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foundation  作者: なみさや
嚆矢
1/81

託された赤子




細い指が、動く。

静かに。

音もなく。

容保(かたもり)の、薄い唇をふさぐように。

言葉をとどめるように、そっと人差し指一本だけ触れて。

彼女は笑む。

それ以上は語らぬようにと、柔らかく制して。

ゆったりと触れられた唇が、しかし指の柔らかさを唇に伝える。

容保は自らの唇を触れながら、数歩下がる。

触れた女は、嫣然(えんぜん)と微笑みながら言った。

「これは、必然。数多(あまた)の歳月から生まれた、必然の時。容保よ、開祖・土津公(はにつこう)の思い、聞き逃すか」

その言葉が容保をとらえて、動かない。





「子を、頼みたい」

突然の願いに、真紀は小さく瞬いた。

「子」

「うむ」

ここ数年で一見恰幅(かっぷく)がよくなった男は、久しぶりの邂逅(かいこう)でありながら挨拶も省いて、そう切り出した。

さすがの不調法に、真紀はため息を吐いて。

「秀忠どの」

「なにか」

「数年来に会う者に、それが頼む口調であるのか? 徳川では」

「おお、すまぬ」

上方で自由気ままに生きていた真紀に、便りが届いたのはさすがに徳川の威光か。

父親が送る便りにはなかった威丈高が見え隠れするけれど、真紀はあえて穏便に二代将軍の願いを聞き届けた。

幼き頃から馴染の、秀忠(ひでただ)

愚直ではあるが、決して信頼したものを裏切らないという噂を持つという。

出来すぎた長男に隠れていた二男は、長男の失脚を乗り越えて、嫡子として落ち着いた、と聞いていた。

「実は、江与には黙って子を成した」

秀忠の告白は、正室たる江与との子ではないという、安易な答えで。

「どこのおなごに」

「……うむ」

子の母の名すら出ない。それはあくまで行きずりの出会いであったことが推察できて、真紀は小さくため息をつく。

「つまりは、城に上げることが出来ぬ、と」

「うむ」

正室の子は、城で生まれる。

側室の子は、城外で生まれ、正室の許可あって城内で養育される。

それが習わし。

だが、真紀は目の前でため息を吐く秀忠の、(つよ)い妻を思う。

夫に江与と呼ばれた彼女は、何人目かの子を宿したばかりだが、決して引かぬ。

おそらくは夫に側室の子を育ててくれか、側室を城にあげたいと言われて、勘気を爆発させたのだろう。

遥かに年下の、この男は、それを御する技をもたない。

「いかがか、真紀」

「……いかがと聞かれても。何を私に望むか」

真紀の静かな答えに、秀忠は膝を打った。

そうか、望みを言わなんだ。

威丈高の中に、相も変らぬ柔らかな愚かさに真紀は笑う。

「この子どもの養育を、真紀に頼みたい」

「……は?」

「よきように致せ。母親は産褥(さんじゅく)にて身罷ったと聞いた。それゆえ、奥の怒りは子には向かわぬ」

子の存在が、正室の怒りを招くのではない。

子を為す行為が、正室の怒りを招く。

そう指摘したかったが、真紀はあえて何も語らず、頭を垂れて言った。

「確かに。その男の子、引き受けまする」





「真紀は、何故に我が傍におる」

ぽつりと告げられた言葉に、真紀は小さく笑んで。

「なにゆえと言われても。まことの父上にそう告げられては」

「まことの父上とは、江戸におわすお方か」

幼子とは思えぬ言葉に、真紀はしかし真正面からとらえて頷いた。

「いかにも」

「……我が、父であらせられる」

「いかにも。したが、それにはあえて否ともうしあげましょう。幸松(こうまつ)ぎみ」

呼びかけられて幼子の背筋が伸びる。

「なんじゃ、真紀」

「その名乗り、未だかないませぬ。まこと、その時は来るとは限りませぬ。よって一心に秘すべし」

「……秘すべし」

遠く、真白き江戸城の城閣が見える気がした。

だがあそこに父親がいるとわかっていても、幸松には近寄ることすらできない。

夜になれば、幼子が(むせ)び泣く声に起こされる。

問えば、見ぬ父を思い泣くという。

だが、側室の子の定め。

(わらわ)が預かろう」

声をあげたのは、かつての盟主の娘。

生まれた子を早くに亡くし、自分の父親の名前故に江戸城に住まうことを許された、僧形のおなご。

白布をゆらりと揺らして、武田の生き残りは真紀に告げる。

幼き子を、庇護すると。

それゆえに、奥に控えし女性は決して愚かしい真似をすることなく、保科(ほしな)家に養子として迎えられるまで、幸松は健やかに育ちゆく。

「真紀」

「はい」

「わが父は、いかにお過ごしか」

問われれば、真紀は穏やかに応える。

「天の端にお住いの御方を思われていかがします」

だがそして、その日の将軍の予定をさりげなく伝える。

どこにいるか、何をしているか。さりげなく覗けるか。

それが、真紀の思いでもあった。

最初から交わることのない、父子の道への、精一杯の配慮だった。






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役に立たない豆知識。

史実を参考に捏造しているので、史実をご紹介してみます。


保科正之の養育について。

正室の許可を受けていない侍妾(側室)の出産・養育は江戸城内で行われないのが通例であったために、幸松の養育は武田信玄の二女・見性院に委ねられ、のちに見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育されることになります。







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