異変の始まり
真紀の元に内々の書状が届いたのは、桜が咲き誇る頃。文久の年号が改元され、令徳という新しい年号が発布された、翌週のことだった。
差出人に八木道悦の名前を見て、真紀はすぐに薩摩藩邸に赴く。傍らにはすっかり成犬の面持ちとなった玄と珀が寄り添っていた。
八木道悦は、真紀が大阪適塾で知遇を得た薩摩藩士で、大阪倉屋敷詰から、久光公の参与と守護職就任のため、京都の薩摩藩邸詰になっていた。八木からの書状にはその旨と、話があるので内々に藩邸に来てほしいというものだったのだが、真紀には何か違う意図が文面に隠されている気がしていた。だからこそ、すぐに薩摩藩邸に急いだのだが。
「一柳どの、すまぬ」
何度も所用で訪れたことのある薩摩藩邸だが、通された部屋は今まで通されたことのない部屋で、真紀は一層確信を深めたが、座るなり頭を下げる八木に苦笑する。
「こんなことだろうと察してましたよ。で、謝るからには何かを明かしていただかなくては」
「……一柳どのと知己じゃぁなら、会いたいで内々に呼び出して欲しかと頼まれたのだ」
「……なるほど」
その時、静かに障子が開いた。
「西郷吉之助と言いもす。騙し討ちのよなお呼び立てとない、申し訳もわん」
丁寧たな挨拶とともに一礼してから、西郷は顔を挙げて、破顔した。
「これはこれは。道悦さぁから、女性とは聞いておいもしたが、まことで」
「一柳真紀です」
「実は亡くなられた斉彬さまに、昔聞いたこっがあいもす。会津に知恵者と呼ばれう女性がおうと。おはんのこっでしょう」
「さて」
「先代の容敬公が何かの折に斉彬公に仰せになられたとか。会津に女性の知恵者があい、こん者が会津を導いてくうっちゅうのだと。斉彬公は、賢しき女性にな厳しか御方でしたで、あまい良か話とは思われなかったごとじぁんどん」
真紀は苦笑する。
「まあ、藩主になられた時の経緯が経緯でしたからね」
島津斉彬が藩主になった際の騒動は、継嗣である斉彬の藩主としての資質を疑った父・斉興と我が子・久光を藩主にしたいお由羅の方から始まったので、お由良騒動と呼ばれている。それ故に斉彬が藩政に関わる女性に厳しい目を向けるのが容易に理解できて、真紀は苦笑するしかなかった。
西郷もかつての主君を思い出したように微笑んだが、
「いや、昔話をすっためにお呼び立てしたわけではあいもはん、実は聞いてもらいたか話があっとです」
「なんでしょう」
八木が差し出した茶碗に手を伸ばそうとして、西郷の静かな言葉に、真紀の手が止まった。
「ある者からの話じぁんどん、長州が復権を望んで、武装した藩士一団で上洛を画策しじぁとか」
「……武装上洛を。数はいかほど」
「三百。驚かんのなあ」
「驚いてますよ、三百という数に」
真紀は茶を飲み、小さく微笑んだ。
「私は多く見積もっても、百五十と踏んでいましたから。で、その者達の武装とは、洋式なのですね」
西郷は力強く頷いて、
「流石、会津なあ。既に察していらしたか。自分たちも知らせを受けて、調べておりもした」
公用局が異変ありやもと、容保に知らせた時、真紀もいた。
長崎にて洋式銃を大量に仕入れる者がいる。一ヶ所では十挺ほどだが、そんな取引を何ヵ所も行っている。異国の商人たちで話題になっていることが、長崎の私塾で洋学を学ぶ会津藩士の耳に入った。長崎に遊学する藩士には気になる見聞があれば公用局宛てに船飛脚を立てるよう命が下されている。
それ故に長崎で学ぶ藩士は、見聞収集に長ける者が多い。船飛脚は数日の内に何通もの報告状を黒谷本陣に届けた。
それらによると、仕入れに回っているのは、数名の土佐脱藩浪士。神戸にある幕府の海軍操練所に席を置いたことのある者も含まれているようだと。
『その者達の中に指示を出す者が見受けられぬとのことでやしたが、土佐浪士たちの宿に以前から出入りする者がおりやす』
『それは』
『坂本龍馬と言う土佐藩士ですが、海軍操練所塾頭を勤めておりやす』
秋月の言葉に、容保は眉をしかめた。
『そこは幕府直轄では?それに確か軍艦奉行の勝安房守が所長を勤めるのではなかったか?』
『仰せの通りにて。まだ坂本なる土佐藩士が何に荷担しているかは分かりやせぬが』
『今しばらく精査せよ。幕臣が関わるならば、ことは大事になりかねぬ』
「さて。薩摩は如何にすべきとお思いなのですか?」
「ふむ。実は判じかねておりもす。長州が関わっておるのは間違いないようでもすが」
「いいえ、会津では寧ろ、銃の調達に土佐浪士が関わっていると判断しております。土佐と長州が幕府直轄を隠蓑に画策していると?」
西郷は一瞬言葉を選ぶように口ごもり、しかし意を決したように口を開く。
「仕方もはん。薩摩に急を知らせたは、海軍操練所塾頭を勤める土佐藩士にて」
「……坂本、龍馬どの?」
「よく御存じで。いかにも、その御仁でもす。おいと直接の知己ではありもはんが、数日前、伝を頼って訊ねて参り、突然切り出されもした。勤皇に過ぎる土佐浪士が、幕府を倒すことを願い、軍を進めると。そのために長州を先鋒として上洛すれば、幕府に不満を持つ者たちが呼応するはずと。随分と説得を試みたけれども耳を貸さぬと」
「……なるほど」
真紀は深々と溜め息を吐いて、
「急を告げることのようですね」
「坂本は全てを把握しているわけではありもはん。どうやら、畿内にかなりの数が潜伏しており、既に決起の日にちも決まっているようにて」
「三百……確かに少数に分けて潜伏するにはよい数ですね。しかし、決起日まで決まっているのならば、かなり近い日ですね。分かりました。数日中には対策を講じねばなりますまい。西郷どの、この話、国父どのは御存知ですか?」
「先程申し上げて参りもした。早急に参内し、国事参与合議を奏上すると。公方さまは大阪においでじゃっどん、いかに」
「福井さまに内々に書状を送ります。公方さまには福井さまがご連絡くださるでしょう。使いの者を立てていただきますか?私が書状を認めます。それから馬をお貸しください。黒谷に急を知らせます」
「道悦さぁ、準備をしもんせ」
「は」
書状を道悦に渡し、真紀が速足で玄関に向かえば、座り込んでいた玄と珀が立ち上がる。見送りに出た西郷が声を挙げた。
「これは一柳さぁの犬でもすか?」
「ええ」
「よか毛並みでもす。早馬ならば置いてきぼりになりもそう。お預かりしもすが」
「いいえ」
真紀は迷うことなく馬上の人となり、手綱を握る。
「この子達は黒谷に帰りつきます、お構い無く」




