5 春色ネイルと『似合ってるね』
「山本さん、ちょっと見てください。桜モチーフのネイルです」
朝、パソコンを立ち上げたばかりの静かなオフィスで、私は椅子を少しだけ後ろに引いた。斜め向かいの席にいる山本さんに向かって、そっと手を差し出す。
指先を軽く広げて、見えるように。
新しく塗り替えたネイル。
山本さんは、少しだけ驚いたように目を上げて、それから私の手元に視線を落とした。
ほんの一瞬。
それから、いつもの落ち着いた声で言った。
「似合ってるね」
たったそれだけだった。
でも、その瞬間。
心の中では、クラッカーが盛大に鳴り響いた。
パーン、パーンって。
顔には出さないようにしているけれど、内心は完全にお祭り状態だ。
だって、山本さんに褒められた。
しかも、ちゃんと目を見て。
山本さんは、どちらかといえば保守的な人だ。
流行のど真ん中を追いかけるタイプじゃない。
派手な色よりベーシック。
盛るより整える。
きちんとしているもの、落ち着いたもの、そういうものを好む人。
だから今回は、ちょっと考えた。
いつもなら選ぶ、はっきりしたカラーはやめた。
ラメも控えめ。
ベースは淡い桜色。
よく見ないと分からないくらいの小さな花びらを、薬指にひとつだけ。
春っぽくて、でも静かで。
正直、少しだけ不安だった。
物足りないかな、とか。
私らしくないかな、とか。
ネイルって、わりと気分が出る。
今日の私は、ちょっとだけ大人しすぎるかもしれない。
そんなことを思いながら見せたのに。
「似合ってるね」
低くて、落ち着いた声。
それだけで、全部報われた気がした。
私は何事もなかったみたいにパソコンへ向き直る。
キーボードを打ちながら、こっそり自分の指先を見た。
淡いピンクが、蛍光灯の光を受けて柔らかく光っている。
にやける。
やばい、止まらない。
画面に映る自分の顔が、ほんのり緩んでいるのが分かる。
仕事中なのに。
でも、後悔はない。
むしろ大正解だった。
山本さんの「似合ってるね」は、流行のどんな褒め言葉よりもずっと効く。
春はまだ少しだけ冷たい。
朝の空気も、窓の外の風も、まだ冬の名残を残している。
それでも。
私の指先と心は、もうとっくにあったかかった。




