京都守護職、拝命
真紀は、ただ静かに目を閉じた。
静まり返った大広間は、しかし横山主税が吃りながら口を開いた。
「と、殿。なじょなりましたか」
「………なんとしても上洛せねばならぬか……」
容保の手から、するりと書簡が落ちる。容保は立ち上がり、上座の最奥に飾られた会津葵の幟を見つめる。
書簡は主税が震える手で拾い上げ、目を通す。
「会津藩におかれては、重ね重ねも京都守護職の御役目拝命して頂きたく……」
読み上げる主税の声が小さくなる。
「やはりならぬか……」
「我らは京都で死ねと、幕府は言うか……」
そこかしこで漏れる嘆き。
打診を受けて、既に十日。
辞退したいという会津藩と受諾を願う幕府との書簡のやりとりは既に六通となった。
会津藩から出される辞退の書簡も、幕府から出される受諾依頼の書簡も。前回と文面はほとんど変わらず。
「なじょしたものか…」
主税の深い深い嘆息が、大広間の思いを代弁していた。
「修理」
「は」
一同に背を向けたまま、容保が言う。
「福井どのに使者を立てよ。早急にお伺いしたいが是非を問うてまいれ」
「はい」
「殿」
「……直談判するしかあるまい。これで覆らずば……是非もなし」
真紀は薄く目を開いた。
そして何も語らず、上座に立つ容保の背中を見つめた。
「内蔵助、国許からは」
「今朝方、御留まり下さるようにと、西郷頼母、田中土佐連署の書状が参りました。追っ付け上府するとも」
「そうか」
「早ければ、今夕にも着きましょうが……」
「皆、聞け」
容保がゆっくりと振り返る。一同が一斉に平伏する。
「ここに至っては、京都守護職、拝命せねばならぬやもしれぬ。その心積もり、しておいてくれ」
「これはこれは、随分と早い」
憔悴しきった体の内蔵助に迎えられて、頼母と土佐は大広間に音高く座り込む。
「殿は」
「福井さまのお屋敷へ。直談判されるつうぅことで、万喜の御方と修理を伴い二刻ほど前に」
「そうだべが」
旅装も解かぬ頼母の様子に、内蔵助は嘆息する。
「そのまま御前に出るつもりだべが?」
「火急でしたがら、ご無礼をば承知の上です」
「お帰りになられる時は、修理が先触れを出すと言うておった。とりあえずは旅装束ば脱ぎっせ」
「………しかし」
「先触れが来れば、にしらにすぐに報せる」
「頼母」
田中土佐が促すと、頼母は鼻息も荒く立ち上がる。
「しからば」
「雅長、手伝ってあげっせ」
内蔵助の声に、末席に座っていた内蔵助の次男・北原雅長が立ち上がる。
「西郷さま、こちらへ」
「おう。動静も聞かせてくなんしょ」
別室に通され、雅長と側仕えの手を借りて旅装を解く。旅装を手早く脱ぎ捨てた頼母と土佐の前にはまずは腹拵えと、握り飯が差し出された。それを頬張りながら頼母は雅長から江戸で繰り返された書簡の往復と容保の出かける経緯について聞かされた。
「殿はそう言われて、出かけられだのか」
「はい」
「……万喜の御方さまもご一緒か」
「はい、急遽のご随伴を申し出られて」
頼母は初めて会った真紀の姿を思い出す。土津神社への参詣に付き添い、『西郷』の名前を継ぐ覚悟を聞かれて、まだ小さかった容保を支えたいと、決意を述べて何年経っただろう。
父の死で家督を継ぎ、名乗りを近悳から頼母に変えても、容保を支えたいと思いは変わらず、時折の真紀の訪れで真紀から会津の外が激動するのを聞いても、その思いは変わっていないと自負できる。
ただ一つ、真紀が訪れの度に、その微笑みに憂いが増しているように感じる以外は。
「此度のこと、万喜の御方さまは何か仰せか?」
頼母の言葉に、兄に良く似た目元に少しばかりの悲しみを滲ませて、雅長は頭を横に振る。
「何も。ただ初めて打診があった折に、殿に即答してはならぬと、仰せになりました。今思い返せば福井さまからのお話が分かっていたかのような仰せをされて以降、大広間では何も発言なさいませぬ。兄によれば、殿は一度、御方さまの部屋でお話をされた由。そこについては殿も何も仰せにならぬと」
頼母は眉をしかめた。
「なじょして」
「大広間での合議にはお姿を見せますが」
「京都守護職、受けるべきと御方さまは思うておいでなのか?」
土佐の言葉には、雅長は頭を振るだけだった。
あるいは。
頼母は思い至って、溜め息を吐いた。
「この御役目、受ける以外に道はないということやもしれぬ」
「しかし、頼母。これ以上、どっから捻り出すつうんだ」
土佐の嘆息に、しばらくして頼母は答えた。
「だからこそ、この御役目、受けるわけにはいがぬ」
「頼母、土佐、遠路はるばるご苦労である」
座について最初に告げられたのは国家老の二人の名前だった。只管に平伏して、それから頼母が頭を上げた。
「恐れながら、殿。福井さまの上屋敷へ訪われたと聞いておりやす。首尾はなじょなりましたか」
「………京都守護職、拝命して参った」
時が、止まったように感じられた。
誰かの、短いため息が大広間に響く。
「な、なじょしてそのような次第に」
頼母が必死に声を搾り出す。
「殿、なじょしてそのような次第に!」
「……言葉を尽くして、ご辞退を申し上げた。ここ数日に至っては、福井どののみならず、御三家・御三卿、幕閣に至るまでご辞退した上、口添えをお願いしたいと書状を送った」
「それにつきましては、お伺いしておりやす。ですが、今日は直談判にまいられると」
「しかし、言葉を尽くしても。福井さまはお聞き届けにならぬ。どころか」
容保は背筋を伸ばし、下座に座る一同を見渡して、一言呟くように言った。
「御家訓」
下座に座る真紀以外の全員の背筋が伸びた。
「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず。面々(おのおの)決して従うべからず……福井どのはこれをご存知であった」
すらりと容保から滑り出た、御家訓の最初の一条。
秘したものではなく、藩是であるので、知識豊かな春嶽が知る伝手はいくらでもあるだろう。
だが。
春嶽からその一条を聞かされた時、容保は驚愕と、否応ない諦感に襲われた。
「……宗家の御為である」
ダン。
大広間に響いたのは、頼母が床を叩いた音。
「なりまぜぬ!」
「頼母」
主税の呼び掛けも頼母の激昂を抑えられない。
「砲台守備に、屋敷の修復、出費が嵩む一方なのに」
「……守護職の任にある時は、砲台守備は免じられた。今月中には新たな藩に粛々と任を譲ることが出来るように準備を整えよ」
容保の感情を殺したような物言いに、それでも頼母の激昂は収まらず。
「そったらこと、焼け石に水でごぜえます! 京都に出向けば、国許は困窮、疲弊する、これ必定にて!」
「分かっておる。準備は最低限でよい、軍揃えも国許から使えるものを持ち出せ。それらの差配もそなたたちに任せる。藩政改革も暫し留めよ」
「ですが」
「必要であるなら、俸禄の買い上げも引き上げよ。藩命で下してもよい」
「殿!」
そうではないと頭を横に振っても、容保は静かに言う。
「社倉は今まで通り。これには手をつけぬ。だが、見直すことが必要ならば」
「殿、そうではないのです!」
「頼母、止めよ。殿の御苦しみがにしには分からぬか!」
怒気を含んだ主税の言葉に、漸く頼母は口をつぐんだ。
「京都守護職、拝命したからには滞りなく準備を整えねばならぬ。頼母、土佐。そなたたちに辛き役目になろうが、堪えてくれ」
主君のいつもと変わらぬ優しい言葉は、しかし頼母の心に虚しく響く。
「……殿は」
頼母は低く唸るように言う。
「それほどに、土津公のお血筋でないことが、お辛いか!」
大広間の空気が冷えた。一瞬置いて、内蔵助の怒声が飛ぶ。
「控えよ、頼母!」
「いいや、申し上げさせてくだせえませ! 御家訓は藩是であっても全てであってはならぬもの! それほどに御家訓を拠り所にされるは、土津公のお血筋でないことが」
「黙らぬか、頼母! 誰ぞ、連れ出せ!」
内蔵助も負けずに叫ぶ。
「頼母、にしとて殿よりお許しを頂いたとは言え、金銭が嵩むことをしておるでないか、藩士子弟の遊学を幾ばくか留めればよいではないか!」
「それは!」
「それは、私がお願いしたこと」
静かな声が、大広間に響いた。容保が真っ直ぐに真紀を見つめる。真紀は、しかしいつもの微笑みではなく、容保のように表情を殺したまま、
「今後の会津の為にも、若者を遊学する道を開け、と頼んだのは私です。頼母どのは私の言葉を実行してくれただけのこと」
「そ、それは不遜なことを申し上げました」
内蔵助が頭を下げる一方で、再び頼母の怒声が飛ぶ。
「お方さまは、なじょしてお止めくださらなんだ! お方さまならば、受けることなどなかったのでないのか! 会津の守護者であられるお方さまならば!」
頼母の怒声は、しかし真紀の表情を変えることはなく。
「頼母、下がれ」
静かな容保の声に、すぐさま修理が動いた。雅長に目線だけで合図を送り、二人で頼母の両脇に膝まづく。
「西郷さま」
「しかし!」
「お願いいたしやす。今はとにかく、納めてくだせえませ」
修理の小さく静かな声色に頼母は一つ嘆息を落として立ち上がる。
「御無礼つかまつりました」
頼母が修理に連れられて下がると、容保は一同を見渡し、
「ここに至っては是非もなし。御役目をいただいたからには、粉骨砕身の思いで勤めるべし」
一同平伏して、容保の言葉を聞く。
「準備の時は短い。早急に始めよ。よいな」
「はい」




