと、ただ不逞なる浪士を一層すれば良いと思っていた。
だが、京都の街は人も仕組みも、そしてそれぞれの思いも複雑に絡み合って、朴訥な会津の気質だけでは理解が追い付かず、最初に考えた言路洞かい策ではすぐに破綻を来した。
だから公用局に様々な経歴を持つ藩士を入れた。身分の上下を問わず、あるいは会津出身でない者も登用し、意見を上げさせた。それは伝統と格式を重んじてきた会津にとっては劇的な変化だった。様々な藩や人と交流が生まれ、活発な意見交換が進みつつある。行き過ぎた意見であっても家老たちが協議を重ねて、是か非かを判断する。そんな体制が固まりつつあった。
「上洛するまではそのような形が出来ることなど、考えたこともなかったのです。ですが、旧態依然では、会津は京都で役目など果たせませなんだ」
「非常の時と感じた、ということでござろうか」
春嶽の言葉に、容保は頷く。
「いかにも。今となってはそう思えます」
「……なりふり構わず、か」
慶喜がポツリと呟いた。
「この危殆の事態にあっては、幕府の威光は無きに等しいと」
「はい」
「………安寧の世は終わったということか」
「出過ぎた物言いでしたでしょうか?」
容保の言葉に、春嶽は首を横に振った。
「それがしはそうは思わぬ。一橋どのは揺れやすい」
「揺れやすい、とは」
「過日、それがしが総裁職を辞した際の顛末、御存知か?」
問われて、容保は頷いて選びながら言葉を紡ぐ。
「一橋さまが幕閣との兼ね合いで、尊皇激派に歩み寄ろうとされたことに抗議されてのこととか」
「そう言えば聞こえはよいな」
春嶽は鼻で笑って。
「まあよい。その前まで、尊皇激派は駆逐すべしと声高に言っていたが、幕閣から京都で事を大事にすれば、条約締結に差し支えると書状が届かば、尊皇激派に歩み寄ろうとする。それでは激派が増長すると意見すればそれがしの見識の狭量さを責められた」
容保は言葉を失う。
「それがしとて、それなりの矜持がある。あれほど言われる義理はない。まあ短慮と言われればそれまでだが」
「福井どの」
「だがそれがしの言葉よりも、会津どのの言葉が指し響いたのならばよい。少なくとも後見職は幕閣との兼ね合いで朝廷との妥協を見出だすためにあるのではない。その事に気づいて頂ければよいのだが」
春嶽は深く長い溜め息を落とした。
「慶喜どの次第じゃ。あの御仁は将軍と目されただけの技量も見識もある。その事には間違いないのだから」




