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foundation  作者: なみさや
京都
33/81

心の痛み




ゆっくりと開いた目に飛び込んできたのは、見慣れた黒谷本陣の天井だった。

だから真紀は思わず苦笑する。

夢を見ていたことを、自覚する。

しばらく見ていなかった、正之との夢。

会津を頼むと、言われたあの日のこと。

あれからまもなく、二百年になろうとしていることに、真紀は気付いた。

身体を起こせば、頭がふわりと揺れた。

「まだ、だめね」

小さく嘆息して、真紀は寝床の上に座った。

視界が回る。

いつもの怪我より血を流し過ぎたことは、分かっていたけれど。

少し休めば、身体が勝手に回復してくれる。

あとは食事と養生でなんとかなる程度か。

廊下にかすかな衣擦れが聞こえて、障子が開いた。現れたのは容保だった。起き上がっている真紀を見て、慌てて真紀の横に座り込む。

「容保どの」

「大事ないか? 必要ないとは言うていたが、医者には見せた。なにせ三日も起きぬゆえ」

いつものように穏やかに微笑んでいた真紀は、しかし数回瞬いた。

「おや、それほど眠っておりましたか」

「うむ。医者によると、疲れによって眠っているのだろうとのことであったが……大事ないか?」

「はい。いささか血を流し過ぎた故でしょうが。ご心配おかけしました」

「血を流し過ぎたということも医者に伝えてある。目覚めれば、血を増やす薬を煎じるとのことであった。あとで、飲むがいい」





自分と真紀の食事を運ばせた容保は、真紀がゆっくりと茶粥をすするのを眺めながら、言う。

「真紀どのには痛みはないのか。あれほどの手傷、よくぞ刀を振るわれたと秋月が申していたが」

「痛いですよ。ですが、痛みに囚われては身体が動かなくなります。何度か、このような傷は経験しておりますから」

真紀の言葉に、容保は箸を止めた。

「そうか」

容保の様子を横目で見て、真紀が言う。

「容保どの。このような話で箸が進まぬなら、止めましょう」

「いや、そういうわけでは」

「食べたくなくとも、食べなくてはいけませぬ。身体は食べることで、動くのですから」

苦笑しながら容保が膳に箸を伸ばす。

「わしより遥かに怪我人の真紀どのに言われるとはな」

「ええ、今はどうせ私の方が悪いです」

幾分ふてくされたように茶粥を啜る真紀を見慣れなくて、容保は再び笑う。

「真紀どのもねることがあるか」

「時知らずの身を持つだけで、私は常人つねびとですよ。聖人君子ではありません」

拗ねたように顔を背ける姿も、かつて亡き妻・敏姫が時折見せたようなもので、常人という言葉に容保は小さく笑った。

「そうか、真紀も常人か」

「時知らずの身、さえなければですが」

食事が終わった頃を見計らって差し出された薬椀を真紀は、眉を顰めながら飲み干した。

「傷を負えば、あのように瞬き間に治るのか」

「傷の程度にもよります。見た目は一刻ほどで。骨なども同じですが、さすがに血を流しすぎると、回復するのに幾許いくばくかの時を必要とします。腕を落とした時はさすがに十日ほど起き上がれませんでしたが」

尋常ならざる言葉に、容保は眉を顰めた。

「腕を落とす」

手首より少し上の部分を手刀で触ってみせて、真紀が言った。

「戦場で。そのまま押し当てて一日でつながりましたが」

「血はそうはいかぬか」

「そのようです」

事も無げに言うが、真紀は続けた。

「痛みはあります。ですが、感じないようにしています。でないと、身体が動かなくなりますから」

じりじりと神経をけ焦がすような痛みをまともに引き受ければ、身体が硬直することは時知らずの身となってしばらくしてから気づいた。

かつて、真紀の身体の異様を気付いた者がその生命力を奪おうという意図で両足のけんを切り、背中の肉を削がれたことがあった。

そのまま野晒のざらしにされて、真紀は野犬に襲われる恐怖を感じながら足の回復を待った。痛みは数日続き、動けない真紀は襲おうと様子を窺う野犬を、強い視線だけで留め続けた。時知らずの身であっても失ったものは回復せず、痛みはとうにないけれど、未だに背中には肉を削がれた跡がくっきりと残る。

「……痛みは感じないようにすればよい、か」

静かな容保の反復に、真紀は首を傾げた。

「容保どの?」

「……自分は未だ迷い続けている」

障子を開け、廊下に出て。

未だ僅かに寒さが残る中庭に続く縁側に座り込み、容保は細い息を吐いた。

白く流れる吐息を見ながら、真紀は容保の独白じみた言葉を聞く。

「京都守護職、受けざるべきだったのやもしれぬ。いや、御家訓を示されては会津に是か非かを尋ねているのではなかったと、今では分かるのだ。それでも……だが遥か都まで来て、このような泣き言を吐くのはおかしいかもしれぬ。だが、私は……帰りたいのだ。江戸に、会津に。その一方で主上から頼りとされていることに誇りを持ち、主上を守り賜うとも思うのだ。この矛盾を、いかんともしがたし……」

容保の言葉を聞いて、真紀は応えた。

「容保どの。それは矛盾というより、容保どのにとって『痛み』なのですね」

容保の、細く見える背中が動きを止めた。

未だふわりふわりと動く身体に鞭打って、真紀は立ち上がる。薬湯のおかげか、食事を摂ったおかげか、目覚めた時ほどの目眩は消えていて。

容保の背後に立って、だが冷たい廊下に座れば真紀の心が静かに整う。

「容保どの。あなたのその思いは、当然なのです。それは『心の痛み』です」

「心の、痛み?」

「はい。身体の痛みは、私が言ったように切り離すことができます。感じないように、捕らわれないようにと言い聞かせるうちに、いつか和らぎ、そして癒えていく。私の、この時知らずの身が幾分常人よりも早いだけで常人にあっても、同じように癒えるのです。ですが、心の痛みはいつまでもいつまでも、残ります」

「……」

「容保どの」

呼ばわりに振り返れば、いつもの穏やかな表情の真紀ではなく。

時折見せる、哀しげな表情を浮かべた真紀がそこには座っていた。

「真紀……」

「容保どの、あなたは水戸より養子に入られた」

「……」

「そして、土津公はにつこうの血筋ではない」

「!」

突きつけられた事実に、容保は真紀を睨みつけた。

「真紀」

「そのことが、会津藩主である以上はずっと『心の痛み』なのです。会津の者はそんなことを理由に容保どのをけなすものなどいないでしょう。よほどのことがない限り」

かつてそれを口にした者がいた。

それほどに、土津公のお血筋でないことが、お辛いか!

御家訓は藩是はんぜであっても全てであってはならぬもの! それほどに御家訓を拠り所にされるは、土津公のお血筋でないことが。

遮られた言葉は、しかし容易に想像できた。叫ばれた言葉に、容保は見えない刃で斬られた気がした。

「頼母どのを庇うつもりはありませぬが、それをあえて言わねばならぬほど、思いが募ったと言うべきではありますまいか?」

「……真紀は、頼母を庇うか」

「いいえ。臣下たるもの、いかなる場合でも主君をののしることはしてはなりますまい。するならば貶言ではなく、諫言かんげんです」

「……そうか」

「ですが、そう言われたことに心の痛みが、いつまでも消えぬ痛みがあるならば、それは容保どのが常常抱いている思いに触れるものだからです」

容保は力なくその場に座り込んだ。

「わしが、そう思うていると」

「容保どの。土津公は自分の血筋であることが藩主の条件であるなどと、どこにも遺していないはずです。私の知る正之公はそのようなことを気にかける御仁ではなかった。ただ、自分は家族に縁遠い者であったと、嘆息されることはあっても」

それは初代藩主を実際に知る者の言葉だった。容保は真紀の言葉に耳を傾ける。

「藩史を見れば、正之公の出自、御子たちの行く末など簡単に知ることはできましょう。ですが正之公の苦悩までは知るよすがはありますまい」

「しかし」

「未来永劫などありえぬ。それは真紀でも然り。正之どのが私に言われたことです」

容保はしばし瞬いて。

「それは」

「未来永劫続くものなどない。そういうことです。宗家も、会津も。正之どのはそう仰せでした」

心が揺らぐのを、感じた。

容保は思わず嘆息する。

「では」

「容保どの。あなたが会津藩主として、宗家の守護者としてあろうとするあまり、京都守護職を拝命したのはわかります。まして御家訓を引き合いに出されたのであれば、なおのこと。ですが、自分の思いと等価の答えを他に求めてはなりませぬ。その答えが、芸妓の豆華です」

どちらにしても、怖おうおす。

容保が良かれと思う答えなど、京の市井にはなかった。

「頼りとされてくださるのは、主上のみなのです。容保どの。これは会津の今の立場を示しているのです。危ういまでの、立場です」

「……辞せよ、というか。頼母の唱える通りに」

自分と共に、上洛した藩士の中に諫言した西郷頼母も入っている。合議の場には顔を出すが、江戸で激昂して以来、重く口を閉ざし、国家老として会津との連絡を己が役目として黙々とこなしているようだった。だが折に触れて、意見を求められれば『辞退』が見え隠れしていて、他の家老たちも、藩士たちも頼母の扱いに苦慮していると、少し前に修理に聞かされていた。

「頃合を見て、と言いたいところですが。事態は日日近々(ひびきんきん)に動いております。会津は後戻りの出来ぬ道に踏み出しました。でも、まだ」

まだ、引き返せるかもしれませぬ。

真紀の言葉に、容保は顔を上げた。





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