13 残業の灯りの下で
忘れ物に気づいたのは、家に帰ってからだった。
バッグの中を探りながら、ふと嫌な予感がした。化粧ポーチ、財布、社員証。順番に取り出していくけれど、肝心のものが見当たらない。
明日使う予定の資料のメモ。会社のパソコンで作りながら、途中で手書きで補足した大事な内容だ。
もう一度バッグの中をひっくり返す。ポケットの奥まで確かめる。
それでも、やっぱりない。
「やば……」
思わず小さくつぶやいた。
しばらく立ち尽くしたあと、私はため息をついた。仕方ない。取りに戻るしかない。
夜の街を引き返し、会社のビルに入る。昼間は人の出入りで賑やかなエントランスも、この時間になると妙に静かだ。
エレベーターの扉が閉まり、上昇する間、胸の奥がなぜか少し落ち着かなかった。
会社に戻るだけなのに。
カードキーでフロアのドアを開けると、昼間とはまるで違う空気が広がっていた。
照明は半分ほど落とされ、広いオフィスはほの暗い。昼間は絶え間なく聞こえるキーボードの音やコピー機の稼働音も、今は何もない。
自分の靴音だけが、やけに響く。
誰もいないと思っていた。
でも、ふと視線を上げたとき、気づいた。
斜め向かいの席。
デスクライトが、ぽつんと灯っている。
その光の中に、山本さんがいた。
パソコンの画面に向かい、静かにキーボードを打っている。少し前かがみの姿勢で、仕事に集中している横顔。
昼間よりも、距離が近く感じる。
デスクライトの光が横顔を柔らかく照らしていて、思わず見とれてしまった。
……かっこいい。
胸が、きゅっとする。
少しだけ迷ったけれど、結局声をかけた。
「山本さん、お疲れ様です」
その瞬間、山本さんがびくっと肩を揺らした。
椅子を半分こちらに回して、驚いた顔で私を見る。
「あ……朝倉さん」
まだ少し驚いたままの声だった。
「どうしたの、こんな時間に」
「忘れ物です」
自分のデスクを指さす。
「明日使うメモ、置いてきちゃって」
「ああ、そうなんだ」
それだけ言って、山本さんは小さくうなずいた。
そして、ほんの少しだけ沈黙が落ちる。
山本さんの視線が、ふっと机の上に落ちた。
「……お疲れ様」
少し遅れて、そう言ってくれる。
でも。
その言い方が、どこかぎこちない。
前みたいな自然さがない。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
前は、こんな空気じゃなかった。
ちょっとした雑談をして、笑って。ランチの話をして。
それが、いつの間にかなくなってしまった。
きっと原因は分かっている。
あの噂。
社内で広まった、くだらない話。
山本さんは、きっとそれを気にしている。
でも。
このままなのは、嫌だった。
ずっと気まずいままなんて、耐えられない。
「あの!」
気づいたら、声が出ていた。
山本さんがびっくりしたようにこちらを見る。
「な、なに?」
逃げちゃだめだ。
ここで言わなかったら、きっと何も変わらない。
「私、山本さんに避けられてますよね」
言葉が、思ったよりまっすぐ出た。
山本さんの表情が、一瞬だけ固まる。
「……そんなこと」
「あります」
私はかぶせるように言った。
「ランチ、ずっと断られてるし」
山本さんは黙ったままだ。
やっぱり。
図星なんだ。
「噂のせいですよね」
その言葉に、山本さんの肩がわずかに動いた。
静かなオフィスで、蛍光灯の微かな音だけが聞こえる。
「……朝倉さん」
山本さんが、ゆっくり口を開いた。
「君の時間を、奪いたくないんだ」
予想していなかった言葉だった。
「え?」
「変な噂も立ったし」
視線は、まだ机の上のまま。
「年も離れてるし」
少しだけ笑う。
でも、その笑いはどこか自分を諦めているみたいだった。
「君はまだ若い」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「だから、俺とあんまり一緒にいると」
そこで言葉が止まった。
言わなくても分かる。
迷惑になる。
そう言いたいんだ、この人は。
その瞬間、胸の奥から何かがあふれた。
「私が決めます」
気づいたら、そう言っていた。
山本さんが顔を上げる。
驚いた目。
「誰とランチ行くかとか」
手が少し震えている。
「誰と話すかとか」
でも、もう止まらない。
「私が決めます」
山本さんは何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
逃げ場がなくなった気がした。
でも、もういい。
どうせ噂になってるんだし。
だったら。
「好きです」
言ってしまった。
空気が、ぴたりと止まる。
蛍光灯の白い光の中で、山本さんが固まっている。
やばい。
言っちゃった。
顔が一気に熱くなる。
でも、もう引っ込めることはできない。
しばらくして、山本さんが小さく息を吐いた。
「……困るな」
その言葉に、胸がきゅっと縮む。
やっぱり。
そう思った。
でも。
「でも」
少しの間。
「嬉しい」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、ふわっと軽くなった。
山本さんはまだ困った顔をしている。
それでも、その目は、さっきよりほんの少しだけ優しく見えた。




