拝命書
「なんという、僭越!」
眦をきりりと上げて、一橋慶喜が言い放つ。
「親藩風情が、何を言うか!」
「一橋どの」
宥めながら、春嶽は内心で嘆息する。
次代の将軍にもっとも相応しいと目されて久しい、春嶽よりも幾分年若な男。水戸斉昭公の秘蔵子として大切に養われ、文武両道に秀で、その性、将軍に相応とも言われているが、つきあいの長い春嶽は慶喜の難しい気性を知っていた。
一番は、自らの絶対とする範疇に意見された時の癪に近い激昂。
周りの幕閣たちが恐ろしいものを見るように慶喜を見つめているのを、春嶽は感じながら慶喜を宥める。
今日の議案は、京都守護職に与える権能について。その議案を提出することすら、慶喜の逆鱗に触れそうな予感が春嶽にはあったので、差し障りがないように配慮しつつの合議となった。聊か不機嫌な様子で合議を聞いていた慶喜だったが、堪えきれなくなったのは任限についての話が話題になった時だった。
「一橋どの。任限はそれがしの案にて」
暫しの休会を告げて、続く部屋に慶喜を伴い、茶坊主に薄茶を運ばせて、春嶽が切り出す。薄茶を啜って、慶喜が眉をひそめた。
「なにゆえ」
「表向きは国許を抑えるために、会津に示してやるためにて。物入りで役目辞退を申し出たほどゆえ、会津どのに配慮したという形が取れましょうぞ」
先程までの激昂は鳴りを潜め、慶喜は沈思する。暫ししてから口を開いた。
「会津に恩を売るか」
「したり」
「しかし、任限以内に役目が終わらず、これを盾に会津が引き上げたならば、如何とも」
「確かに。しかし反故にはせず、違う役目をその前に与えるなど、如何様にも出来るかと」
「ふむ」
慶喜が考え込んだ。続く言葉に春嶽は瞠目する。
「幕閣どもには、憂いを絶つためと説明が要るか」
「憂いとは」
「会津が公家衆に取り込まれる前に引き上げさせると理由にする」
春嶽の脳裡に数日前に聞いた真紀の言葉が浮かぶ。
『義経公が京都に居続けたことが兄弟相争う事態になったのは間違いなきこと。義経公を阿諛する者がいたために起きたこと。京都守護職、同じにならぬとはなにゆえ言い切れましょう』
『会津の宗家への忠義を疑う者が出ましょう。その者が会津を排する立場の御方ならば、虚偽も真実になります』
思い至る慶喜の洞察力と。
いやそれよりも真紀の言葉が指す者が、慶喜ならば。
そして、真紀が慶喜を示唆していたのならば。
慶喜の強みは、この先の先まで見通す、洞察の深さだ。春嶽はそれを傍で見て、何度となく感服してきた。
だが慶喜がそう考えるであろうことまで、あの総髪姿の女人は考えていたのならば。
春嶽は小さく嘆息する。
だが慶喜はそれを違う意味に取った。
「福井どの、幕閣の説得はそれがしの役目。任限入れてみましょう。したが、それがしにも考えはある。それはさせていただく」
秋の訪れが感じられる頃。
容保は深いため息を吐きながら、大広間の上座に座した。
「拝命の儀、無事終わりやしたか?」
内蔵助に答えたのは、容保に付き添って儀式を見届けた主税だった。
「将軍後見職、自ら拝命書の読み上げとお受渡しをされた」
「左様でごぜえますか」
少し前、再びの熱病で病に臥した容保だったがようやく回復した頃に拝命の儀式で登城を促され、倦怠感を必死に堪えながらの儀式となった。憔悴した容保の様子を認めて、将軍後見職の慶喜は手早く儀式を終わらせ、早々の下城を許されたので、予定より早い帰宅となった。
「殿はお休みになられた方がよいかと」
「うむ」
修理に促されて容保が雅長に付き添われ、大広間から姿を消すと主税が巻物を漆塗りの文箱から取り出した。
「拝命書である」
主税の言葉に一同揃って平伏する。
主税が朗々と読み上げれば、安堵のため息がどこからともなく漏れた。
「権能のこと、滞りなく認められましたな」
「まことに。万喜の御方さまがお口添え下されたとか」
一同がそれぞれに真紀に頭を下げた。真紀は穏やかな笑みのまま、
「私は何もしておりませぬよ」
「いいえ、福井さまが仰せでした。一柳なる家老補佐役、会津に仇足る逸材よ、と」
主税は笑んで、
「まことに御方さまがおられてよかった」
「ご家老さま、一つ申し上げて宜しいでしょうか?」
不意の声は修理だった。
「なんぞ、修理」
「はい。先程読み上げられた拝命書にごぜえますが、儀式で読み上げられたものと同じものでごぜえますか」
一同が末席に座る修理を見た。
主税が、眉をひそめて言う。
「どういうわけじゃ」
「ご家老さまも、儀式にお出でになりました。私も襖越しでごぜえますが、一橋さまが拝命書を読み上げられているのをお聴きしやした。ですが、先程ご家老さまがお読みになられた拝命書と聊か違うような」
「なに」
主税が再び、拝命書に目を走らせる。
「……確かに。修理の言う通りじゃ。この任限については、お聴きした覚えがない」
真紀の視線が、一瞬険しくなったことには誰も気づかず。
「なにゆえに」
「主税どの、いかなる項目ですか」
真紀の言葉に、主税はもう一度、そこだけを読み上げた。
「任限として、三年を設けるとありやすが……さて、なじょして読み上げにならなかったので」
「さて……単なる読み忘れかもしれませぬが」
「ふむ」
「読み忘れではごぜえませぬ。私はそう思います」
夕刻、真紀の部屋に招かれた修理は開口一番、そう告げた。真紀は珍しく渋面で頷いて。
「その根拠は?」
「思い出せば、奇妙にごぜえました。任限の項目は最後にごぜえます。一橋さまが読み上げられ、最後の日付を読まれている時、確かに誰かが一橋どのと小さく呼ばれたのでごぜえます」
儀式の最中に、儀式にないことが起きたと判断すべきかと。
修理の言葉に、真紀は頷いた。
真紀の手元には、拝命書の写し。
真紀はちらりとそれに目を落とし、一つ嘆息する。
「誰かの、思惑でしょう。権能も、任限も、会津の望むものは拝命書に入っている。なのに任限だけが口にされなかった」
「一橋さまの、でごぜえましょう」
自信を持って修理は断言する。しかし真紀は頭を振って、
「そうかもしれない。でもそうだとして、拝命書には記したのに、口にしなかったのはどういう理由? 拝命書を見れば、その事実はすぐにわかることでしょう? それをわかっていて、慶喜公はあえてしたのよ。つまりこれは意思表示。会津に対する意思表示なのよ。任限が間違いなく通ると思うな、という」
「バカな」
吐き捨てるように修理が言う。
「任限は、確かに万喜の御方さまが拝命書に入れてくださるように福井さまに申し上げたことであっても、会津にとって必要な文言でした。それをなじょして」
「為政者は、孤高の者」
ポツリと真紀が言った言葉に修理が問う。
「それは」
「……会津のような君臣一体の国柄は珍しいということ。元来、主君とは一人で思考し、行う者……かつて、容保どのが初めてのお国入りの時、私は容保どのにそう申し上げた」
『藩主とは、選ぶ者です。差し出された道の中から自らの知識を持って選び、その選んだことに責と覚悟を持つ。故に孤高の存在なのです』
「しかし、それを違う意味に取る者もいる。頼るが、あくまでも家臣の一人として扱い、大きな影響力を持たせない、あるいは持つ前に牽制する」
「……一橋さまがそうだと?」
「おそらく会津が、京都で影響力を増大させることを恐れている……」
真紀は深く深く嘆息して、
「そうは思いたくないのだけれど」
障子を開ければ、穏やかな冷気が流れ込んで、真紀は肩を竦めた。
夜着の上に一枚羽織り、廊下に出れば廊下がキシリと微かな音を立てた。
見上げれば、夜空には月はない。
そういえば今日は新月だったと思い直して、真紀は苦笑する。
何か考え事をする時、夜空の月を見上げることが多くなった。いつの頃からかは覚えていない。ただ全てが『自分のいた世界』とは変わってしまったけれど、空にある太陽と月だけは何一つ変わらず、そこにあった。それに思い至った頃からのように覚えている。
そう、覚えている。
新しく記憶しなくてはならないことは多くて、『自分がいた世界』で得た記憶は脳裡の奥へ奥へと追いやられ、幼かった頃の記憶は曖昧になりつつあるけれど、あの頃得た記憶は、今真紀が生きている世界に繋がるものだ。
時々、思い出すために料紙を広げて書き連ねて、あの頃得た知識を必死に思い出す。
知識として得た頃は、学問の一つだった。
しかし、今、あの頃『幕末』と呼んでいた時代に生きて、知識の一つでしかなかった名前は現実に、個人となって真紀の前にある。
松平容保。
会津藩最後の藩主にして、京都守護職を拝命し、京都の騒乱の中心にいた人物。
結果として、彼の下した数々の決断と、彼の置かれた時勢が会津の混乱を招くことになる。
知識としてわかっている。
彼の決断を、変えることができるのであれば、会津の混乱は避けられぬかもしれないと思ったのは、遠い昔、幸松と呼ばれた正之を養育することになった頃。
だが、それが容易なことではないことも、真紀は理解している。
「反動、はどこに起きるのかしら……」
小さな呟きは誰の耳にも届かない。
ただ、真紀の知る『幕末』で起きなかったことを、真紀は起こした。
拝命書に綴られた任限は、この先どういう意味を持たせることができるのか。
真紀は小さくため息を落として。
踵を返した。
文久二年の暮れ。
急拵えに調えられた会津藩兵千名を率いて、松平容保は上洛の途についた。




