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foundation  作者: なみさや
京都
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嬉しい涙





厚い雲で、月が見えない。

真紀は小さく溜め息を吐いた。

足元にたわむれる玄と珀が甘えた鳴き声を上げながら、真紀を見上げる。真紀は笑顔で座り込みながら、二匹の喉元をくすぐってやれば、安心したような甘え鳴きに変わる。

「何もないよ、お前たちは容保どののところに行ってらっしゃい」

真紀の言葉を理解したかのように二匹は廊下を駆けていく。

容保の寝床が余程気に入ったのか、二匹は夜の度に容保の寝床で容保の両脇に丸まって眠る。夏の間は容保が暑かろうと、真紀が二匹を止めたこともあったのだが、容保自身が気にならぬから、二匹を寄越して欲しいと笑顔で言われては真紀も止めようがなかった。

だが、側仕えが言うには、二匹が寝床に入れば、幾分眠りの浅い容保は熟睡出来ているようで、それを聞かされれば、なおのこと二匹を止める理由はなかった。

「とはいえ、いいのかなぁ、玄と珀」

「何がだ?」

独白に返ってきた答えに慌てて振り返れば、容保がいた。

「これは、容保どの」

「玄と珀がいかがされた?」

「いえ、いつまでも(しとね)をお邪魔してはならぬのにと思いまして」

「構わぬ。二匹がいてくれると、安心して眠れるのだ。なぜか分からぬが、余計な事を考えあぐねて眠れぬことは少のうなった」

容保はふと笑みこぼす。

「とは言え、二匹とも大きくなったので、寝床を広げねばなるまい」

「それはそれは」

つまりは、何時まででも二匹が添い寝してもよいと言っていると同じで。

容保はしかし表情を変えて、

「それはそうと真紀どの。今日は珍しいものを見せてもろうた」

真紀の瞬きを見ながら、容保が続ける。

「真紀どののあのような声、花街で襲撃に会うて以来だ」

「……これは、お聞き苦しいものを」

「よい。内蔵助らは、自分たちの思いを代弁してくれたと、感謝しきりであった。それがしも」

容保はふと視線を彼方に向けて、

「思いいたらなんだ。帝の玉体を御守り申し上げることばかり、心にあった。まだ、到らぬ……そなたの望む会津の志には」

容保の顔に幾ばくかの寂しさを見て、真紀の胸奥が小さく痛んだ。だがそれをおくびにも出さず、真紀はいつもの微笑みを浮かべて言う。

「容保どの。お幾つになられました?」

「……数えで二十八になったが」

真紀が波間を漂いながら、目覚めたのが二十八歳だった。時知らずの身となった時から、真紀の時は二十八歳のまま止まっている。

しかし、煌めく猪苗代の湖畔で所在なげに、それでも会津の志を持つことを目指すと告げたあの十四歳の少年は、二十八歳の青年となって真紀の前にいる。

「時の経つのは早いこと」

「……始めて会うたのはまだ養父上がご健在で、始めての入国であったか」

容保が再び笑み溢す。

「あの頃、それがしは真紀どのが怖くて仕方なかったのだ」

「え?」

土津公所縁はにつこうゆかりの御方で、時知らずの身を持つ人。幼いそれがしからすれば、生き仏にでも会う心地であった。して初手しょてから、それがしは養父上をまるで藩主として認めぬのかと、真紀どのに問われたの」

「そのようなこと、こざいましたね」

わざと、辛く厳しく当たった。

素直で謙虚で。純真無垢な容保の様子を見ながら、故あって突き放したような物言いをした。

「……藩主は、孤高の存在と申し上げましたね」

「覚えておいでか」

「敢えて、ですよ。彼の時、厳しく申し上げたのは、容保どのに、私を頼りにすることを覚えて欲しくなかったからです」

静かな真紀の言葉に、しかし容保は微笑む。

「分かっている。長じて思い至った。あの頃のそれがしはいずれ与えられる役目と立場に、ただただおののいていた故……あの時、真紀どのがああ言うてくださらなかったら、今のそれがしはないやもしれぬ」

すまぬと、容保は頭を下げた。真紀は穏やかに頭を上げるように言いながら、

「そこまで思い至られましたか」

「……会津は、そなたに辛い選択ばかりをさせているように思う。すまない、真紀どのが側にいてくれることは僥倖であるのに、その事に皆が、それがしが、甘えていたのだと、今は思える」

真紀は静かに歩を進め、容保の前に立った。

十四年前、容保の背丈は真紀の肩ほどだった。年月がぐる内に、真紀の背丈が容保の肩ほどになるほど容保の背丈は伸びた。そのことを今更ながらに気づいて真紀は小さく笑った。

「あの時、私は思ったのです。藩主は孤高の存在であると言うことで、容保どのの手を撥退けてしまえば、容保どのは私を如何なる存在と思うようになるのかと。困ったことがあれば、私を簡単に頼るような藩主になられては、会津の行く末のためには困る。でも、私の身侭な行いに、容保どのはしかと応えを下さりました。私という存在が、会津に必要なのだと。本当に、本当に嬉しかったのですよ?」

無条件に会津に寄り添うと表明してきた真紀と、そんな真紀を受け入れてきた代々の藩主たちとは違って、真紀はまるで契約のようなつながりを彼に求めた。それは、彼が『松平容保』だったから。

真紀は『松平容保』に何一つ明かさずに、ただただ会津の志を求めた。

迷いながらも、会津の志を持つことを誓った幼い若殿は、真紀の差し出す手を受け取った。

「真紀、どの」

「会津はまだ私を、必要としてくれる。容保どのは、それを示してくれたと思えたのです」

不意に。

容保の右手が、真紀の頬に伸びた。

真紀が気づいた時には、容保の手が真紀の頬を伝う涙を拭う。真紀の身体が驚きで小さく跳ねる。容保は眉を顰めながら、真紀の頬を伝う一筋、二筋と流れ落ちる涙を拭う。

「何故、泣かれる」

「………何故でしょう。何故、涙が」

泣いているという自覚すらなかった。

なのに、涙が溢れる。

悲しいとは、思わない。

ただ、心の中にほんのりと暖かい何かを感じて、真紀はそれをまるで捕まえるかのように胸の前で拳を握りしめて。

「悲しくて泣いているのではないのです」

「では、なぜ?」

「……嬉しい、涙でしょうか。猪苗代で、江戸で、容保どのは仰った。傍にいてほしいと。私は傍にいつまでもいると、応えることができました。私は、ずっと待っていたのです。この時を。だから……」

真紀の笑顔は、今まで何度となく見た。

だが今日の笑顔は、憂愁とよろこびの綯交ないまぜで。両頬を涙が濡らす。

「会津の、容保どののために、いつまでもお傍におります」

頬を流れ落ちる涙を拭っていた、容保の手が一瞬止まり。

次の瞬間、真紀は容保の両腕の中にいた。

自分が容保に抱きしめられているのだと気づくのに、わずかでも時を要した。

「か、容保どの?」

「……すまぬ」

絞り出すような容保の声に、真紀は数度瞬いたけれども。

小さく息を吐いて、額を容保の肩に預けた。

「……すまぬ」

「いいえ」

「しばし、このままで」

「……はい」




早暁、会津を始めとして御所の九門六門に担当藩による厳重な警護と、長州藩とこれに与する参議たちの禁足が勅命によって発布された。

長州藩はしばらくの間、九門越しに警護の藩と睨み合いを行ったが、やがて七名の参議とともに、長州への帰藩を余儀なくされた。

世に言う、八月十八日の政変である。









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