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foundation  作者: なみさや
京都
34/81

玄と珀




真紀が、中川宮邸を辞したのは夕陽が残る頃。

黒谷本陣までは半刻もあればたどり着くが、その日は朝から雨で、夕陽はすぐに厚い雨雲に隠され、夕闇が辺りを包んだ。最近、真紀付きの中間になった作兵衛は準備よく折り畳みの提灯で真紀の足元を照らす。

「暗くなってきやした、本陣は近うごぜえやす」

「そうね、急ぎましょう」

だが、足早に歩き始めてすぐに真紀は足を止める。

「一柳さま?」

「静かに。何か聞こえない?」

促されて、作兵衛が耳を澄ませば。

「何でごぜえやすか? 仔犬のような」

道の両脇には手入れが行き届いた竹林が広がる。春には質の良い筍が採れ、本陣に献上されたのを作兵衛は思い出した。

真紀は迷いなく、竹林に入っていく。作兵衛も慌ててついていくが、真紀が座り込んだのを提灯で照らして、思わず出そうになった悲鳴を呑み込んだ。

「こ、これは……」





夏が来ると言うのに、梅雨が明ける様子は見えず、慣れぬ京都の冷え込みのせいか、容保は風邪を引いていた。熱はようやく下がり、医者からも数日の内には床上げしてもよいと太鼓判を貰った。

側仕えが差し出す苦い薬を、顔をしかめながら飲み干した時、真紀の訪れが問われた。

入ってきた真紀は、いつものように微笑みながら、座る。

「御加減はいかがですか?」

「いつもの風邪だ。数日内には参内できよう」

「それはよかった。宮様も気にかけておいででした。帝も、中将本復祈願で祈祷させねばと仰せになったとか」

「畏れ多いこと」

その時、ふと何かが動く気配に容保は気づく。

真紀の懐が不自然に動いている。

「真紀どの、その、懐が」

「ああ、これですか?」

真紀が懐から出したものに容保は数度瞬いた。

「これは」

「見ての通り、犬です」

容保の布団の上で動くのは、真紀の爽やかな宣言通り、小さな小さな仔犬が二匹。

もぞもぞと動きながら、愛らしく大きな双眸が、容保を見ている。そしてか細い声で鳴く。

「拾うたのですよ。隣の竹林で、一昨日。事切れた母犬の側で鳴いておりまして。見かねて連れ帰りました」

明らかに斬り殺された母犬の側で四匹の仔犬がいた。母犬は随分前に死んだらしく、むくろは冷えきって、一匹の仔犬も既に動かなくなっていた。作兵衛の手を借りて、母犬と死んだ仔犬をその場に埋めたが、連れ帰った三匹のうち、声を上げられないほど弱っていた一匹も夜明けを待たずに冷たくなった。雨に打たれて、体力を喪っていたのだろう。

残った二匹も弱っていたが、この二日、真紀が懐で暖め、作兵衛が用意してくれた牛乳を含ませると何とか吸ってくれている。

「仔犬を育てたことがありませぬので、困りましたが、少しは元気になってきたようです」

「ふむ」

恐る恐る容保が、一匹を抱き上げれば、黒い仔犬は真っ直ぐに容保を見つめる。

「名前をつけました。黒い方を(げん)。白い方を(はく)と一文字で」

容保は思わず吹き出す。

玄とは黒い、珀とは白いを意味する漢字。

「何の(ひね)りもないではないか」

真紀が少し膨れながら言う。

「凝った名前を付けるよりも、間違わぬ名前がよいでしょう?」

「まあ、そうだが」

「しばらくは私が世話するつもりです。本陣に迷惑でなければですが」

容保は玄を下ろし、珀を抱き上げる。珀も容保を真っ直ぐに見て、それから大きな大きな欠伸をする。容保は苦笑しながら言った。

「このままでは野良犬と間違われて追い出されるな。首輪をつけた方が良い」

数日後、本陣の廊下を首輪をつけた二匹の仔犬が愛らしく走るのを見つけて、長崎から帰参したばかりの山本覚馬が声を上げた。

「なして仔犬がおるんじゃ?」

「万喜の御方さまが拾われたそうですよ、お世話されているとか」

出迎えた北原雅長が答えると、覚馬は白い仔犬を抱き上げた。人見知りをしないのか、じっと覚馬を見つめて、しかし小さな巻尾は千切れそうなほど振られている。

「なかなかめんこいではねえか。さすが都は犬も違うのぉ、額にお公家さまみたいな眉っこつけて」

「覚馬さん、それは模様です」

「そったらこつ分かっとる。ん?首輪に…こりゃ名前か?珀?シロで上等じゃねえのか?」

「アン!」

「お、返事したか?シロにするべか?お前が気に入ったんだったら」

「覚馬さん」

雅長が苦笑混じりに言う。

「命名は御方さまですよ」

「……そりゃいけねえ。珀、おめえはやっぱり珀にしておけ」

「アン!」





「ほうか、京都はそったらこつになっとったか」

雅長が、覚馬が離れている間の京都の情勢を説明する。

「僅か五月(いつとせ)あまり京都におらなんだだけでそれほど変わるとはなあ」

将軍・家茂が上洛・参内し、五月十日を攘夷期限として奏上、長州藩がこれに従い、関門海峡で英仏蘭船舶に砲弾を浴びせたのも同じ日だった。

当然、砲撃されれば反撃される。下関は完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、三国は幕府に長州の処罰を求めることとなった。

公家衆を取り込み、勢力を伸ばしつつあった長州の思わぬ(つまず)きは、幕府寄りの公卿たちの勢力を勢いづかせることとなる。しかし、尊皇攘夷の急進派の勢いもまた、幕府と朝廷を巻き込んで、互いの思惑をぶつけ合う騒乱が加速しつつあった。覚馬が帰参したのは、そんな長梅雨の終わり頃。

「殿は?」

「ここしばらくお風邪を召されたけんども、今日から御参内されやした。昼頃にはお帰りとは思うけんども」

真紀が帰ってきたのは容保の帰りよりも遅い、夕刻。

夕餉の時刻はとうに過ぎていたため、厨所の脇で、真紀は夕餉を取ることにした。

「申し訳ねえことです。こったらところでお食事とは」

料理人が小さくなりながら膳を用意する。

真紀は自分が遅くなったのだから、気にすることはないと一言言って、食事を済ませた頃。

「御方さまでねえか」

顔を出した覚馬に真紀は微笑んだ。

「山本どの、長崎からお帰りでしたか」

「これ以上、わしには分からぬと師匠のアームストロングさんに投げられた」

憮然ぶぜんと返ってきた答に、真紀は笑む。

大阪から長崎に向かう船の中、真紀の洋行の話を、まるで子供がせがむようにあれもこれもと聞きたがったその好奇心の強さを考えれば、師匠となったアームストロング氏とはかなり忍耐強く、覚馬に彼が持っている知識を余すことなく与えてくれたのだろうと想像がついた。

「しっかし、本陣でこれほど軍制改革が進んであるとは驚きやした」

「まずは黒谷で試して、上手くいけば会津でもしてはどうかと容保どのが決めたのよ、千人という数がよかったようね。山本どの、あなたの仕事は山ほどあるでしょう?」

覚馬は自らの膝を力強く叩いて、

「まことに!既に角場を準備してもらいやしたので、早速に銃の修繕を始めやした」

「速いこと。長崎組はなかなかに行動が素早い」

「学んだことを直ぐに実践できるのです、そりゃあありがたいことでなし」

胸を張る覚馬に、しかし真紀は静かに言った。

「だけど、一つだけ忘れないで」

「?」

「人の思いを忘れないこと」

真紀の言葉の意味を捕らえかねて、覚馬は数度瞬いた。

「御方さま?」

「書物には、山本どのの知らない世界が沢山広がっている。これを利用すればもっと良くなる。そういう思いで、書物を、見聞を利用することは全く(やぶさ)かではないけれど。でも、書物には人の思いは載っていないでしょう?」

「……」

覚馬はただ黙って聞いている。真紀は穏やかに続ける。

「見聞と人の思いが反することはよくあること。でも異国だって新しく何かを始める時には反発がある。諸手を上げて受け入れることなんてない。人の思いが、受け入れられるようにしてあげなくては、反動がいずれ来る」

「反動?」

弓弦(ゆんづる)を引いて、そのまま手を離せば、弓弦は勢い跳ねる。それと同じ」

覚馬は一瞬言い淀んで、

「それは人の思いから発すると、御方さまは仰有りたいので」

「どれほど溜め込むか、淀むか、それはその時によるけれど、人の思いを忘れないこと。忘れないことが、いつかきっと山本どのの助けになるから」

「……よぐはわからねえけんども、御方さまの言葉、肝に銘じやす」

覚馬が深々と頭を下げた頃、修理が顔を出した。

「御方さま、お帰りでしたか」

「修理どの」

「実は殿の寝所に、玄と珀が」

「?」





未だに体調が優れない自覚がある容保は早めに床についた。それではお休みなさいませと側仕えが下がろうとした時、側仕えの常とは違う声が聞こえた。

「なんだ」

「殿、これ、ならぬ」

現れたのは、二匹の仔犬。迷いなくコトコトと容保の床に入り込み、丸くなる。

慌てて現れた側仕えが困惑している様子に容保は穏やかに答えた。

「よい。真紀どのに今宵はわしが預かると伝えておけ」

「は、はい」





「という次第で」

「あらあら、一丁前に番犬のつもりかしら」

真紀はくすくすと笑って。

「分かった。まだまだ仔犬だから粗相するかも知れないけれど、ごめんなさいね」

夜の度、二匹は容保の床に通う姿が微笑ましく見受けられるようになった。






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