轟く音
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
当たり前のように真紀が返すと、見慣れぬ側仕えが肩を強ばらせた。
「お、畏れ多いことで」
「茶を出されれば、礼を言う。至極凡常のことでしょうに」
真紀が笑えば、側仕えは慌てて一礼して、部屋を辞した。
側仕えが辞してすぐに現れたのは、神保修理だった。
「万喜の御方さま」
「ああ、修理。突然の訪ないで申し訳ない」
修理は笑顔のまま一礼して、
「御方さまの訪ないはいつも突然でごぜいますが、いつでも準備は整うておりますゆえ」
笑顔で放たれた小さな嫌味も、真紀は微笑みで返す。
「容保どのは?」
「登城しておいでで」
「ああ、まだそんな刻限ね。一度部屋に下がっていた方がいいかしら」
修理は小さく頷いた。
「お帰りになられましたら、お伝えしやす」
大阪で数ヶ月を過ごし、江戸に入った頃には初夏というより盛夏に近く、旅の埃と相まって茹だるような暑さに真紀もさっさと旅装を解きたい気分だった。
「そうね。そうさせてもらいたいけれど、一つだけ聞いていいかしら」
「なんでごぜえましょうか」
「公方さまのご容態は?」
修理の笑みが消えた。
しかしそれも一瞬で、再び笑って。
「失礼いたしやした。御方さまが、御方さまであることをしばし忘れておりやした」
「何のことやら。日本橋界隈で、如何にも旗本らしい御仁二人が囁きにもならぬ声で城詰めがどうの、ご容態がどうのと話しておれば、こちらでは容保どのは登城日でもないのに、登城されている。ならば、蒲柳の質の公方さまに何かと思うのが定石」
吐露を誘われたと気付いた修理は、だがしかし一礼して。
「お部屋は奥御殿に用意してごぜえます。右筆にお迎えに参らせますので」
「あら、前は表御殿にあったでしょう? そちらで良いのに」
「表御殿の一部をただいま改築中にて、奥御殿に用意しました。殿も改築中は奥御殿にお住まいでごぜいます」
修理の言葉に、真紀は小さく何度か首肯いて。
「そういうことなら」
少し温めの湯が心地よかった。
髪の中まで土埃が入り込んでいた為に、真紀は元結を外し、腰まである長い髪を洗い流した。湯船に浸かって、思わず安堵のため息をついたその時。
何か聞き慣れぬ音を聞いた。
落雷のような。
思わず傍の無双窓を開けてみるが、空が明るい。雨が降る気配すら見えないというのに。
続く、音。
遥か遠くで雷鳴が鳴っているような。
「まさか」
真紀は何かを指折り数えてみて。そして思い至る。
「……今日とは、ね」
深く溜息を吐いた。
「お、御方さま!」
悲鳴のような呼ばわりで、転がり込むように入ってきた右筆が裏返った声で、雷が雷がと声にならない説明をしようとするのを、真紀が一喝する。
「落ち着きなさい! 何事ですか」
「は、晴れておりますのに、雷が鳴っております! い、一度ばかりではなく、さ、さ、先ほどより何度も!」
「聞こえています。殿は下城されましたか?」
「あ、いえ、先触れはございましたが、まだ」
上屋敷がある和田倉門から、容保が登下城に使う大手門は目と鼻の先。先触れなど必要ないほどの近さだ。だが先触れが着いてから、容保一行が未だ着かぬとあれば。
「出ます。手拭をあるだけ持ってきてください」
「え、あるだけでございますか」
「急いで」
「は、はい!」
下城するべく、大手門を出たところで、容保は異変に気付いた。
乗物の窓を開けると、雷鳴のような音が響くのが分かる。
「殿」
側仕えが覗き込む。
「何事だ。このような晴天で」
「先ほどから聞こえておりやすが、なしてこのような音が」
「……分からぬ。御城から使いはあるか?」
側仕えが振り返り、御城(江戸城)を見遣ったが、
「いいえ、そのような」
「……報せもなく登城すれば、咎となろう。とにかく屋敷へ。呼応があればいつでも登城できるように準備をしておくように」
「は」
上屋敷に帰りつけば、屋敷内は幾分騒然とした雰囲気を醸していた。
「殿」
「こはいかような」
「騒ぐな。事の次第が分からぬのであれば、動きようがない。御城より使いがあれば、いつでも登城できるように準備怠りなく整えよ。追って沙汰する」
「はい」
騒然とした雰囲気を残したまま、しかし容保を迎えて屋敷は整然と動き始めた。
「お召物はいかがいたしやしょう?」
「そのままでよい。したが、あの音はなんとも怪異ではあるが」
大小(刀)を受け取りながら、修理が思い出したように言った。
「されば殿。万喜の御方さまがおいででごぜえます」
「真紀どのが?」
「音が聞こえる少し前に」
一刻程度では、真紀の長い髪は乾かない。
滴る水滴だけは大量の手ぬぐいで拭き取ったけれど、まだしっとりと濡れている。
いつもであればそのまま結い上げるのだが、それが許されるのは旅籠などだからで、作法に厳しい奥御殿では、濡れ髪で結い上げることすら無作法になる。
真紀は縁側から中庭に向かって足を投げ出して座り、小さく頭を振った。濡れた髪が重い。
「乾かないなぁ」
小さく溜息を落としながら、真紀は幾分首を傾げ、長い髪の間に手を差し込んで、髪をゆらゆらと動かす。少しでも早く乾いてほしいと願いながら。
静かな足音と、衣擦れの音に振り返れば、容保が渡り廊下を歩いて来るのが見えた。
不意に。
容保と真紀の視線が絡んだ。
幾分険しい表情だった容保のそれが、一瞬崩れ。
だがすぐに険しい表情に戻れば、駆けるように真紀の許に進む。
「真紀どの」
「これはこれは、お帰りでしたか。すみませぬ、このような格好で」
縁側から投げ出していた足を調え、居住まいだけを正して、真紀は微笑んだ。
「なんぞ賑やかな音がしておりましたね」
「うむ。あれはいかなるものであろうか、随分と大きな音が何度も響いたが。何の怪異であろうか? 真紀どのならご存知かと思い」
「……よく似た音を、昔清国で聞いた覚えがございますが」
真紀の独白のような言葉に、容保は数回瞬いて。
「清国、とは」
「容保どのにはお話ししましたね、かつて異国に渡ったこと」
思い出した。
真紀が長崎から如何なる方法でか、欧州・アメリカまで放浪した話を、会津の万喜御殿で聞いたことを。
とはずがたりのような冒険譚を、興奮を隠しきれないままで聞いた。
だが、2年前とは違う。
真紀のその言葉に隠された意図と、昨年、御城で老中・阿部正弘に招集された事案を思い出した。
一瞬瞠目して、きりきりと上がる容保の眦を見つめながら、真紀はあくまで穏やかに言う。
「容保どの」
「真紀どの、まさか」
「いきなり押し寄せて来て、大砲を打ち掛けるようなことはないでしょう。異国とはいえ、それが蛮夷であるとは限りません。戦をするにも手続きが必要ですから」
真紀は南の空を見上げて、呟く。
「ですが、せっかくのオランダからの話、時を逸しましたね」
真紀をではなく、真紀の彼方にある南の空を睨み付けるように見上げて、しかし容保が声を上げる。
「修理はおるか!」
時を置かず、修理が駆け込んで来る。
「何事で」
「修理、誰ぞ、いや、1人ではなく大勢走らせよ。様子を見て来るのだ」
修理は容保の意図が分からず、眉を潜める。
「どこへ、何を?」
「来るのであるなら、御城の傍まで来たがるでしょうね。しかし、湾内奥深くまでは入り込まない。今はまだ」
真紀は相変わらず、南の空を見上げながら、
「鎌倉か、それよりは東寄りか……とにかく江戸湾内浅くに」
「何があるのでごぜえましょうか?」
「船じゃ」
容保の答は明確だった。
「見慣れぬ船を探せ。鎌倉に向かいつつ、土地の者に聞け」
「では直ぐに」
修理が下がり、容保は深く嘆息しながら、その場に座り込んだ。
「誠であったか……」
真紀は微笑みながら、容保の傍に座り直した。
「まだ完全に逸したわけではありませぬ」
時々に応じて、幕府に届くそれは、オランダ風説書と呼ばれる。
長崎・出島にオランダ東インド会社に常駐を認める条件のひとつに、滞在する商館長にさまざまな世界情勢を報告させたものが、オランダ風説書として幕府に届けられる。
昨年、溜間に招集された容保はそれを見ている。
「内容は覚えておいでですか?」
「アメリカに海軍があり、日本と通商を求めるために戦船を準備して、来年夏頃に現れる。船には戦う者を乗せていて、いざとなれば戦いを挑むやも知れぬ。故に通商を許した方がよい、幾つかの港を開港せよ。そんな内容であった」
「幕閣はそれについては?」
「大広間での合議は通商など言語道断、で決したとか。溜間でもそのような話になった。海防掛からも同じように」
その根拠は、容保も納得し難いものだった。
「風説書に誤り多しとのことだった」
「それは一理ありましょうが、それで全てと断じてはならぬところでしたね」
真紀の言葉に、容保は嘆息する。
「ですが、起きてしまったことは仕方ありません。これから出来ることを探しましょう。ですが恐らく会津にも役目が回ってきましょう」
「役目、だと?」
「『宗家の守護者』に求められましょうね。格好の引き受け手ですから、会津は」
真紀が立ち上がれば、容保の鼻を清涼な薫りが擽った。
「容保どの、今はまだ見極める時。待ちましょう。そして、如何なる事態になろうとも対処出来るように準備する時です」
容保は座したまま、真紀を見上げた。再び南の空を見つめる真紀の、総髪ではない見慣れぬ髪型と、鼻腔くすぐる涼しげな薫りを感じながら。
「そうだな、出来ることはまだ、ある」
黒船来航が上屋敷に届くのは、数日経ってからのことだった。




