9 湯気の向こうの距離
お礼のランチは、和食にした。
朝倉なりの、ささやかな配慮だった。
山本はいつも、昼休みになるとコンビニの袋をぶら下げて休憩スペースに現れる。総菜パンかカップ麺、それにブラックコーヒー。紙コップを片手にパソコンを眺めながら、静かに食べている姿を何度も見てきた。
甘いものは嫌いじゃないみたいだけれど、食事に関してはどうも無頓着だ。
それに、顔色が少し青白い。
きっと寝不足だし、野菜も足りていない。
だから朝倉は、揚げ物やハンバーガーの店は避けた。
駅前の通りから一本、細い路地に入ったところ。木の引き戸に白いのれんが掛かった、小さな和食屋がある。昼は焼き魚定食が人気らしく、いつも会社員でにぎわっている。
店の前で、山本が立ち止まった。
「ここでいいんですか?」
少し驚いたような声だった。
「嫌ですか?」
「いや……そういうわけじゃないんですけど」
山本は店の看板を見上げて、少し笑う。
「意外だなと」
朝倉は首をかしげる。
「何がですか?」
「もっとこう……」
言いかけて、山本は少し言葉を探すように視線を泳がせた。
「フラペチーノとか飲んでそうだなと」
朝倉は思わず吹き出した。
「私、毎日フラペチーノ飲んでると思ってました?」
「……少し」
「ひどい」
そう言いながらも、どこか嬉しい。
自分のことを、多少は想像してくれていたということだからだ。
引き戸を開けると、店内にはやわらかな出汁の香りが漂っていた。昼のピークは少し過ぎていて、店内は落ち着いた空気に包まれている。
二人は窓際の席に並んで座った。
山本は銀だらの煮付け。
朝倉は焼き鯖定食。
ほどなくして運ばれてきた定食は、湯気が立ちのぼり、味噌汁の香りがふわりと広がった。白いご飯に、焼きたての魚、小鉢のひじき。いかにも“ちゃんとした昼ごはん”だ。
山本は箸を持ちながら、少し感心したように言った。
「こういうご飯、久しぶりです」
「やっぱり」
「やっぱり?」
朝倉は思わず言ってしまう。
「顔色、悪いですもん」
言ってから、あ、と小さく息をのんだ。
山本は一瞬だけ目を丸くして、それから苦笑した。
「失礼ですね」
「心配してるんです」
言葉が口から出てしまってから、朝倉は自分で驚いた。
距離が近すぎただろうか。
でも山本は怒る様子もなく、味噌汁を一口すすった。そして、ほっとしたように息をつく。
「……優しいですね」
その一言が、思った以上に重かった。
朝倉は慌てて笑う。
「三倍返しですから」
「今日は俺が払うはずでは?」
「あ、そうだった」
二人で、少し笑った。
焼き鯖の皮を丁寧に外す山本の手元を、朝倉はなんとなく見ていた。
指が長くて、思っていたよりもきれいな手だった。
会社ではいつもキーボードを叩いている姿しか見ていない。こんなふうに食事をしているところを見るのは初めてだ。
一方の朝倉は、煮付けの小骨に少し苦戦していた。
その様子に気づいたのか、山本がさりげなく皿の向きを変える。
「こっちから取ると、外れやすいですよ」
朝倉は少し驚いた。
「……詳しいですね」
山本は少しだけ肩をすくめる。
「昔は、ちゃんとした家でしたから」
どこか自嘲めいた言い方だった。
朝倉は、その言葉の意味を深く聞くことはしなかった。ただ、胸の奥が少しだけきゅっとする。
この人は、自分よりずっと長く生きている。
その分、きっといろんなことを経験してきたのだろう。
でも今は。
目の前で湯気の立つ味噌汁を飲んでいる、ただの人だ。
「山本さん」
「はい」
「また来ましょうね」
言ってから、朝倉は少しだけ後悔した。
さすがに距離が近すぎただろうか。
けれど山本は、少しだけ考えてからうなずいた。
「そうですね」
そして、ほんの少し笑う。
「顔色改善のために」
朝倉も笑う。
「そうです。健康プロジェクトです」
店を出ると、冬の空気がひんやりと頬に触れた。
空は澄んでいて、昼の光がやわらかい。
並んで歩きながら、朝倉はそっと山本の横顔を見る。
さっきより、ほんの少しだけ血色が良くなった気がした。
それが気のせいでもいい。
こうして同じ湯気を吸って、同じご飯を食べて、少しずつ距離が縮まればいい。
会社に戻れば、またいつもの席。
斜め向かいのデスク。
でも、今日からはきっと少し違う。
ただの同僚じゃない。
――一度、同じ定食を食べた仲だ。
それだけのことなのに、胸が少しだけあたたかかった。




