8 禁止されたバレンタイン
「今年のバレンタインは、全面禁止です」
朝礼の終わり際、総務の酒井さんがきっぱりと言った。
一瞬だけ、会議室の空気がざわりと揺れる。
短く整えられたボブヘアに、きりっと通ったアイライン。酒井さんはこの会社の秩序を守ることに、ほとんど使命感のようなものを持っている人だ。
俺――山本は、配布された資料に目を落としたまま、その宣言を聞いていた。
バレンタイン全面禁止。
ふうん、と思うだけだ。
正直、自分にはあまり関係のない話だった。
甘いものは嫌いではない。むしろ好きなほうだ。けれど、期待するような年齢でもない。四十を過ぎてからというもの、義理チョコの数も年々減り、最近ではゼロの年も珍しくない。
社内イベントが一つ減る。それだけの話だ。
仕事が滞らなければ、それでいい。
そう思っていたときだった。
「え!?」
斜め向かいの席から、あまりにも素直な声が上がった。
思わず視線をモニター越しに滑らせる。
朝倉さんだった。
大きな目をさらに丸くして、口をぱくぱくさせている。ハイトーンの髪を後ろでゆるくまとめ、指先では今日も少し華やかなネイルが光っていた。
若い子は、イベントごとが好きだからな。
――いや、もしかしたら本命でもいるのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと考える。
俺には関係のない話だ。
そう思って、また資料に目を戻した。
◆◆◆
朝礼で「全面禁止」と言われた瞬間、朝倉の頭の中では何かが音を立てて崩れ落ちていた。
(え、禁止!? まじで!? オワッタ!)
心の中で絶叫する。
今日まで水面下で温めてきた作戦が、開始前に失敗した。
山本さんは、たぶん義理チョコなんてほとんどもらわないタイプだ。というか、もらったとしても「ありがとう」と困ったように笑うだけで終わりそうな人だ。
だからこそ、自然な形で渡すつもりだった。
“日ごろの感謝です”
そう言ってチョコを渡す。
そして冗談っぽく、
「三倍返しでお願いしますね〜」
と付け加える。
山本さんはきっと困った顔で笑う。
「三倍は高いな」
そう言うはずだ。
そこから、
「じゃあランチで」
という流れに持っていく。
完璧な作戦だった。
なのに。
全面禁止。
酒井さんの視線は鋭く、明らかに本気だ。
これは完全に監視モードである。
(終わった……)
◆◆◆
――とはいえ。
恋する乙女は、そう簡単には諦めない。
翌日には朝倉はすっかり立ち直っていた。
そして今日は、二月十四日。
バレンタイン当日。
デスクに座りながら、机の下でこっそり手を握りしめる。
足元のバッグの中には、小さな紙袋が入っている。
昨日、仕事帰りにデパ地下まで行って買ってきた。
派手すぎず、地味すぎない。
個包装で上品なチョコレート。
パッケージは落ち着いた紺色にした。
ギャルが選んだと思われないように、かなり悩んだ結果だ。
値段は、少しだけ見栄を張った。
◆◆◆
昼休み。
山本はいつものように社内の休憩スペースにいた。
コンビニで買った総菜パンを片手に、静かに昼食をとっている。
すると、斜め向かいの椅子ががたんと揺れた。
顔を上げると、朝倉さんが立っている。
そして、少し身を乗り出して小声で言った。
「山本さん」
「うん?」
いつもより、どこか真剣な顔だった。
それだけで、胸の奥がわずかにざわつく。
「今日って、二月十四日ですよね」
「そうですね」
「チョコレート、好きですよね?」
嫌な予感がして、つい返してしまう。
「禁止って言われましたけど」
「言われましたね」
朝倉さんは、うんうんと頷いた。
そして次の瞬間。
俺の膝の上に、そっと紙袋を置いた。
「これ、バレンタインじゃないです」
「……はい?」
「日ごろの感謝です。イベントとは関係ありません」
理屈がだいぶ無理やりだ。
山本は紙袋と朝倉の顔を交互に見た。
よく見ると、彼女の耳がほんのり赤い。
「酒井さんに見つかったら怒られるよ」
「見つからなきゃセーフです」
きっぱりと言い切る。
その勢いに、思わず笑いそうになる。
「どうして俺に?」
つい、聞いてしまった。
朝倉は少しだけ視線を逸らした。
「以前、助けてくれたから」
ぽつりと続ける。
「あのとき、私ほんとにやばくて……」
思い出す。
酒井さんに厳しく詰められて、俯いていた彼女の姿。
派手な見た目のせいで、余計に叱られていた。
あれは、見ていられなかっただけだ。
「大したことはしてないよ」
「しました」
きっぱり。
「だから、お礼。三倍返しでお願いします」
やっぱりそれか。
山本は思わず笑った。
「三倍は無理」
「えー」
「ランチ一回でどう?」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
朝倉の目が、ぱあっと輝く。
「いいんですか?」
「三倍より安いでしょう」
「じゃあ、今週金曜で!」
話が早い。
山本は紙袋を受け取った。
まだ中身は見ていないが、手の中にずしりとした重みがある。
斜め向かいの席に戻る朝倉の背中は、どこか跳ねるように軽かった。
若さに、少し傷ついているつもりだった。
けれど本当は――
そのまぶしさに、救われているのかもしれない。
モニターに向き直りながら、山本は小さく息を吐く。
金曜のランチ。
それだけのことなのに。
少しだけ、楽しみだった。




