14 またあなたと
――好きです。
その一言は、夜のオフィスの空気を確かに変えた。
蛍光灯の白い光が、広いフロアを静かに照らしている。昼間なら、キーボードの音や電話の声、コピー機の低い唸りが絶えず流れている場所だ。
けれど今は、何も聞こえない。
ただ、二人分の呼吸と、微かな空調の音だけがある。
朝倉さんが、こちらを見ていた。
真っすぐに。
逃げ場がないくらい、まっすぐに。
その視線に押されるようにして、俺の口から出た言葉は、ほとんど反射みたいなものだった。
「……困るな」
本音だった。
嬉しくないわけじゃない。むしろ、嬉しい。
けれど、それ以上に戸惑いが大きかった。
俺は四十代だ。
ついこの前までは三十代だと思っていたのに、いつの間にか数字は一つ増えている。体力は確実に落ちてきているし、夜更かしをすれば翌朝に響く。
ラーメンを一杯食べただけで、胃が重くなる日もある。
朝起きたとき、まず確認するのは体の調子だ。腰は大丈夫か、肩は固まっていないか。そんなことを気にする年齢になっている。
それに比べて、朝倉さんは――若い。
言葉にすれば簡単だが、その差は大きい。
未来の長さが違う。
これから経験すること、選べる可能性、進める道。そういうものが、彼女の前にはたくさん広がっている。
そんな人の時間の中に、自分が入り込んでいいのだろうか。
頭の中で、そんな考えがぐるぐると回る。
なのに。
目の前の彼女は、逃げなかった。
さっきまで手が震えていたはずなのに、今はしっかりとこちらを見ている。
覚悟を決めた顔だった。
こんな表情もするのか、とふと思う。
仕事中に見せる明るい笑顔とも、ネイルを見せながら楽しそうに話すときの無邪気な顔とも違う。
真剣な顔。
俺は小さく息を吐いた。
「……朝倉さん」
「はい」
間髪入れない返事だった。
思わず少し笑ってしまう。
本当に、逃げないんだな。
「俺さ」
言葉を探す。
何をどう言えばいいのか分からないまま、それでも口を開いた。
「もう若くないんだよ」
自分で言うと、やっぱり少し情けない。
「朝起きると、まず腰の様子うかがうし」
朝倉さんの目が、ぱちっと瞬いた。
「健康診断の結果に一喜一憂するし」
その目が、少し柔らかくなる。
「休日は、だいたい寝て終わる」
実際はそれに加えて、スーパーの特売チラシを見るのがちょっとした楽しみだったりする。
でもそこまでは言わなかった。
少しの沈黙が落ちる。
俺は視線を一度だけ床に落としてから、もう一度彼女を見る。
「それでもいい?」
朝倉さんの目が、少し丸くなった。
だから、つい言ってしまった。
「ピチピチじゃなくてもいい?」
言った瞬間、しまったと思った。
また使った。
死語。
しかも自分で自分を形容する言葉としては、だいぶ残念な部類だ。
けれど。
朝倉さんは一瞬ぽかんとしたあと――
ぱっと笑った。
「もちろん!」
驚くほど元気な声だった。
しかも、やけに嬉しそうだ。
「むしろその言い方、好きです」
好きなのか。
時代はよく分からない。
「山本さん、優しいし」
指を一本立てる。
「ちゃんと話聞いてくれるし」
もう一本指が増える。
「あと、笑うと目のところにシワできるのも好きです」
思わず目元を触りそうになった。
そこが好きポイントなのか。
「それに」
少しだけ声が小さくなる。
「私、山本さんといると落ち着くんです」
その言葉は、静かに胸に染みた。
若い頃の恋とは違う。
あの頃はもっと、胸がうるさくなるようなドキドキばかりだった。
でも今は違う。
じんわりと温かくなる感じ。
冬の朝に飲む、熱いコーヒーみたいな。
そんな感覚だった。
俺は小さく笑った。
「……それ、褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてます」
真顔で言う。
本当に真っすぐな子だ。
俺は椅子から立ち上がった。
数歩だけ、彼女の方へ歩く。
ほんの数メートルの距離なのに、不思議と遠く感じる。
朝倉さんは、その場で少し緊張した顔をして立っていた。
「じゃあさ」
俺は言った。
「また」
彼女が、息を止める。
「ランチ、行く?」
一瞬の沈黙。
それから。
「行きます!!」
夜のオフィスに、元気な声が響いた。
思わず笑ってしまう。
明日の昼が、少し楽しみになった。
こんな気持ちになるのは、いつ以来だろう。
腹はまだ出ていない。
ハゲてもいない。
けれど、立派な中年のおやじではある。
それでも。
もしかしたら――
まだ、恋くらいはしてもいいのかもしれない。
最後までお読みいただきありがとうございます。




