婚約破棄された子爵家の三男ですが、実は国王陛下最愛の第一王子でした。 ~すべてを失った公爵令嬢と侯爵令息の後日談~
クラリッサ・フォン・ローゼンベルクは、鏡の中の自分を見つめていた。
かつて、王都で最も美しいと称えられた公爵令嬢。
艶やかな金髪に、宝石のような青い瞳。どれほど着飾っても、その美しさが損なわれることはなかった。
王立学院に入学した頃、彼女は誰もが羨む存在だった。
公爵家の令嬢という高貴な身分。
優れた容姿。
そして、将来を約束された婚約者。
すべてを持っていると信じていた。
それなのに。
「……どうして、こうなってしまったのかしら」
呟いた声に、答える者はいない。
窓の外には、ローゼンベルク公爵家の広大な庭園が広がっている。
以前なら、彼女はその庭園を眺めながら、次の舞踏会で着るドレスや、誰よりも注目を集めるための計画を考えていた。
しかし、今は違う。
庭園の手入れにかけられる費用さえ削減され、噴水は止まり、花壇の一部は雑草に覆われていた。
かつて頻繁に訪れていた貴族たちも、今ではほとんど姿を見せない。
ローゼンベルク公爵家は、没落の一途をたどっていた。
原因は、半年前に起きた婚約破棄騒動だった。
いや、正確には、彼女自身が引き起こした騒動である。
「クラリッサ様、お食事の用意ができております」
侍女の声がした。
「……いらないわ」
「ですが、朝から何も召し上がっておりません」
「いらないと言っているでしょう!」
思わず声を荒らげると、扉の向こうが静かになった。
以前なら、侍女はすぐに謝罪し、彼女の機嫌を取ろうとしただろう。
しかし、今では違う。
しばらくして、侍女は淡々と答えた。
「承知いたしました。お食事は食堂に置いておきます」
それだけ言うと、足音が遠ざかっていった。
クラリッサは唇を噛んだ。
何もかもが変わってしまった。
自分の言葉に誰も従わない。
自分の機嫌を取ろうとする者もいない。
誰もが、彼女を腫れ物のように扱っている。
その理由は、分かっていた。
王太子アレクシス。
かつての婚約者。
子爵家の三男だと思っていた、あの地味な青年。
彼は今、王国で最も尊い立場の一つに就いている。
そして、自分は彼を捨てた女として、王都中の笑い者になっていた。
「……私は、間違っていたのかしら」
口にした瞬間、クラリッサは首を横に振った。
「いいえ。違うわ」
自分に言い聞かせるように呟く。
「だって、あの人が王子だなんて知らなかったのよ。知っていたら、あんなことはしなかったわ」
そう。
彼が王子だと知っていれば、婚約など破棄しなかった。
むしろ、彼の隣で微笑み、王太子妃となる未来を喜んでいたはずだ。
自分は悪くない。
知らされていなかったのだから。
そう考えれば、少しだけ胸が軽くなった。
しかし、次の瞬間、別の記憶が蘇る。
婚約破棄を宣言した日のことだ。
大広間の中央で、アレクシスを見下ろしながら、彼女は言った。
――あなたのような身分の低い男が、ローゼンベルク公爵家の令嬢と婚約していたこと自体が間違いだったのよ!
そのとき、アレクシスは怒らなかった。
泣きもしなかった。
ただ、静かに彼女を見つめ、こう尋ねた。
――本当に、それでいいんだね?
あのときの声が、今でも耳に残っている。
まるで、彼女に最後の機会を与えるかのような声だった。
だが、彼女はそれを拒絶した。
――当たり前でしょう!
そして、彼は去っていった。
クラリッサは両手で顔を覆った。
「……どうして、あのとき引き止めなかったの」
答えは分かっている。
引き止める理由などないと思っていたからだ。
彼は平凡な子爵家の三男。
自分にはもっとふさわしい男性がいる。
そう信じて疑わなかった。
ところが、現実は正反対だった。
彼女が捨てたのは、ただの婚約者ではなかった。
未来の国王だったのである。
そして、彼女は今になって、その価値を知った。
遅すぎるほどに。
※
「クラリッサ、入るぞ」
父の声に、彼女は慌てて姿勢を正した。
扉が開き、ローゼンベルク公爵が入ってくる。
以前は堂々とした威厳を備えていた父も、今では疲労の色が濃かった。
目の下には隈があり、髪には白いものが増えている。
「お父様……」
「食事を取っていないそうだな」
「少し、食欲がないだけですわ」
「そうか」
公爵は短く答え、椅子に腰を下ろした。
その表情は険しい。
「本題に入ろう。王宮から通知が届いた」
クラリッサの胸が跳ねた。
「王宮から……?」
「来月、国王陛下主催の慈善晩餐会が開かれる。私は出席するが、お前は連れていかない」
「どうしてですの!?」
クラリッサは思わず立ち上がった。
「私はローゼンベルク公爵家の長女ですわ! 王宮の晩餐会に出席するのは当然でしょう!」
「当然?」
公爵の声が低くなった。
「お前は、自分が置かれている立場をまだ理解していないようだな」
「そんな……」
「王宮には、お前を見れば婚約破棄騒動を思い出す者が大勢いる。王族を侮辱し、相手の身分を知った途端に復縁を望んだ令嬢。そんな者を連れていけば、我が家が何を考えているのかと疑われる」
「私は、復縁を望んだわけでは……!」
「では、あの手紙は何だ?」
クラリッサは口を閉ざした。
一年近く前ではなく、王太子任命後に送った謝罪の手紙。
そこには、もう一度機会を与えてほしいと書いていた。
彼女は、あれを謝罪だと思っていた。
しかし、父は違う見方をしていた。
「お前は自分の行為を悔いているのではない。失った地位を惜しんでいるだけだ」
「違います!」
「ならば聞こう。もしアレクシス殿が、今も子爵家の三男だったなら、お前は謝罪したのか?」
「それは……」
答えられなかった。
「そういうことだ」
公爵は立ち上がった。
「ローゼンベルク家は、今回の騒動で多額の違約金を支払った。取引先も減り、縁談も次々と断られている。領地の財政を立て直すため、私がどれほど頭を下げたか、お前には分かるまい」
「お父様……」
「私は、お前を甘やかしすぎた」
その言葉は、クラリッサの胸に深く突き刺さった。
「お前がアレクシス殿と婚約したのは、私が認めたからだ。彼の家柄が低いことを承知で、それでも彼の人柄を信頼した。お前にも、身分だけで人を判断しない人間になってほしかった」
公爵は、苦しそうに目を閉じた。
「だが、お前は彼を見下した。彼の努力を嘲笑い、友人たちの前で恥をかかせ、別の男と密会を繰り返した。そして、最後には大勢の前で婚約を破棄した」
「エドガー様は……」
「その名前を口にするな!」
公爵の怒声が響いた。
クラリッサは肩を震わせた。
「エドガーは、自分の行動の責任を取らされている。侯爵家の嫡男から外され、領地へ送られた。お前を幸せにすると言っていた男は、今、お前のために何をしている?」
「……」
「何もしていないだろう」
公爵は冷たく告げた。
「お前が失ったものを、彼が取り戻してくれることはない。いや、彼自身、失ったものを取り戻せていないのだからな」
クラリッサの目に涙が浮かんだ。
父は、彼女を慰めなかった。
「これからは、少しでも家の役に立つことを考えろ。お前は公爵令嬢だ。恥をかいたからといって、責任から逃げていいわけではない」
そう言い残し、公爵は部屋を出ていった。
クラリッサは、その場に座り込んだ。
自分が失ったのは、婚約者だけではなかった。
父からの信頼も、家族としての誇りも、少しずつ失っていたのである。
それでも、彼女の心には、まだ小さな希望が残っていた。
もし、もう一度アレクシスに会えたなら。
もし、直接謝罪できたなら。
彼は、許してくれるかもしれない。
そう思わずにはいられなかった。
※
エドガー・フォン・ハルツは、窓の外を眺めていた。
王都から遠く離れた、ハルツ侯爵家の地方領。
かつて彼が暮らしていた屋敷に比べれば、今の住まいは小さい。
使用人の数も少なく、華やかな調度品もない。
何より、彼を持ち上げてくれる人間がいなかった。
「……つまらない」
エドガーは吐き捨てた。
以前なら、彼が一言つぶやくだけで、周囲の者たちが機嫌を取ってくれた。
学院では女生徒たちが彼を取り囲み、貴族の集まりでは誰もが彼に敬意を示した。
侯爵家の嫡男という肩書きがあったからだ。
しかし、今では違う。
彼は嫡男の地位を失った。
後継者に指名されたのは、弟のフレデリックだった。
父は、エドガーが王家との関係を悪化させただけでなく、学院でも問題を起こしていたことを知り、容赦なく彼を切り捨てた。
「お前に侯爵家を継がせるわけにはいかない」
父は、そう言った。
「自分の欲望を抑えられず、目先の利益に飛びつく者に、領民の生活を任せることなどできん」
エドガーは反論した。
しかし、父は取り合わなかった。
そして、彼は領地へ送られた。
「全部、アレクシスのせいだ」
エドガーは拳を握った。
あの男さえいなければ。
あの男が王子などでなければ。
自分は今も、王都で華やかな生活を送っていたはずだ。
クラリッサと結婚し、公爵家とのつながりを得て、侯爵家を継ぐ。
そうすれば、将来は王宮でも大きな影響力を持てたかもしれない。
それなのに。
「どうして、あんな男が第一王子なんだ!」
誰もいない部屋で叫んだ。
そのとき、扉がノックされた。
「エドガー様。お父上からのお手紙です」
使用人が封書を差し出した。
エドガーは乱暴に受け取り、封を切った。
中には、短い文章が記されていた。
『今後、王都への帰還は認めない。
領地において与えられた仕事を全うし、自らの行いを省みよ。
これ以上、王宮や王太子殿下へ嘆願書を送ることも禁ずる。
ハルツ侯爵』
エドガーは紙を握り潰した。
「ふざけるな……!」
彼は何度も王宮へ手紙を送っていた。
アレクシスに会わせてほしい。
誤解を解きたい。
自分は王子だと知らなかったのだから、許されるべきだ。
しかし、返事は一度もなかった。
それどころか、今度は父からも手紙を送ることを禁じられた。
エドガーは机を叩いた。
「僕が何をしたというんだ!」
その言葉を口にした瞬間、彼の脳裏に一つの光景が浮かんだ。
婚約破棄の大広間。
アレクシスを見下ろしながら、自分は言った。
――クラリッサは君のような男にはもったいない女性だ。
あのとき、アレクシスは怒らなかった。
ただ、淡々と婚約破棄を受け入れた。
そして、自分たちを見て、後悔しないようにと言った。
エドガーは歯を食いしばった。
「……あいつ、最初から知っていたのか?」
いや、そんなはずはない。
だが、あの落ち着いた態度。
王宮へ行くことを決めた後も、彼は何一つ取り乱さなかったと聞いている。
まるで、自分がどうなるか分かっていたかのようだった。
エドガーの背筋に、冷たいものが走った。
しかし、すぐに首を振った。
「そんなわけがない。あいつはただ、運がよかっただけだ」
そうでなければ、自分が負けたことを認めなければならない。
自分が見下していた男のほうが、はるかに優れた人間だったと。
それだけは、認めたくなかった。
※
領地へ送られてから三か月。
エドガーは、父の命令で領地経営の補佐を始めた。
最初は簡単な仕事だと思っていた。
帳簿を確認し、書類に署名し、使用人に命令を出せばいい。
しかし、現実は違った。
領地の財政は厳しく、農民たちは税の負担に苦しんでいた。
昨年の不作で収穫量が減少し、さらに橋の修繕費用が必要になっていた。
エドガーは帳簿を眺め、眉をひそめた。
「税収が少なすぎる。徴収額を増やせばいいだろう」
担当官は困った顔をした。
「それでは、領民の生活が立ち行かなくなります。すでに滞納が増えておりますので、これ以上の増税は危険かと」
「では、どうしろというのだ!」
「支出の見直しと、来年の収穫に向けた農地の整備を……」
「そんなことをしていて、いつ金が入る!」
担当官は口を閉ざした。
エドガーは苛立った。
なぜ、誰も自分の言うことを聞かないのか。
自分は侯爵家の嫡男だったのだ。
命令すれば従うのが当然ではないか。
しかし、その地位さえ失った今、彼の言葉には何の重みもなかった。
数日後、エドガーは父に報告書を提出した。
すると、すぐに呼び出された。
「これは何だ?」
父は報告書を机に置いた。
「税収を増やすための案です」
「農民の負担を増やすだけの案を、よくも提出できたものだな」
「ですが、財政を立て直すには……」
「お前は、領民の暮らしを見たことがあるのか?」
エドガーは黙った。
「税を納めるために家畜を売り、食料を減らしている農民がいる。お前の案では、彼らは土地を捨てて逃げるだろう。そうなれば、税収はさらに減る」
父は深いため息をついた。
「お前は、数字を見ているようで、何も見ていない」
その言葉は、エドガーの胸を強く打った。
何も見ていない。
かつて、アレクシスにも似たようなことを言われた気がした。
いや、実際には言われていない。
ただ、アレクシスはいつも、周囲をよく見ていた。
学院で困っている生徒がいれば、さりげなく助けていた。
試験の成績が悪い者にも、馬鹿にすることなく勉強を教えていた。
エドガーは、そんな彼を地味で面白みのない男だと笑った。
だが、今になって気づいた。
自分は、彼のことを何も知らなかったのだ。
「……父上。私は、どうすればいいのでしょうか」
初めて、エドガーは素直に尋ねた。
父は、しばらく黙っていた。
「領民の話を聞け。帳簿だけではなく、実際に村を歩け。何に困り、何を必要としているのか、自分の目で確かめろ」
「分かりました」
「それから、二度と王太子殿下の名を口にするな。お前が殿下を侮辱した事実は消えない。だが、これから何をするかは、お前次第だ」
エドガーは深く頭を下げた。
その日から、彼は村を回るようになった。
最初は、誰も彼を歓迎しなかった。
当然だった。
侯爵家の息子が、都合のいいときだけやって来たように見えたのだから。
それでも、彼は話を聞いた。
壊れた水路。
不足している農具。
修繕されていない橋。
村人たちの訴えは、彼が想像していたよりもずっと具体的で、切実だった。
エドガーは少しずつ、仕事の進め方を学んでいった。
すぐに成果が出たわけではない。
失敗もあった。
それでも、彼は初めて、自分の働きによって誰かの暮らしが変わることを知った。
ある日、橋の修繕を終えた村人が、彼に頭を下げた。
「ありがとうございました。これで、向こうの町まで荷物を運べます」
エドガーは、返事に困った。
これまで、誰かに感謝されたことは何度もあった。
しかし、その多くは侯爵家の嫡男という立場に対するものだった。
今の感謝は違う。
自分が実際に動いたことに対する感謝だった。
その夜、エドガーは一人で考えた。
もし、あのとき。
アレクシスの努力を認めていたら。
彼の話を聞いていたら。
クラリッサと一緒になって笑うのではなく、彼の人柄を知ろうとしていたら。
今とは違う未来があったのだろうか。
答えは分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
自分は、何も知らないまま、相手を見下していたのだ。
そして、その報いを受けた。
※
クラリッサが王宮からの招待状を受け取ったのは、それから二か月後のことだった。
正確には、彼女宛てではない。
父であるローゼンベルク公爵宛ての招待状だった。
王太子アレクシスが主催する、地方領主と若手貴族を集めた意見交換会。
その案内状が届いたのである。
「……アレクシス殿下が?」
クラリッサは、父の書斎で招待状を見つめていた。
「そうだ。殿下は、地方の財政や農業政策について、若い貴族たちの意見を聞きたいとお考えらしい」
公爵は淡々と答えた。
「お前が出席することは認めない。だが、私が王都へ向かうことについては、何も言うな」
「お父様、お願いがあります」
クラリッサは、震える声で言った。
「私も、王都へ連れていってください」
公爵の眉が動いた。
「何のために?」
「殿下に、直接謝罪したいのです」
「手紙で断られただろう」
「それでも……」
「クラリッサ」
父は娘をまっすぐ見つめた。
「お前は、本当に謝罪したいのか?」
「もちろんですわ!」
「それとも、殿下が王太子となった今、自分の立場を少しでも取り戻したいのか?」
クラリッサは言葉に詰まった。
「……両方です」
ようやく、それだけ答えた。
公爵は目を閉じた。
「正直に答えたことだけは認めよう。だが、殿下に会えば何とかなると思っているのなら、考えを改めなさい」
「お父様……」
「殿下は、お前に会う義務などない。謝罪を受け入れる義務もない。お前がどれほど後悔していようと、それで過去が変わるわけではないのだ」
クラリッサは唇を噛んだ。
それでも、諦められなかった。
「一度だけでいいのです。直接、お詫びを申し上げたいのです」
公爵は長い沈黙の後、答えた。
「……分かった。王都へ連れていこう。ただし、殿下との面会が許されるとは思うな」
「ありがとうございます、お父様!」
クラリッサは頭を下げた。
久しぶりに、胸の中に希望が灯った気がした。
アレクシスに会える。
直接、謝罪できる。
そして、もしかしたら。
もしかしたら、彼は少しだけでも、自分を許してくれるかもしれない。
彼女は、その可能性にすがった。
しかし、王都に到着した翌日。
彼女の希望は、あっけなく打ち砕かれた。
「王太子殿下は、ローゼンベルク公爵閣下のご出席を歓迎されております」
王宮からの使者は、丁寧に頭を下げた。
「ただし、クラリッサ嬢のご同席については、許可をいただいておりません」
クラリッサは顔を青ざめさせた。
「で、ですが……私は、殿下に謝罪を……」
「その旨は、すでに殿下へお伝えしております」
使者は表情を変えなかった。
「殿下からのご返答は、以前お送りした書簡のとおりです。私的な面会は望まれないとのことでした」
「そんな……」
「ご理解いただけますよう、お願い申し上げます」
使者は一礼して去っていった。
クラリッサは、その場に立ち尽くした。
王太子アレクシスは、彼女が来ることを知っていた。
それでも、会わないと決めたのだ。
彼女は、ようやく理解した。
自分がどれほど会いたいと願っても、相手が望まなければ、それは叶わない。
婚約していた頃は、アレクシスが自分のそばにいることを当然だと思っていた。
自分が会いたいときに会い、自分が話したいときに話し、自分が望むように振る舞わせることができると思っていた。
だが、もう違う。
彼には、彼の人生がある。
そして、その人生の中に、自分の居場所はない。
「……アレクシス様」
クラリッサは小さく呟いた。
「私は、本当に愚かでした」
その言葉を聞く者は、誰もいなかった。
※
意見交換会が開かれた日、エドガーは父の命令で王都へ戻っていた。
彼が王宮に入るのは、婚約破棄騒動以来だった。
大広間は、以前と変わらず豪華だった。
金色の装飾。
磨き上げられた床。
貴族たちの華やかな衣装。
しかし、エドガーにとっては、すべてが別の世界のものに見えた。
以前なら、彼はこの場で誰よりも目立とうとしていただろう。
しかし、今は違った。
彼は壁際に立ち、他の貴族たちの話に耳を傾けていた。
「王太子殿下は、地方の水路整備に予算を回すおつもりらしい」
「税収が安定すれば、長期的には国庫にも利益がある。実に合理的な政策だ」
「しかも、地方の若手貴族にも意見を求めておられるという。王太子殿下は、身分よりも能力を重視される方なのだろう」
エドガーは黙って聞いていた。
アレクシスは、以前からそういう人間だった。
目立たない場所にいる者にも目を向け、必要なものを考える。
それを、自分は地味だと笑った。
やがて、会場の扉が開いた。
「王太子殿下のご入場です!」
貴族たちが一斉に頭を下げた。
アレクシスが姿を現した。
黒髪に青い瞳。
以前と同じ顔立ち。
しかし、立ち姿には確かな威厳があった。
彼は貴族たちに穏やかに挨拶し、会場を見渡した。
その視線が、一瞬だけエドガーのところで止まった。
エドガーの心臓が跳ねた。
目が合った。
ほんの一瞬だった。
アレクシスは、わずかに頷いた。
それだけだった。
怒りも、侮蔑も、復讐心も感じられなかった。
まるで、そこにいる一人の貴族を認めたというだけの反応だった。
エドガーは、なぜか胸が苦しくなった。
自分は、彼に憎まれているとさえ思っていた。
だが、違った。
彼にとって、自分はもう、特別に憎むほどの相手でもないのだ。
その事実が、何よりも残酷だった。
意見交換会では、アレクシスが各領地の報告に耳を傾けた。
問題点を指摘し、具体的な改善案を示し、必要な予算について質問する。
その姿は、エドガーがかつて想像していた王太子像とは違っていた。
ただ威張るだけの権力者ではない。
自分の知らないことを認め、他人の意見を聞き、より良い方法を探す人間だった。
会の終盤、エドガーは勇気を振り絞った。
「……殿下」
アレクシスが振り向いた。
「ハルツ侯爵家のエドガーか」
「はい」
エドガーは深く頭を下げた。
「以前の非礼について、改めてお詫び申し上げます。私は、殿下のことを何も知らず、身勝手な言葉で侮辱しました。弁解の余地もございません」
アレクシスは、しばらく彼を見つめていた。
「そうか」
それだけだった。
エドガーは顔を上げた。
「……殿下。私は、領地で仕事をするようになりました。まだ未熟ですが、領民の暮らしを知り、少しずつ学んでおります」
「それは良いことだ」
アレクシスは穏やかに答えた。
「領民の暮らしを知ることは、領主にとって大切なことだからね」
「はい」
「これからも励むといい」
「……それだけ、でしょうか」
思わず口にしてしまった。
アレクシスは首を傾げた。
「何か、ほかに言うことがあるのか?」
エドガーは唇を噛んだ。
許してほしかった。
昔のように接してほしかった。
もう一度、友人のような関係に戻れるのではないかと、心のどこかで期待していた。
だが、そんなことを願う資格が自分にあるのだろうか。
「……いえ。ありません」
エドガーは再び頭を下げた。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
「うむ」
アレクシスは次の貴族へと向き直った。
エドガーは、その場を離れた。
胸の中に、言いようのない痛みが広がっていた。
彼は、ようやく分かった。
謝罪とは、許してもらうためにするものではない。
自分が犯した過ちを認め、その責任を引き受けるためにするものなのだ。
許されるかどうかは、相手が決めることだった。
そして、アレクシスは、彼を許すとも許さないとも言わなかった。
ただ、過去に囚われず、前へ進んでいた。
それが、エドガーには眩しかった。
※
クラリッサがエドガーと再会したのは、王都を離れる前日のことだった。
二人は、王宮から少し離れた公爵家の宿泊先で顔を合わせた。
「エドガー様……」
クラリッサは、懐かしそうに彼を見つめた。
以前の彼なら、彼女に微笑みかけ、甘い言葉を囁いてくれただろう。
しかし、今のエドガーは違った。
「久しぶりだな、クラリッサ」
「……殿下に、お会いになったのですか?」
「ああ」
「どのようなお話を?」
エドガーは少し考えた。
「謝罪した。それだけだ」
「それだけ……?」
「そうだ」
クラリッサは、目を伏せた。
「……殿下は、私にも会ってくださいませんでした」
エドガーは、何も言わなかった。
「私、ずっと考えていたのです。どうして、あんなことをしてしまったのか。どうして、アレクシス様のことを、あんなにも見下していたのか」
「……」
「でも、考えれば考えるほど、分からなくなるのです。私は、あの方が王子だと知らなかった。それなのに、あの方は私を責めようともなさらない。私がどれほど後悔しているか、ご存じないのかもしれません」
エドガーは静かに言った。
「いや。殿下は、知っているだろう」
「え?」
「君が後悔していることも、謝罪したがっていることも、知ったうえで会わないと決めたのだと思う」
クラリッサの顔が青ざめた。
「そんな……」
「俺も、会って謝罪した」
エドガーは窓の外を見つめた。
「殿下は、謝罪を受け取ったとも、許したとも言わなかった。ただ、これからも領地の仕事に励めと言った。それだけだ」
「では、私たちは……」
「もう、殿下の人生には必要ないんだろう」
クラリッサは、その場に座り込んだ。
「そんなこと、言わないでください……」
「だが、事実だ」
エドガーの声は静かだった。
「俺たちは、殿下が何者かを知らなかった。だが、身分を知らなかったからといって、あの人を侮辱していい理由にはならない」
クラリッサは、何も言えなかった。
「俺は、君を責めるつもりはない。俺自身、同じことをしたのだからな」
エドガーは苦笑した。
「だが、もう戻れない。あの頃には」
二人の間に、長い沈黙が流れた。
かつて、二人は互いを選んだ。
アレクシスを捨て、二人で幸せになるつもりだった。
だが、今ではどうだろう。
エドガーは侯爵家の後継者ではなくなり、地方で領地経営を学んでいる。
クラリッサは公爵令嬢という肩書きを持ちながら、社交界から遠ざけられ、家の中で暮らしている。
二人とも、かつて望んだ未来を失った。
「……エドガー様」
クラリッサが、か細い声で尋ねた。
「私たち、幸せになれるのでしょうか」
エドガーはすぐには答えなかった。
やがて、静かに言った。
「分からない」
その言葉に、クラリッサは涙を流した。
「ですが、少なくとも、誰かを踏みにじらなければ幸せになれないと思うのは、もうやめるべきなのでしょう」
エドガーは、そう続けた。
クラリッサは顔を上げた。
彼の表情には、かつての傲慢さはなかった。
そこにあったのは、後悔と、ほんの少しの決意だった。
彼女は思った。
もし、あの頃の自分が、彼の言葉を聞けていたら。
もし、自分がアレクシスの努力を認め、彼の人柄を知ろうとしていたら。
今とは違う未来があったのだろうか。
しかし、過去は変わらない。
自分たちが選んだ道の先に、今の現実がある。
それだけは、否定できなかった。
※
第八話 それぞれの未来
それから三年が経った。
アレクシスは二十二歳となり、王太子として国政の中心を担っていた。
彼が進めた地方財政の改革は成果を上げ、農業生産は回復し、国境の防衛体制も強化された。
国王アルベルト三世は、息子を信頼し、重要な政務を任せるようになっていた。
一方、レオナルトは王宮での政務から離れ、地方の行政を学ぶ立場に置かれていた。
彼は母の罪に直接関与していたわけではなかったが、自分の能力不足を認め、少しずつ変わろうとしていた。
ヴィクトルもまた、自らの立場を見つめ直し、王家の一員として責任を果たす道を探していた。
王宮は、少しずつ変わり始めていた。
そして、アレクシスの名は、王国の各地で知られるようになった。
彼の政策によって生活が改善した領民たちは、王太子を称賛した。
だが、彼は自分を称賛する声に溺れることはなかった。
常に報告を読み、現場の声を聞き、失敗を認めて改善した。
その姿勢こそが、彼を真の王太子たらしめていた。
※
クラリッサは、二十三歳になっていた。
彼女は、もはや華やかな舞踏会に出席することはなかった。
公爵家の財政は、父の努力によって多少持ち直していたものの、以前のような栄華を取り戻すことはできなかった。
彼女自身も、領地の慈善事業や孤児院の運営を手伝うようになっていた。
最初は、父に命じられたからだった。
しかし、そこで出会った子供たちは、彼女を公爵令嬢として扱わなかった。
ただ、一人の大人として接した。
彼女が贈り物をすれば喜び、失敗すれば笑い、困ったことがあれば遠慮なく助けを求めた。
そこには、身分を利用した駆け引きも、媚びへつらう態度もなかった。
クラリッサは、少しずつ変わっていった。
ある日、孤児院の少女が尋ねた。
「クラリッサ様は、どうしていつも悲しそうなの?」
彼女は、答えに困った。
「……昔、大切な人を傷つけてしまったの」
「その人に、ごめんなさいって言った?」
「ええ」
「許してくれた?」
クラリッサは、静かに首を横に振った。
少女は不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、これからは、その人に嫌なことをしないように生きればいいんじゃない?」
クラリッサは、目を見開いた。
「……そうね」
少女は笑った。
「それなら、できるでしょう?」
クラリッサは、思わず涙をこぼした。
彼女は初めて、誰かに許してもらうことだけが、償いではないのだと理解した。
アレクシスは、もう自分を必要としていない。
それでも、自分が誰かの役に立つことはできる。
過去を取り戻すことはできなくても、これからの生き方は選べる。
クラリッサは、子供の頭を優しく撫でた。
「ありがとう。あなたのおかげで、少しだけ分かった気がするわ」
その日から、彼女は自分にできることを続けた。
誰かに褒められるためではない。
王太子に許してもらうためでもない。
自分が犯した過ちを、二度と繰り返さないために。
※
エドガーもまた、二十四歳になっていた。
彼は侯爵家の後継者には戻れなかった。
弟のフレデリックが正式に家督を継ぐことが決まり、エドガーは地方領の管理を任されていた。
当初、彼はその立場を屈辱だと考えていた。
だが、今では違う。
自分が管理する領地には、暮らしている人々がいる。
彼らには家族があり、仕事があり、将来がある。
自分の判断一つで、その暮らしが変わる。
それを理解したとき、エドガーは初めて、貴族という立場の意味を知った。
ある日、彼は父から一通の手紙を受け取った。
『お前の領地経営について、良い報告を聞いている。
まだ改善すべき点は多いが、以前のお前とは違うようだ。
これからも、領民を第一に考えよ。
それができるならば、お前はお前なりの道を歩めるだろう。
父より』
エドガーは、何度もその手紙を読み返した。
父に認められることを、ずっと望んでいた。
しかし、以前は地位を取り戻すことばかり考えていた。
今は違う。
たとえ侯爵家を継げなくても、自分にできることはある。
そう思えるようになっていた。
彼は窓の外を見た。
村では、子供たちが走り回っていた。
修繕された水路には水が流れ、農地には作物が育っている。
その光景を見て、エドガーは静かに微笑んだ。
自分が失ったものは、戻らない。
王都での華やかな生活も、侯爵家の嫡男という地位も、アレクシスとの関係も。
すべて、過去のものだ。
だが、これからの人生まで失ったわけではない。
彼は机に向かい、次の事業計画を書き始めた。
それは、誰かに見せるための報告書ではなかった。
自分が責任を持つ領地を、少しでも良くするための計画だった。
※
その年の秋、アレクシスは王宮で一通の報告書を読んでいた。
ローゼンベルク公爵領の慈善事業について。
ハルツ侯爵領の財政改善について。
どちらも、以前より良い成果を上げているという内容だった。
「……そうか」
アレクシスは、静かに書類を閉じた。
王室秘書官が尋ねた。
「殿下。お知り合いの方々でございますね」
「ああ。以前、少し縁があった人たちだ」
「何か、お言葉をかけられますか?」
アレクシスは首を横に振った。
「いや。彼らは彼らの場所で、やるべきことをしている。それでいい」
秘書官は一礼した。
アレクシスは再び窓の外を眺めた。
かつて、自分を見下し、婚約を破棄した者たち。
彼らに対して、今さら怒りはなかった。
許したというわけでもない。
ただ、もう彼らの行動に自分の人生を左右されることはなかった。
自分は自分の道を歩く。
彼らは彼らの道を歩く。
それだけのことだった。
アレクシスは机の上に積まれた次の書類へ手を伸ばした。
王国には、まだ解決すべき問題がいくつもある。
救いを必要とする民もいる。
自分には、やるべきことがあった。
過去を振り返っている時間はない。
「次の案件を持ってきてくれ」
「かしこまりました、殿下」
秘書官が部屋を出ていく。
アレクシスは、再び書類に目を落とした。
その横顔には、迷いも憎しみもなかった。
彼はもう、婚約破棄された子爵家の三男ではない。
王国の未来を背負う王太子だった。
そして、かつて彼を見下した二人も、ようやく自分たちの人生を歩き始めていた。
ただし、失ったものが戻ることはない。
それが、彼らの選んだ道の代償だった。
クラリッサは、最後まで王太子妃にはなれなかった。
エドガーは、最後まで侯爵家の嫡男には戻れなかった。
二人は、自分たちが望んだ未来を失った。
それでも、これからの人生をどう生きるかは、まだ自分たちで選べる。
かつて、彼らは一人の青年の価値を見誤った。
そして、その青年は、彼らがいなくとも幸福になれる人間だった。
その事実を理解するまでに、二人はあまりにも多くのものを失ったのである。
王宮の窓から、秋の陽光が差し込んでいた。
アレクシスは前を向いて歩いていく。
クラリッサとエドガーもまた、それぞれの場所で歩き始める。
三人の道が再び交わることは、おそらくないだろう。
それでよかった。
人は、誰かを傷つけた過去を消すことはできない。
だが、その過去を抱えながら、別の生き方を選ぶことはできる。
そして、アレクシスを捨てた二人にとって、それこそが、これから生きていくた




