策士の戦い
「会津どのが?」
慌ただしく容保一行が帰ってからしばらくして。
松平春嶽は、容保からの使者の訪れを受けた。
「はい」
京都守護職、拝命いたしまする。苦渋の表情でそう絞り出すように言った容保の声をふと思い出し、心の片隅で一瞬小さく生まれた罪悪感を春嶽は扇子を一振りしてかき消そうとした。
「用向きは?」
「会津さまの御書簡を携えておいでですが、直接お渡ししたいとのことで」
「ふむ……」
一瞬考え込んだ春嶽だったがすぐに応える。
「よい、通せ」
通された総髪姿の者は、一柳真紀と名乗り、その声ですぐに女性と分かった。それに先刻思い詰めた表情で訪れた容保の背後で、静かに座っていた容保の家臣の一人であったこともすぐに思い至った。
「女人が使い、か」
「恐れながら、容保公より家老補佐役の御役目、いただいております」
淀みない受け答えに、春嶽は揶揄するように言う。
「ほう。会津の御家訓では、婦人女子の言、一切聞くべからずとあると聞いたが」
春嶽の言葉に、真紀は微笑みを返す。
「左様にございます。ですが私はこれに非ず」
「ほう?」
「容保公の書状、お受け取りいただけますか?」
差し出された書簡に目を通すと、容保の見事な筆跡で拝命する旨と、擦り合わせなくてはいけない内容が綴られていた。
春嶽が幾分感嘆を込めた微笑みを落としながら言う。
「ふむ、京を蔓延る不逞浪士一掃だけでは、役目にならぬと。会津どのもお気づきであったか」
「御役目を拝命した限りは、会津藩一体となってその役目に邁進いたしますが、朝廷を安んじよとはあまりにも粗鬆な御役目。どのようなことに、どれほどまでに処してよいか、また京都守護職にどれほどの権能をお預けになられるか、それらを慥かに表見いただいた上で、上洛したいと容保公の仰せにて」
真紀の静かな物言いに、春嶽は数度頷きながら、
「御家中はいかなるご様子かな?」
「会津は京を枕に討ち死にする覚悟の者が大半でございましょう」
幾ばくか他人事のように聞こえる物言いが引っ掛かったけれども、春嶽はしかし真紀の言葉の内容に眉をひそめた。
「大仰であるな」
「果たして如何でしょう。それは容保公とて同じ心緒であろうと思います。身に余る大役と何度も辞したのは、謙遜ではありませぬ」
真紀の静かな物言いに、春嶽は扇子を打ち鳴らす。
「藩政、逼迫して容易ならざる事態にてというお話も承ったが」
「それも事実。国家老からはなんとしてでも御辞退申し上げねば、会津は滅びるとまで進言がありましたから」
ここ数年、春嶽の領地・福井でも凶作が続いている。凶作が続けば領民の心が荒れる。それはどこにあっても同じことだけれど、新たな役目を与えられるということは領民にとっては『金銭がかかるもの』という意識しか産み出さないだろう。
「君臣一体になる国柄とはいえ、それは領民あってこそ。困窮・疲弊は目に見えております」
「確かに」
春嶽は不意に思ったことを口にする。
「では、そなたならばいかんせんとする」
平素の春嶽ならば、そのような大事に関わることを、他藩の藩士、ましてや女人に訪ねることなどしない。だが、会津が存亡の危機とまで家中が騒がしいと言いながら、冷静沈着な体の家老補佐役に興味をそそられたのだ。
真紀は数回瞬いて。
「何についてでございましょう」
「京都守護職、会津どの以外にどこがよいかじゃ」
「さて。私見でよろしゅうございますか?」
「うむ」
「では。京都守護職、三藩にて担うべきかと」
春嶽は眉をひそめる。
「それはどのような藩じゃ」
「親藩、譜代、外様からそれぞれ選べば宜しいかと。その上で、親藩に守護職首班とした権能を与えるのです」
「ふむ……」
「福井さまほど私が世情に詳しいはずがございませぬが、ただ外様としてふさわしいのは、薩摩かと思うのです。勅使を伴い、江戸に上ることができるだけの力、生かさぬ術はありませぬ」
春嶽は眉間の皺を深くする。
「薩摩か」
「はい」
薩摩藩を京都守護職に推す話は実際、幕閣の間でもあがり、薩摩に打診をしたものの、藩内情勢思わしくなく、お断りしたいと家老に即答されては、強要も出来ず、久光が藩兵千名とともに帰っていくのを見届けるしかできなかった。だが打診の話はごく少数しか知らぬはずで、目の前で語る家老補佐役程度が知りようはずがない。
「しかし、京都守護職を任じても、私ならば任限を設けます」
「任限?」
予想していなかった言葉に春嶽は瞠目する。
「任限とは」
「職制改革を朝廷から勅許を以て命じられているのならば、これが成るまでの間の。公方さまご上洛までがもっとも最上ではございますが。そうでないなら、判然たる任限を」
「判然とはいつまで」
「一年。長くても三年」
「理由は」
「一つには先程申し上げたように、国許を抑えるために。困窮・疲弊する国許にあっても、任限があれば、その間は持ち堪えましょう。もう一つは京が帝のおわすためです」
「……それはつまり」
「京都守護職、第二の源義経公にならしめるおつもりですか?」
穏やかに告げられた、しかし徒ならぬ内容が予想できるだけに春嶽は眉間の皺を一層に深くする。
「義経公、か」
かつて、武家が帝と公家から権力を委譲という名目で奪い取った時代。
最後の足掻きのように公家衆は当時の征夷大将軍の弟を取り込んだ。兄の元に帰るという弟を京都に据え、冠位を与え、挙げ句兄を討てと勅許を与えようともした。
結局、兄が先手を打ち、弟は京都から落ち、流れ流れて北国で最期を迎えた。
その悲劇は史実であり、春嶽ももちろん知っている。
「事実はともかく、 義経公が京都に居続けたことが兄弟相争う事態になったのは間違いなきこと。義経公を阿諛する者がいたために起きたこと。京都守護職、同じにならぬとはなにゆえ言い切れましょう」
「そなた、自分の主君が宗家に歯向かうと思うているのか」
眦を上げながらの春嶽の言葉に、真紀は頭を横に降って。
「そのようなこと、思いもよりませぬ。しかし、会津の宗家への忠義を疑う者が出ましょう。その者が会津を排する立場の御方ならば、虚偽も真実になります。そしてそうなるならば」
「……京都の騒乱は極まるか」
春嶽の独白に、真紀は静かに頷いた。
「会津は何があっても、宗家への忠義を貫きます。それが藩是でございます。それが京都の騒乱を一層促す。だからこそ、その前に会津は京都から立ち退かなくてはならぬのです」
「ふむ」
「もし、家中で言われているように京都を枕に死ぬという事態が起これば、それはまた違う意味でも、幕府の威光に傷がつきましょう。そして、この場合であっても騒乱は必定かと」
「……なるほど、そなたの考えはよく分かった」
春嶽が立ち上がるのを見て、真紀は居住まいを正す。
「任限のこと、再議の余地ありとわしは思う。詮議すべし」
「……恐れ入ります」
「一柳と申したな」
「はい」
眦を下げて、春嶽が言う。
「そなた会津所生のものか」
「いいえ」
「ふむ、会津にも俊士ありと見える。そなた、わしに仕えぬか?」
真紀は穏やかに微笑んで、応えた。
「恐れながら史記曰く、忠臣は二君に事えず、貞女は二夫を更えずと申します」
「田単伝か」
「かの知将の言葉を援引するなど、畏れ多いことですが」
「……会津どのはまこと策士を得られたことよ。惜しむらくは、女人であることのみぞ」
それには答えず、真紀は再び平伏した。
「相分かった。会津どの申し出の調整もある。そなたが申す任限も加えるとしよう」
「ありがとうございます」




