夜半の御所
幾分酒が過ぎたと謝りながら、春嶽が辞した後、容保は小さく苦笑しながら、真紀に言った。
「福井どのが、あのようにお考えとは」
「意外でしたか?容保どの」
「いや、あの御仁ならばとは思うていた」
容保の意外な応えに、真紀の表情が一瞬だけ変わった。それを見て、容保が苦笑する。
「それがしがそのように思うは可笑しいかな」
「……そういえば、容保どのが攘夷について如何にお考えか、お伺いしたことはありませんでしたね」
真紀の言葉に、容保は頷いて、
「それがしは、難しと思う。しかし、帝が夷狄掃除を望まれるならば行わねばなるまい」
「……容保どのは、お優しいですね」
真紀は微笑んで、
「帝が頼りにされるのも、容保どのの優しさもあるでしょう、しかし」
「分かっている。帝に誠心誠意お仕えすることと、攘夷を成すとはまた別の話。それに近来、幕閣が会津を疎ましく感じ始めておるのも事実……一度、京都守護職、御辞退のことを奏上してみようかと思うている」
真紀の想像を超えた応えに今度こそ、真紀の動きが止まった。何度となく瞬いて。
「容保どの」
「うむ、まことにそのつもりだ。とは言え、帝のお許しが戴けるか、そのことにつきるのだが」
容保が静かに立ち上がり、障子を開ける。かなり冷たくなってきた夜の帳に容保は小さく溜め息を落とし。
「守護職として加増も受けたが、それもお返しすること検討せよと頼母に申し付けた」
「左様でしたか。最近は私も忙しなく動いておりますので、容保どののお話をお伺いしておりませんでしたね」
深更に、滂沱の涙に暮れる真紀を容保が抱き締めたのが秋の始め。その頃から、真紀は忙しなく京都だけでなく大阪、神戸まで足を伸ばすようになった。修理には率直に、
『殿となんぞありやしたか?まるで御方さまは殿を避けておいでのように見えやす』
『……そう見える?そんなつもりはないのだけれど』
本当にそんな意図はなく、純粋にしなくてはいけない所用が山積していたのだけれども。だが身に覚えがある以上、内心では違うと言い切れない自分がいた。
「今年中の退去は叶わぬやもしれませぬ」
真紀の言葉に、容保は小さく頷いて、
「であろうな。しかし、叶わぬからと諾々と守護職のお役目続けては、いざお許しが出た時に粛々と引き揚げることはむずかしくなる。それに帝の勅命に呼応して、藩主たちが次々参内している今ならば、会津が退去したい旨、帝にお伝えすることはよいのではないかとも思うのだ」
真紀は小さく笑んだ。
「そこまでお考えでしたか。ならば、まず、帝に申し上げねばなりますまい」
ある日の夕刻。
修理が不思議そうな表情で、真紀からの書状を届けた。
「どこから届いたのだ?」
「はい、尹宮の用人が届けてまいらました」
書状には幾分癖のある真紀の字で、内密に一緒に行って欲しいところがあるので、準備を整え、夜半に尹宮邸まで来てほしい。側仕えは修理のみにしてほしいとも書かれていた。
「宮邸に?」
「真紀どのが言うのだ、行かねばなるまい」
夜半に宮邸に赴けば、真紀ではなく用人が心得たように二人を誘い、提灯を手に誘導するのだが、誘われた思わぬ場所に二人の足が止まった。
「と、との。私もでごぜえましょうか?」
修理が戸惑うのも無理はない。用人が入るように促すのは、御所の通用口で。用人は辺りを気にしながら、囁いた。
「宮さんからお連れのお二方、いずれもお通しせよと聞いてます。どうぞお進みください。ここで立ち止まられたら、目ぇにつきます」
「う、うむ」
夜半の御所は容保もほとんど訪れたことがなく、その静謐な空気に思わず身がすくむが、用人が早う早うと急かすので足早に進み建物の入口に誘われた。用人に続いて入れば、薄暗い中に誰かが座っているのが見えた。よくよく見れば、女官のようだった。
「お連れしました」
「では、そなたはここでお待ちなされよ。お二人とも御上がり下さい」
促されて、草履を脱いだものの、声をかけてきた女官の声に聞き覚えがあり、容保は首を傾げる。
階段を上がり、容保たちの動きに合わせてゆったりと立ち上がった女官の側に来て、容保は驚いたように声を上げた。
「真紀どの!」
「おや、お気づきではなかったのですか?」
いつもの真紀の穏やかな声。しかし、その装束は最近見馴れた羽織袴ではなく、白小袖に紅の大腰袴というもので、右肩で大きく結わえており、髪は髢だろうか、背丈ほどもある長さをいくつかの元結でまとめている。
容保ですらこの装束の女性を目にすることは少ない。真紀の装束は帝にお目通りが叶う高位の女官の装束だ。
「尹宮が羽織袴では御所では目立ちます故に、用意してくださいました。確かに、気にかける公卿も少ないので、正直動きにくいですが、おかげで目立ちませぬ」
とは言え、夜しか出入り出来ませぬが。
付け加えられた真紀の言葉に、修理が密やかに声を上げた。
「では御方さまが、尹宮さまの邸宅に夜半に訪なわれたのは、もしや」
「ええ、夏の頃から、帝のお召しがあって。お召しがあれば伺うてきましたよ」
容保は小さく息を吐いた。
内心、心配していた。
尹宮と言えば、当代切っての好色家として名前がとおる。女人である以上、真紀もその好餌とならぬか心配はしていたのだが、
「お召しだったか……」
「容保どの?どうかしましたか?」
「いや……」
容保の後ろを進む修理は、容保とは幾分違う安堵の溜め息を落とすが、容保の声を聞いて顔色が変わる。
「つまり我らはこれから帝に拝謁申し上げるのか」
「はい、主上がお待ちですよ」
「お、御方さま!それがしもでごぜえやすか?」
「ん?」
先導するように蝋燭立てを手にした真紀が首だけで振り返りいつもの笑顔で修理に返した。
「そうね、畏れ多いと思うなら、容保どのの後ろで控えてなさい」
つまり修理も同行せよとの意味で。修理は深く深く嘆息して、
「わかりやした」
と応えるしかなかった。




