3 インナーカラーの向こう側
その日、出社して最初に思った。
――あれ、朝倉さん、なんか違う。
斜め向かいの席に座る彼女は、いつも通りパソコンを立ち上げている。背筋をすっと伸ばして、モニターに向かう姿勢も変わらない。長いまつ毛、はっきりした目元。派手めの見た目で、社内でもわりと目立つ存在だ。
なのに、今日はどこか違って見えた。
俺はモニター越しに、ちらちらと彼女の様子をうかがう。
服装だろうか。いや、昨日と大きく変わった感じはない。
メイク?それも違う気がする。
なんだろう、と考えていると、朝倉さんがふと髪を耳にかけた。
その瞬間、分かった。
髪だ。
黒に近い落ち着いた色の髪が、ふわりと揺れる。その奥から、ほんの一瞬、明るい色がちらっと見えた。
今の、なんだ?
思わずもう一度目で追う。すると彼女が少し首を動かした拍子に、また同じ色がのぞいた。
外側の髪はいつも通りなのに、内側だけ、違う色になっている。
不思議な髪型だ。
俺が知らないだけで、最近はこういうのが普通なのかもしれない。
若い人たちの世界は、時々こういうことがある。
知らない単語。知らない服。知らない文化。
気づけば、俺が知らないことを、彼らは当たり前みたいに使いこなしている。
ぼんやり眺めていると、会議室の扉が開いた。
総務の酒井さんが出てくる。
年季の入ったきっちりしたボブヘア。ぴしっと引かれたアイライン。姿勢も歩き方も隙がなく、社内の秩序を守る守護神みたいな人だ。
その視線が、フロアを横切る。
そして、朝倉さんの頭のあたりで止まった。
あ、と思ったときにはもう遅かった。
「朝倉さん」
静かな声だった。でもよく通る。
フロアの空気が、わずかに固まる。
朝倉さんが顔を上げた。
「はい?」
酒井さんの視線が、まっすぐ髪へ向けられる。
「その髪」
一拍。
「色、入ってるわよね」
一瞬、沈黙が落ちた。
朝倉さんは少しだけ困ったように笑う。
「あ、これですか」
指先で髪を持ち上げる。
「インナーカラーっていうやつで」
インナー……カラー?
初めて聞く言葉だ。
「外からはあんまり見えないやつなんですけど」
彼女が髪をひらっとめくる。
内側から、淡いピンクの色が見えた。
なるほど。さっき見えたのはこれだったのか。
酒井さんの眉が、わずかに寄る。
「うちは接客業ではないけれど」
声は穏やかだ。
「派手な見た目は、できれば控えてもらいたいの」
穏やかだけれど、温度は低い。
「派手、ですか?」
朝倉さんは首を少し傾げた。
「外からはほとんど見えないですし、仕事にも支障は――」
「時々でも見えれば同じです」
ぴしゃり、と言葉が落ちる。
「社会人としての自覚を持ってもらわないと」
周りの視線が、また集まる。
朝倉さんは一瞬口を閉じた。
何か言い返すかと思ったが、そうはしなかった。
「……すみません」
小さく頭を下げる。
それで話は終わった。
酒井さんは満足したように頷き、自分の席へ戻っていく。
フロアは再び、キーボードの音に満ちた。
何事もなかったように。
俺もマウスを握り直す。
画面に視線を落とす。
でも、なんとなく仕事が頭に入らない。
インナーカラー。
そういうものがあるのか。
髪の内側だけ色を変えるなんて、昔は聞いたことがなかった。
若い人たちは、いろんなことを試す。
新しい服。新しい言葉。新しい髪型。
挑戦する余地が、まだたくさんある。
俺はどうだろう。
新しい髪型なんて、もう何年もしていない。
美容院では、いつも同じことを言う。
「いつも通りで」
それで通じる。
服も同じだ。安全な色。無難な形。
挑戦しない。
いや、できない。
似合わなかったらどうしようとか。
年相応じゃないとか。
そんなことばかり考えてしまう。
気づけば、変わらないことが一番楽になっている。
ふと視線を上げる。
朝倉さんは、もう普通に仕事をしていた。
さっきのことなんて気にしていないみたいに。
でも、キーボードを打つ指のネイルが、いつもより少し速く動いている気がした。
若者はいいな、と思う。
挑戦できて。
怒られて。
それでもまた、次を試せる。
俺はもう、そういう年じゃない。
そう思ってしまう自分に、少しだけ落ち込む。
モニターの黒い画面に、自分の顔がぼんやり映る。
腹は出ていない。
ハゲてもいない。
でもきっと俺はもう、インナーカラーなんて発想すら浮かばない側の人間なのだ。




