尹宮(いんのみや)
「さて、どないしたもんか」
最近、二品弾正尹に叙されたことで、尹宮と称される中川宮は嘆息する。真紀はいつもの穏やかな表情で、
「主上とて、尹宮にまことに勅命を出されたいと思うておいでとは思えませぬが」
「そうであろうの。しかし、親王を鎮撫使に据えるは古来よりの仕来たり。参議たちが我を推すのは致し方無し……したが」
「ですが、西国鎮撫はまこと必要でございましょうか?」
自分の言葉を先に告げられて、公家にしては厳つい面を、尹宮が真紀に向けた。
「やはり、そなたもそう思うか」
「はい。長州を征討せよとの勅命ならば兎も角、西国鎮撫とはあまりにも大掴すぎる大義名分。過日、宮の対する讒言が帝の御心を騒がせたことと根は同じかと」
「ふむ」
八月の政変で京都から長州を始めとする激派が排除されたとはいえ、あくまで激派であって尊皇攘夷を望む公卿は多い。故に、帝に親しい尹宮が尊皇攘夷であっても、佐幕派と目されている以上、排除を画策する輩は多いのだ。心ない讒言が蔓延る時もあり、帝も宮も苦慮することが多々あった。
此度は公卿から奏上された。
尹宮にあっては国事お悩みのこと、これあり。故に兼ねてからの懸案、西国鎮撫使の任にあって、この愁いを取り除かれんことを。
嫌みにしか聞こえぬその奏上を帝は何度となく拒否したが、西国鎮撫が目的とされては、いつまでも断れない。
そう思っていたのだが。
宮は深く嘆息して、
「一柳、そなたならどないする?」
「御断り申し上げます。内示は内示であって、勅命ではありませぬ。寧ろ、西国鎮撫祈願に何処かへの行幸を奏上されては如何かと」
真紀の言葉に玩んでいた扇子で、尹宮は自らの膝を打つ。
「なるほどの、そうも出来るか」
「しかし、行幸はなかなか難儀になりますし、何より過日の政変のことがあります。そのことも申し上げ、宮による参拝が宜しかろうと奏上するのも、帝にはご安心の一つとなりましょうね」
真紀が尹宮に知遇を得たのは、安政の大獄直前。未だ幕府がこの国の権力を掌握していると思われていた頃に、黒船来航があった。翌年、幕府に条約締結の動きがあると漏れ聞いた宮は僧形のまま参内して、この国の君主は帝であり、条約締結には勅許が必要なはずだと奏上したのだが、このことが幕府に聞こえたのだろう、周辺を胡乱な者が彷徨う不安を感じ始めた頃、襲撃を受けた。
それをいとも簡単な様子で撃退したのが真紀だった。その時以来の知己になる。
半年ほど前、故あって真紀の『時知らずの身』を知ることとなって以降、ふらりと訪れる真紀に何くれと相談を持ちかけるのが宮の楽しみとなっている。何より真紀の答えが明確であるから、宮にして見れば小気味良い。
とは言え、市井に『好色家』と名高い宮だけあって、真紀の一見清楚な容姿は食指を動かされるものの、真紀はかつて完全無欠に宮の誘惑を絶ちきったことで、艶目いた会話は一つとしてないが、それ以上に真紀との会話に自分の処世術を確かめるのに必要だと、宮は感じていた。
真紀の返した言葉は、宮が最上の策と考えていたもので、尹宮は満足そうに頷いた。
「では一柳ならば、鎮撫使に誰を推す」
「そうですね……有栖川宮が相応しいかと。もともとは学習院あたりから出た策でしょうから、恐らく帝が宮の御言葉を容れられたならば、なし崩しに消えましょう」
公卿の子弟が通う学校を学習院と呼ぶ。本来は教育機関なのだが、一時期朝廷と各藩との折衝の場となったことがあり、尊皇攘夷激派の公卿が集う場所になり、長州が京都を去った今でもその影響を受けていると言える。有栖川宮は親王宣下の直宮だが、この学習院の影響を強く受けている宮として知られていた。
「というと?」
「公方さまに更なる攘夷を命ずるか、あるいは後見職が留めた、節刀を再び御下しになるか……」
節刀とは、本来征夷大将軍に授けられる証。帝が何者かを征討せよと命ずる際に与えられるもので、今回の場合、攘夷を確実に遂行せよと命を下した証と言える。過日、将軍・家茂に対し、節刀が授けられる計画があったのだが、事前に察した慶喜が家茂の病気を理由に参内を止めさせ、流れたことがあった。
それを再び行うのではと、真紀は言う。宮は眉をひそめて、
「そこまでして果たして成せるか、攘夷は。そなたは如何に思うか?」
「無理です」
やはり真紀の答えは、明確だった。
「全く以て、無理なことです。少なくとも、この国で帝が親政を行われようが、将軍に節刀を下賜されようが、問題が違うところにありまする」
「違うところ?」
「帝におかれては、夷狄は排除すべしの強い一念を御持ちですが、相手は日本に来るのが利があると思うて大海を渡って来るのです。親政であろうと、幕府に攘夷勅命されようと、その利があると思われる限り、黒船来航は続きます。ここで対処を誤れば、正しく清国の二の舞となりましょう」
「……夷狄が大挙して国を荒らすか」
宮の扇子を玩ぶ手が止まらない。真紀はそれを見ながら、静かに言った。
「ならば、今の幕府のやり方が今後の為になりましょう」
「なんと?」
「朝廷に対する面と、異国に対する面。二枚舌と罵ろうと、交渉で事態を乗りきろうとすることは、異国との無用な戦を減らせます。無暗と射掛けたところで、日本と接するのを利とする異国の反撥を招くだけです」
「そうか」
深い深い溜め息を吐いて、しかし宮は再び扇子で自分の膝を打った。
「やはり一度、一柳も参って、帝に内々の御話し申し上げねばならぬの」
「……そうですね」
「それはそうと、一柳、黒谷に福井どのが参ったとか」
宮の言葉に、真紀は思わず微笑みながら、
「ええ。福井さまはすっかり変わられておいででしたよ。先程の続きのようですが一部開港已む無し、異国の見聞を以て異国を制すべしと」
書状に名指しで書かれた故に、真紀は容保と春嶽のささやかな酒宴に、容保の側仕えとして侍った。
最初、会津の意向を探るようだった春嶽だったが、やがて真紀に攘夷が叶うか叶わざるかを問い、真紀が一応周りを慮った柔らかな応えに、しかし幾分酒精を漂わせながら春嶽が絡んだのだ。そこで明らかになった春嶽の考えに会津一同は気色ばんだが、容保が穏やかに受け流し、真紀も心中を晒そうとしなかっために、春嶽の酒の上での失態ということで会津一同の胸だけに納めることにしたのだが。
「ふむ、長の蟄居の間になんぞあったかのう?」
「やもしれませぬ。ですが、単なる尊皇攘夷では清国の二の舞ということは理解しておいででしたね。勿論、中将どのもそうですが」




