4 指先の春
駅から会社に向かう道は、今日もビル風が容赦なく吹き抜ける。
コートの隙間に冷たい風が入り込み、思わず背中を丸める。
春はまだ名ばかりだ。街路樹の蕾は固く、空気は冬の残り香をまとっている。
そんな朝、向かいの席の同僚、朝倉の指先がやけにきらきらして見えた。
「見てください、桜モチーフのネイルです」
ひらりと掲げられた指先には、淡いピンク色のベースに小さな花びらが描かれている。光を受けて透けるように見え、手元だけで春の香りを感じさせる。
若い。眩しい。
その指先を見ているだけで、こちらの乾いた冬の心まで、少しずつ柔らかくなるようだった。
「……似合ってるね」
出てきた言葉はそれだけだった。もっと言いたかったのに。
春を先取りした素敵さ、指先まで季節を運んでくる華やかさ、そういうことを伝えたかった。
でも口から出たのは、似合ってるね、の一言だけ。
朝倉はくっと笑い、弾けるように言った。
「ありがとうございます! テンション上がるんですよね、こういうの」
その笑顔は、春の柔らかな陽射しみたいにまぶしい。
俺は乾いた手でマウスを握りながら、自分の指先をちらりと見た。
無骨で、潤いもない。季節感なんて、どこにもない。
ビル風は相変わらず冷たい。
だが、向かいの席だけには、ひと足早く春が来ているようだった。
おじさんは、今日も背中を丸めながら、そっと春を眺める。
指先に宿る季節の輝きを、ただじっと、見つめるだけだった。
朝倉のネイルは、桜の花のように小さく、でも確実に、冬の重みを溶かしていた。
春の香りは手元だけでなく、心にもふわりと届く。
俺は深呼吸を一つして、今日もパソコンの前に座る。
冷たい風の朝でも、向かいの席に小さな春がある。それだけで、少しだけ生きる気力がわいてくるのだった。




